Friday, December 7, 2007

柏林与中国的自由主义

UTCPのブログで王前氏のエッセイが紹介されていました。バーリンを中心に英米リベラリズム政治思想史を研究している王前氏が1980年代以降の中国における政治思想研究の動向について紹介したものです(「ベンヤミン、丸山、バーリン、そして中国思想界近況一瞥」)。バーリンといえば、わたしが知っているのは自由の概念を積極的自由と消極的自由に分けたこと、ハリネズミと狐のたとえぐらいのものです。後者は日本語でも岩波文庫に入っているようですね(『ハリネズミと狐』)。王前氏の紹介を読んで改めて再確認されたのは、バーリンがロシア出身のユダヤ人であったということと彼のその後の政治理論との間の関係についてです。中国でのバーリンに対する受容のされ方にもこのあたりの背景が直接間接に作用しているのでしょう。
それにしても、中国では欧米政治思想がかなり幅広い関心を呼び続けているにもかかわらず、なかなかその様子は日本語で伝えられてきませんので、このようなお仕事はたいへん貴重なものだと思います。今後の王前氏の活躍に期待。

Monday, December 3, 2007

华人作家荣获日本文学新人奖

留日中国人杨逸最近获得了一项日本文学新人奖。这无疑是一件快事!八十年代以后陆续从中国大陆东渡此地的许许多多中国人如今在各行各业中扮演着举足轻重的角色。他们在日本奋斗了很多年,有的子女已经到了读大学的年龄,我在大学所教的学生中间也有不少的同学其父母亲来自中国各地。
我在报纸上读到这个消息之后,马上购买了当期的《文学界》杂志,即该奖项的主办刊物。各位评委对获奖作品发表了各自的评语。基本上都对该作品给予了充分的认可。但也有一些意见,比如有几个评委提及了“现代小说”的概念,并说该作品未能摆脱“现代”的框架。我不是搞文学的,但作为一个普通的文学读者,这个说法颇让人费解。他们似乎没有以具有说服力的语言解释为什么当今的文学创作一定要摆脱“现代”。对一个人的生存来说,他所处的境遇和他所要表达的现实无关乎现代后现代。对一个读者来说,更无所谓现代不现代,好比我们都很喜欢阅读古典小说。创作手法上的时代性好像构不成作品的优劣。更何况,杨逸该作品的生命力乃是其记实文学一般的非常写实的生存写照。她所描写的人物和他们的生活都代表着现实上存在的群体生存,他们的生活给作品赋与了震撼力。她要描述此种世界,必须要采取所谓的“现代”方法。所以,问题根本不是该不该“后现代”,而我们通过阅读该作品可以了解到围绕我们的现实生存并没有走出“现代”,我们更需要关注这些。日本社会族裔结构的多样化本是可庆可贺的现象,但这并不等于支配日本社会的思维习惯已经步入了“后现代”,而无数个“现代”在其表象下挣扎着生活。这里面有无数个痛苦,也有同它一样多的希望和骄傲。
希望杨逸女士今后继续在日本的文坛上发表很多对人的生命富有关爱的作品。

日本在住の中国人作家楊逸氏が文学新人賞を受賞しました。これは間違いなく素晴らしいことと言えるでしょう。80年代以降中国大陸から日本へやって来た数多くの中国人たちはすでにさまざまな分野で重要な役割を担っています。彼らは日本での長期間の努力を経て、中には子女が大学へ通う年齢になっている人もいます。わたしが大学で教えている学生の中にも両親が中国の各地からやって来たという人がかなりいます。
新聞でこのニュースを知って、わたしはすぐに今回の賞を主催する『文学界』を買ってきました。各審査委員の講評は、おおむねこの作品を十分に評価したものでしたが、その中には、「近代小説」という概念に言及しつつ、この作品が「近代」のフレームワークから抜け出ていないと指摘しているものがありました。わたしは文学専門ではありませんが、一介の読者という立場からすると、これはわかりにくいものです。彼らは、なぜ現代の文学的創作が「近代」性を抜け出すべきなのかということについて、説得力のあることばで説明していないように見えます。ある人の生きざまという点からすると、その人の境遇やその人が表現しようとしている現実が近代的であるかどうかということは無関係です。読者にしてみればなおのことで、わたしたちは古典小説を好んで読んでいます。創作方法の時代性は作品の優劣に結びつかないのではないでしょうか。さらに言えば、楊逸氏の作品の生命力はドキュメンタリーのような極めて写実的なものがたりです。彼女が描いた人物たちとその生きざまはどれも現実に存在している人々の生きざまそのものであり、それが彼女の作品に魅力を与えているのです。彼女がこうした世界を描こうとするなら、「近代」的な手法を使うしかないでしょう。したがって、問題はポスト近代的か否かということではなく、この作品の読解を通じて、わたしたちを取りまく現実がまだ決して「近代」を脱したわけではないということを知ること、そしてそこに関心を持つということではないでしょうか。日本社会内部のエスニシティの多様化はもとよりよろこばしい現実ではありますが、このことは、日本社会で支配的になっている習慣的な思考のあり方が「ポストモダン」に入ったということを意味しているわけではありません。むしろ、数知れぬほどの「近代」がそうした表象の影でもがきながら生きているのです。それらには数知れぬほどの苦しみがあり、それと同じくらいの数の希望とプライドがあるのではないでしょうか。
楊逸氏が今後も日本の文壇で生命に対する愛情のこもった作品を数多く発表されることを期待したいと思います。

Tuesday, October 30, 2007

冯友兰《三松堂自序》日文版

说到中国哲学,差点儿忘了吾妻重二先生翻译的《冯友兰自传》,顾名思义,该是《三松堂自序》吧。这一阵儿忙完了应该仔细拜读了。

Monday, October 29, 2007

中国思想史著作陆续出版

日本国内的中国思想史研究界最近呈现出近年来少有的出版盛况。我在这里曾介绍的《朱子语类》日文版第一批的刊行无疑是其中最备受关注的例子。除此之外,还有吉田纯《清朝考証学の群像》(2006年12月)、沟口雄三、池田知久、小岛毅三位学界重镇合作撰写的《中国思想史》(2007年7月)、近现代思想史研究的大师级专家野村浩一的《近代中国の政治文化》(2007年10月)、中岛隆博《残響の中国哲学》(2007年9月)和安大玉《明末西洋科学东传史》(2007年8月)等等,不胜枚举。而且,这里凝聚着日本研究中国思想史界老中青三代的各代力量,可谓蔚为大观。如果仔细参互比较,不难发现这些著作相互之间保持良好的学术张力,形成着耐人寻味的多重变奏。
当然,所列之书均根据本人兴趣所趋而举,并非涵盖全面。另外,这里提到中岛老师的第一本日文专著,照作者撰著的意图说的话,也许有点不妥。因为此书着重探讨重构“中国哲学”话语的可能性,实质上不应归入“中国思想史”范畴。但本人今天发帖旨在介绍出版情况,只能如此苟且行事。望见谅。至于对之评论,更只好待后再叙了。
但愿这个繁荣景象能够引起国内外读书界广泛的反响。

Saturday, October 20, 2007

《读书》所陪伴的时代与社会(续)

汪暉:東南アジアを研究している中国の学者はその多くが華人研究、華僑研究を中心としていますし、韓国文化研究では、儒学や漢籍に関する研究が主体です。そのほかの地域も同様です。そこに欠落しているのは世界史という視点であり、本当の意味での地域史ですらありません。わたしたちの自己理解がとても偏っているのです。参照するものが異なれば、理解のしかたも完全に変わってしまいます。中国知識界に人材がいないのではないのですが、視点がしっかりしていないため、ある種のものがながされ、失われてしまっている。参照系がすべて混乱してしまえば自己理解すらなくなってしまうのです。呂新雨さんの先ほどのことばを使えば、「他者other」に言及してしまうとたちどころに間違いだらけになってしまい、あらゆる領域において、ほとんどすべて把握できなくなってしまう。それこそは本当の知の危機です。これまでこうやって多くのことを話し合ってきて、西洋中心論に対する批判も出ましたが、この意味ではわたしたちはやはりそれに支配されているのです。正しいことをずっと言い続けてきたと思ったら、やはりそこでまだ足踏みをしていることに気づくという、これこそは根本的な問題でしょう。
戴錦華:西洋という概念は、あまり軽々しく使わない方がいいのではないでしょうか。いわゆる西洋というのは欧米のことを指しているのですが、ヨーロッパはアメリカとの間で新たなたたかいに入り、ポスト冷戦期を考える際の最も重要な変数になっています。一方で、ヨーロッパから始まった資本主義の拡大は、最初から「グローバル化」したものでした。それ以外の国や地域がそれとぶつかるやいなや、「自己」と「他者」の問題が現れてきます。しかし忘れてはいけないのは、いわゆる主体の構造というのは、つねに「自他構造」であり、他者とは永遠に自己にとっての他者だということです。他から「我」を設定するプロセスの中で、他は自己の一部分に変質していきます。したがって、西洋中心主義は最初から外在的な、単純なものではないのです。今日、アメリカはどこにあるのか?アメリカはわたしたち自身の深いところにいるのです。中国の多くの外貨貯蓄が皆アメリカ連邦政府の証券になっているというときに、アメリカはどこにあると言えますか?(中略)欧米諸国が第三世界に遭遇し、植民地の人々が立ち上がって「人」になろうとしたとき、ヨーロッパの学者たちは、自分たちもまた世界の一つの地域の自己に過ぎないのだということを再認識せざるを得なくなりました。ポスト構造主義とかポストモダンというのは、こういう前提があった上で生まれてきた知なのです。今それをわたしたちが使うとなると、主体/客体、自己、他者という複雑な関係を処理しなくてはならないでしょう。

ところで、『読書』2007年第8期の「編集後記」の最後の一文は次のようなひと言でした。
実は今もう黎明時だ。しかし、なお明暗の狭間である。
センセーショナルなメディア言説の中で消費されることになった「事件」の渦の中で、上海でこうした座談会が開かれていることを、「編集後記」のこのことばと重ね合わせて考えてみれば、変わりゆく時勢の中で、それを見きわめつつ、自らのよって立つべき位置を顧みるという、冷徹な思考の強さが試されているのだとも思われます。

Wednesday, October 17, 2007

《读书》所陪伴的时代与社会

『天涯』2007年第5期の巻末に、《巨变时代的世界观:〈读书〉十年文选座谈会摘要》という題で、汪暉氏を招いた座談会の様子が詳しく報告されています。座談会は90年代半ばの人文精神論争で論争の中心にいた王暁明氏の所属する上海大学の主催で、6月30日に開催されています。北京と上海を代表する豪華な顔ぶれの討論会です。主な発言内容を目につくままに摘録してみたいと思います。前後のつながりを無視して、発言の興味深い部分だけを取り出していますので、異なる発言間で話題の一貫性は保たれていません。申し訳ありませんが、ご諒解ください。

1 『読書』と二十年来の中国や世界の激変
蔡翔(上海大学):『読書』の議論は往々にして知的なレヴェルで展開され、しかもさまざまな専門的な知的バックグラウンドを提供してくれました。これも私が『読書』からしばしば多くの収穫を得ることができた原因ですし、これからも『読書』がこの方向を継続して進めていって欲しいと期待しています。もしこのような成長が、いわゆるわかりやすさとかわかりにくさといった議論を呼ぶのだとしたら、それは問題として成立しない議論だと思います。「読みやすさ」を『読書』に求めるというのはあまりに低次元です。それに、『読書』の30年来の伝統はいわゆる「読みやすさ」ということばでくくれるものではありません。30年来、『読書』がずっと力を注いできたのは、新たな知を広め、歴史や現実に関心を持ち、中国の未来を積極的に探っていくということでした。ですから、『読書』は中国知識界で最も著名な思想のプラットフォームになっただけではなく、思想を伝播するかたちで、中国のあちこちに大小さまざまな知のサークルを形成してきたのです。これこそが『読書』の最も重要な伝統ではないでしょうか。
高瑞泉(華東師範大学):中国の哲学研究は、今、時代をとらえることがまったくできていません。それはときに何らかの知的バックグラウンドとして利用され、個人の修養に利用されていくことがありますけれど、現下の時代性をとらえられていないのです。『読書』はこの10年間で確かに、時代の最も尖鋭な問題をさぐりあてていました。これからもこの方向で大きな役割を果たしていって欲しいと思います。
許紀霖(華東師範大学):『読書』の問題点の核心は、読みやすいかどうかということではないのです。問題は、『読書』を制約している背景的条件にあまりにも大きな変化が生じているということです。それは少なくとも3点挙げられるでしょう。第一に、公共的な文化空間の消失ということです。(中略)1990年代以降、公共知の空間は解体し、個別のディシプリンに分割されました。公共的な問題を論じる文章もあるにはありますが、そこで使われているのは自分の畑の中でしか通用しない隠語であり、畑違いの人にはわかりにくい。読者のほうも専門化されてしまいました。二番目に、1980年代には見られた自由な環境が今ではすっかり失われ、たくさんの問題がタブーになっているということです。何か主張しようという場合に、問題となるのは何を言うのかではなくて、どのようにいうかと言うことであり、専門化された表現であるほど、ある意味で表現の自由を獲得しているという状況です。最後に、1980年代には、啓蒙という基本的なコンセンサスが存在していたということです。多少の分岐はあっても、その背後には基本的なコンセンサスがあったのです。つまり、汪暉氏が当時言っていた「態度の同一性」、近代化に対する同一的な態度のことです。しかし、こうしたコンセンサスは、1990年代半ば以降次第に失われ、さまざまなイデオロギーや専門のディシプリン、ひいては、共約困難なミニ・コミュニティへと分化していきました。専門の細分化というのは知の成熟化のあらわれでもあるのでしょうが、そこではイデオロギーが往々にして情緒的になりがちです。
陳映芳(華東師範大学):『読書』は社会科学化し、専門化したのでわかりにくくなったという人がいます。そこにはちょっと誤解があって、社会科学が問題をはっきりと述べることができていれば、それが理解できないというのはおかしいのです。問題は社会科学では一定の専門的基礎が要求されており、作者にも問題に対する専門的な研究が要求されているということです。『読書』が近年来提出してきた問題には重要なものがいくつかあります。1990年代以来中国では多くの問題が社会レヴェルで爆発的に登場し、知識界や思想界はそれに対する応答を求められてきました。『読書』は中国の問題を世界とかアジアといった背景において理解しようとしてきましたが、それはきわめて必要なことです。しかし、私は社会科学研究者として、それらの文章を読んであまり快く感じられないことがあります。それは専門化しすぎているからではなく、作者の西洋社会科学に対する理解が恣意的であったり、中国の問題に対する深い研究が欠落していると感じられるからです。いい問題が提出されてきたというのに、議論が情緒的だったり、イデオロギー的な文脈の中で展開してしまっている。これでは真正な議論の展開にとって不利でしょう。たぶんそこには原因があって、編集者とか作者の側の原因以外にも、国内の社会科学研究者が、具体的な問題の研究に沈潜している反面、中国の問題と世界的な問題を結びつけ、具体的な問題を思想理論のレヴェルに引き上げて思考するような衝動や能力を欠いているということにも原因があるのではないでしょうか。
2 1990年代初め以来の中国における思想と知の新風景
張汝倫(復旦大学):『読書』がいちばんやるべきなのは、人々に反省と批判の頭脳を提供することであって、流行のタームを容易に受け入れたり、流行しているような事実に関する描写を行うということだけではないでしょう。わたしたちはこれほど多くの現実的問題を抱えているというのに、それを学術的思考のエネルギーに変えていくことができないというのでしょうか?例えば、母親を連れて病院に行く途中で拉致されて、レンガ窯で働かされるといったようなこと、わたしたちはこうしたことについて、ジャーナリスティックな角度から考えるだけでは当然満足できないわけですが、そうなってしまうのは1980年代以降の思想文化の発展全体のうちに何らかの欠落があるということを示しているのです。私はインドの知識人をうらやましく思うことがあります。彼らは自分たちの言葉を持っているような感じがします。それはわたしたちにも実はできることなのですが。
汪暉:歴史叙述の正当性は、今日ではグローバル化をどう評価するか、コロニアリズムの歴史や帝国主義の歴史、民族解放運動の歴史をどうやって再び分析するかということに関わってきます。多くの問題がそのプロセスの中で転化していきました。20世紀にできあがった明確な価値判断や是非の基準が、その中で曖昧になっていきました。左翼右翼ということが言われる一方で、左右の違いが非常にわかりにくくなっている。汝倫はさきほど西洋の知的ヘゲモニーのことを言っていたわけですが、わたしたち自身の歴史を書き直すということも、実際には一つの問題になっているのです。20年の変転を経て、わたしたちは非歴史的な人間になってしまいました。わたしたちはつねに歴史を叙述しているのですが、真正な歴史叙述は構築されてこず、いわゆる価値のすがたのようなものを提供できていないのです。こうした背景のもとで、社会科学や人文学のすべてが直面している危機は実はきわめて深刻なものなのです。中国の知識界でここ数年みられるいさかいには、不愉快な部分がたくさんありますけれども、こうしたいさかいを通して、わたしたちは多少なりとも、ある種のものが浮かび上がってきているのにきづかされます。それはわたしがこうした議論の中で見いだすことのできる最もポジティヴな部分です。例えば、「三農」問題に関する議論によって、多くの学生たちが農村に行くようになり、多くの農民たちが再組織化を行うようになり、多くの歴史的資源がこれらの議論や関連する社会的実践の中から再び取り上げられるようになりました。知識人や若い学生にとって、これは自己教育の運動なのです。こうした自己教育の運動がなければ、歴史を書き直す可能性も生まれてこないでしょう。
戴錦華(北京大学):わたしたちはややもすれば教育の大衆化とか文化の大衆化とか、消費の大衆化などといいますね。それと対照的な言い方をすると、『読書』はアカデミズム小衆化ですね。(中略)国による最も楽観的な統計では、中国のネット人口は2億に満たないということですが、わたしの調査したところでは、「ネチズン」と言い得る人の数はせいぜい数十万といったところです。中国の人口が13億であるということに比べると、ほんの一握りに過ぎません。今日いわれる中国の「大衆文化」は、90%以上が(わたしには統計的根拠があります)、小衆文化です。大作映画のチケットは80元ですけれど、これはアメリカのロードショー映画よりもずっと高いものです。劇場映画はそれでも大衆文化でしょうか?80元を払って『HERO』を見て、ネット上でその悪口を言う、これはたいへん小衆的なグループゲームに過ぎないのですが、どれをとっても、主流コンテクストでは「大衆」と言われています。これは9億の農民「大衆」とはまったく無関係なものではないでしょうか?わたしたちはどうやって中国の大衆問題を語ればいいのでしょう?大衆は人民と同じものなのでしょうか?小衆とはつまり少数ということなのでしょうか?主流の批判は永遠にマージナルな少数のところから生まれてくるものです。知識人には自問し、答えていくべき問題が山ほどあるのです。
3 視野とイマジネーション:中国、アジア、世界
羅崗(華東師範大学):数日前のことですが、ベンヤミンに関するゼミを開いているのですが、東京大学の教授や学生とワークショップを行いました。(中略)わたしたちはベンヤミンも読めば魯迅も読みます。わたしたちから見れば、ベンヤミンも魯迅も第一次世界大戦の衝撃の中から誕生した傑出した思想家であり、世界的危機に対するトータルな応答を構成しているのです。誰が東洋に属し誰が西洋に属しているかということをわたしたちは気にしたことはありません。ベンヤミンの目を借りて今日の中国を見ることもできれば、魯迅の目を借りて今日の中国を見ることもできるのです。アジアという問題が浮かび上がってきても、それをいわゆる東西二元対立の関係に置くべきではないでしょう。以前、ある韓国の学者がいい問題を投げかけていました。つまり、わたしたちが、アジア共同体について語るとき、結局のところ、それは日本、中国、韓国の各国政府が想像しているような経済的共同体に対応しているのだろうか、もしそうだとしたら、わたしたち知識人の立場はどうなってしまうだろうか、と言うのです。これは非常に鋭い問題です。

Saturday, October 13, 2007

所谓“中国道路”,还是“祭如在”?

新左派の代表的論客として有名な甘陽氏は、『読書』2007年第6期に《中国道路:三十年与六十年》と題するエッセイを発表し、この号の巻頭を飾りました。甘陽氏は、この中で中国の近代化プロセスを、孔子・毛沢東・鄧小平という三段階の伝統構築-継承プロセス、すなわち「新時代の“通三統”」であるとして、中国の改革は「儒家社会主義共和国」を目指すべきであると主張しています。「通三統」というのは、中国思想史に明るい人でない限り耳にすることのないような表現ですが、もとはといえば、儒家経典の解釈学派のひとつ、経今文学派が『春秋公羊伝』に対する解釈の中で抽出した概念です。もっとも、今文経学の範疇で「統」は、「伝統」という意味にはなりませんので、孔子・毛沢東・鄧小平という三伝統を貫くという意味での「新時代の“通三統”」説は、甘陽氏が一種のパロディとして用いただけかもしれません。だとすれば、「儒家社会主義共和国」ということばの含蓄についても別の解釈が可能になるでしょう。ただ、このことばが一定以上の魅力とともに論争性を有するものとして中国国内外知識界の関心を呼び起こすものであることは、今日の儒教ブームからしても容易に察しがつきます。だから、甘陽氏の意図がどこにあったかという問題とは別に、こうしたことばは刺激と共鳴をともなってきます。
例えば、『開放時代』2007年第4期に掲載されている蘇力氏(本名は朱蘇力、北京大学)の《费孝通、儒家文化与文化自觉》は、費孝通の農村文化論(礼治秩序、差序構造など)を儒家思想の近代的展開として位置づけつつ、農村社会の礼的秩序を「大国中国」の精神文明の根幹を支える儒家思想の生きつづける源泉として自覚化していく必要を訴える論文です。これなどは、溝口雄三氏の「中国的“公”」論にもつながる議論でもあると同時に、現代新儒家とは異なったかたちで宋代以降の儒家思想を今日的文脈の中で活性化していこうとする試みであるという評価も、とりあえず成立するでしょう。
しかし、当然のことながら、なぜ今にしてまた儒家なのか、どうして儒家でなければならないのか、という根本的な疑問がこのような傾向にはたちどころに生じるのであって、以前紹介した『読書』当該号の編集後記(本ブログ《儒家传统和社会主义》を参照)は、その作者汪暉氏が、全面否定とはとうてい言えないまでも、甘陽氏とはかなり異なった認識を持っていることを十分に伝えています。儒家思想と社会主義がそもそも結びつきうるものなのか、仮にそれが可能であるとして、それはどのように可能なのかという問題が、アクチュアルな状況の中から生起してくるだけの現状が確かに存在しているのらしいということを、この編集後記は伝えています。
一方、『読書』2007年第8期は、甘陽氏に対する応答として、韓東育氏(東北師範大学)の《也说“儒家社会主义共和国”》と王思睿氏の《中国道路的连续与断裂及其他》を掲載しています。王氏は、アメリカ的な「新資本主義(民主資本主義)」とスウェーデン式の「新社会主義(民主社会主義)」と、両者の中間としての混合モデル以外に参考となるべきモデルはなく、両者いずれをとるにしても憲政デモクラシーの実現こそが、最低限の要件になると主張するとともに、「儒家の共和国」という言い方自体が、宗教・思想の多様性を滅却した政治不正確な物言いですらあることを、ストレートに批判しています。これに対して、韓東育氏は、甘陽氏の議論から溝口氏の議論へと遡及しつつ、後者の論理的矛盾を指摘するとともに、80年代のNIEs勃興期に生じた儒教ルネサンスの思潮自体が幻想の産物であったと冷静にふりかえっています。韓東育氏の議論は、相変わらずの「儒家」信仰に対する冷めた視線を保っている点で味わい深いものです。

実際のところ、儒家に比べて、中国人は自分のことを「炎黄(炎帝・黄帝)の子孫」と呼びたがっているものだ。だが、もしも誰かが本当に今の中国のことを「炎黄社会主義共和国」とでも呼ぼうものなら、きっと中国人の大多数が納得しないだろうし、おそらくは甘陽氏自身もそれに反対するに違いない。結局のところ、「先賢」たちが後代の人々から得たものはといえば、「冷めた豚の頭の肉」のようなお供え物に過ぎず、したがって、古人にせよ現代人にせよ、それらの「わだかまりを解く」ための考え方とかやり方は、必ずしもまじめくさったものではない。馮友蘭の次のような理解はすこぶる適切だろう。「儒家のことばにしたがえば、祭礼を執り行う理由は、もはや鬼神が本当に存在していると信じているからではではない」、「礼を行うのは、祖先をまつる人の祖先に対する孝敬の気持ちに発するのであるから、礼の意義は詩的なものであって宗教的なものではない」。

あるいは、韓東育氏の指摘は、「儒家社会主義」論に対する総括批判なのではなく、むしろもう一つのはじまりなのかもしれません。

Monday, October 8, 2007

幸福的蓝图谁来画?

于丹(北京師範大学)氏の《论语心得》は、なんと400万部の売り上げを記録したそうです。中央電視台(CCTV)の人気番組《百家讲坛》でブレイクして以来、すっかり時の人となったという話はわたしも聞いています。于丹氏の個性が近年来高まりつつあるという儒教復興ブーム(読経ブーム)の後押しを受けて、爆発的なヒットとなっていることについて、『読書』8月号では、貝淡寧(Daniel A. Bell)氏が《《论语》的去政治化:于丹《论语心得》简评》という評論を寄せています。貝氏はカナダ出身の哲学研究者で、「貝淡寧」はその中文名です。現在清華大学の倫理学・政治哲学教授。貝氏は次のように述べています。

例えば子貢が政治について尋ねた著名な段落では、孔子は、政府は十分な武器と食糧を獲得して国を守るべきであり、庶民は統治者に対して信頼を寄せるべきであるという(食足り、兵足りて、民之を信ず)。続けて、孔子は、それを大事な順に並べるように問われて、十分な武器は最後であり、人民の信頼が最も重要だと述べた。于丹は、この段落を国が関心を持つべきなのは人々の幸福であってGDPではないというふうに解釈している。しかし、わたしたちは人々が幸せであるとか政府に信頼を寄せているといったことをどうやって判断すればよいのだろう。彼女が示唆しているのは、個人の心の受けとめかたであって、政府が人民のために行う何らかのことがらではないということだ。彼女は、それを説明するために、顔回が貧困の中でもとても幸せであったという例を出している。だが顔回というのは最悪の例だろう。まず、彼は幸せを目指そうとはしていない。彼が目指しているのは「道」であり、善人になること、世界をもっとすばらしいものにすることなのだ。その信念と使命感が彼に力を与え、苦しい生活の中でもめげることなく、道徳を見失うことがなかった。しかし、多くの人にはこのようなヒロイズムはない。

一方、『天涯』2007年第5期は、銭理群氏の《乡村文化、教育重建是我们自己的问题》を巻頭に掲載しています。《乡村教育的问题和出路》という本の序文として書かれたものだそうですが、この本自体についてはわかりません。この文章に記されているさまざまな具体的な事例についてはいちいち紹介するわけにはいきませんので、興味のある方は上のリンクからどうぞ。ただ、現下の状況について魯迅研究者の銭氏らしい概括を行っている部分を引用しましょう。

今年の初め、『生きる理由と生き方』という文章を書いた。論じたのはシェークスピアに登場するデンマーク王子の有名な命題に対する中国からの応答だ。そこで、魯迅の『孤独者』に示された三段階の「生きる理由」について語った。それは、「自分のために生きる、「わたしを愛してくれる」人のために生きる、敵のために生きる」というものだ。(中略)日常生活の倫理や論理が覆された後には、これらはすべて揺るがざるを得ない。人々がただ「カネ」のためだけに生きるようになり、精神的な支えを失ったとき、生活の中で挫折を迎えたり、物質的な欲望が満たされなくなったとたん、生きるエネルギーを失ってしまうことになる。家庭の愛情が希薄になり、功利的になり、家族の情操機能が劣化してしまえば、親や家族の愛情を子どもが感じることができなくなり、もしくは感じたとしても不十分である場合には、「わたしを愛してくれる者のために生きる」という動機も失われてしまう。(中略)事実は深刻なのだ。農村文化が衰弱し、農村教育の文化性が失われてしまっていることは、すべて知らず知らずのうちに青少年から「生きる」理由や、生命の意義や楽しみを奪うことになる。そして、自分たちの子孫たちが有意義に、楽しく、健康に生きていけるかどうかという問題は、一つの民族にとって小さな問題ではあり得ない。

儒教文化の復興を支えるその消費者たちの生活と、疲弊する農村で掙扎する人々とその子どもたちの生きざまは、どれほど重なってきているのでしょうか。儒教ルネサンスが与えるであろう「生きる意味」とは、どこまで広がる可能性を持っているものなのでしょうか?

Wednesday, September 26, 2007

“电影《季风中的马》”中文版

下面是9月12日的帖子“电影《季风中的马》”的翻译:

应邀去看了一部电影《季风中的马》。该片将自10月6日起在岩波影院(岩波ホール)正式公映,是生活在中国内蒙古草原上的牧民的故事(故事展开的具体位置应该是巴彦淖尔盟乌拉特后旗)。
内蒙古长期以来为草原荒漠化所困扰。荒漠化在日语当中通常被说成“沙漠化”。说起“沙漠”,一般都以为是大沙丘连绵起伏,一望无际没有任何花草的荒凉景色。其实,这一类的沙漠不一定都是原有的植被受到破坏之后产生的,而实际上包括撒哈拉沙漠和塔克拉玛干沙漠在内,大多都限于原来的土壤条件和气象条件,本来就是那样的。这一类“沙漠”概念并不能涵盖由于短期的气象变动以及人类的经济活动导致植被破坏形成的一切地貌变化现象。因此,与其说是“沙漠化”,还不如说“荒漠化”来得那么贴切。后者可以涵盖植被受到破坏的地区所显现的种种地貌类型。
对于草原荒漠化问题,中国已经采取了各种各样的政策,在影片中,则用铁丝网将牧地圈起来限制牧民游牧,以便保护现有的植被。但是这个举措给主人公作为游牧民的生活带来致命的打击。他过分执着于游牧生活,和设置铁丝网的工人打起架来,对开始做买卖的妻子也表示了强烈的愤怒,无奈之中的他最终卖掉了自己疼爱已久的一匹白马,从此便陷入了整天不离酒的日子。在故事的结尾,他和妻儿一起给自己的游牧生活划上了句号,决意迁往城市去。
对他们来讲,社会经济生活的形式直接构成本民族的文化认同,但这种认同本身在自然环境和社会环境的剧变中面临了崩溃的危险。影片的出色之处在于它将这种认同危机的情况单刀直入地表述出来的同时并没有化解为民族主义的叙事。影片有意识地避开了常常在汉族和少数民族之间的对立模式上表述起来的那种庸俗化叙述。自称成吉思汗后裔的、傲气十足的那位画家以主人公为模特画了一幅马上英雄的肖像。画中英雄虽然身穿蒙古族传统的铠甲,但在其黑背心的前胸那里印有“adidas”的字样。影片似乎在告诉观众:1990年代后期以后,在“社会主义市场经济”体制下迅速渗透的全球化进程也毫无例外地对基层百姓的生活产生着影响,这个故事是其一个很具体的事例罢了。也许那是画家不无恶意的一场恶作剧。但是,那幅画却以吊诡的方式表达着一个现实,即:“蒙古”的族性如果要在全球化的语境中继续得到保存,那么,只能接受自我戏谑化的命运。这个问题恐怕不只涉及到民族性的层面,而有可能便是一切地方性的认同正在面临的现实问题。
关于草原退化的具体原因,影片并没有详细的交代。其实,近年来频频飞至日本上空的黄沙所发生的地方就是影片的舞台--内蒙古中西部地区。其原因是多方面的,但其中开垦草原应该构成主要的因素。由于气候较为寒冷,一年的一半左右时间都属于农闲期,被闲置的农田表土干燥了会随着初春的强偏西风扬起沙尘。还有一种原因为过度放牧。一说起草原,会想到“风吹草低见牛羊”的景致,其实,现实草原上的花草只在夏天的时候,在砂质的土壤上勉强地繁茂起来,植被的恢复能力极为薄弱。以羊绒加工业为主,养羊的经济效应比较可观,导致了过度放牧。主人公的家里也饲养山羊,山羊长出羊绒,经济价值很高,但因为山羊连草根和树皮都要啃掉,被视作破坏草原植被的主要凶手之一,所以在我待过的地方,政府禁止放山羊。导致过度放牧的原因还有一个,即人口增加。扩大主义的人口政策一直持续到1970年代,这应该说是这个政策所遗留下来的负面遗产。
不久前听说,随着草原的退化,政府有关部门正强化着对游牧民的定居化和职业转变政策。我不知道一直到1990年代之前可以开展的游牧为什么到现在突然面临了如此危机,其中究竟存在着何等结构性的因素?如果说游牧经济生活的可持续性近年来急剧减弱下来,那么,应该有必要说明什么样的人为过程带来了这一变化。人们都说这是全球变暖这一大气候变动过程作祟的,而且其元凶便是人类的经济活动。这的确无可非议。但我想知道的却不是这一类的事情。只是我推测,在政策以国企改制为中心迈向市场化的情况下,也许有某种力量给社会基础本来很脆弱的游牧民的经济生活带来了决定性的打击。是不是因为有了这样的背景才能使本是外在原因的草原退化竟然构成了致命伤。换句话说,我想我们应该怀疑是不是全球化的影响在影片所描述的那个地方便表现为游牧生活可持续性崩溃这一现象?新自由主义的可怕之处在于:给那些被抛弃的人们刻以诸如怠惰、懒散之类的烙印,将一切归结到个人志向的问题。主人公的妻子看到自己的丈夫只知道迷恋于一去不复返的游牧生活而不肯为家庭经济拼命的样子,骂他道:“你没有向上心,也没有野心!”其实,今天的情况之所以让人认为具有悲剧般的闭塞性,是因为这些人们从社会的纽带被切断开来的结果,被迫站在孤立状态上。活在此时此刻此地的意义,对他们来说,已经很难寻觅到,这应该是与小说《兄弟》淋漓尽致表述出来的那种狂欢般喧嚣所显现的干涸状态相通的病理。
我还想指出,故事在描述草原人间生态的同时,也以很巧妙的方式叙述了现代启蒙不可逆转的渗透过程。两口子下决心放弃草原的直接动机就是要供儿子上学,这个事实正是其象征性描述。主人公和其妻子鲜明的对比本身也告诉观众:“现代性”已达至草原开始渗透到游牧民的生活,而19世纪以来的“现代”逼着人们只好“像个男人那样忍耐”于促使他们“敢于聪明起来”的时势。更何况,相对于韦伯的时代来讲,被迫孤立的每个个人究竟如何恢复意义和价值这一难题在今天的全球化时代更为深刻地覆盖着全世界。
最后说及一点不尽如人意的地方:日译题目《白い馬の季節》可能是从英文题名Season of the Horse过来的,但这个翻译是否恰当?中文原题充分表达了让时代给捉弄命运的人们的生活这一主题,但英文题目是否把它的意思颠倒过来了?反正,这只是个吹毛求疵的小问题罢了。虽然我没有能力去判断作品作为电影的艺术价值到底如何,但我也相信该作品是篇让人深思的好作品,它一定能够使愿意认认真真活下去的一切观众们深刻地去思考活在当代究竟意味着什么的问题。谨此推荐。

Monday, September 24, 2007

「言語文化研究」後期授業スケジュール

10月1日 講義
10月8日 『月刊中国NEWS』講読
10月15日 同
10月22日 同
10月29日 同
11月12日 山田史生『寝床で読む『論語』』 
11月19日 張競『美女とは何か:日中美人の文化史』
11月26日 大塚恭男『東洋医学』
12月3日 張競『中華料理の文化史』
12月10日 牧陽一『中国現代アート』
12月17日 阪倉篤秀『長城の中国史』
1月21日 『月刊中国NEWS』講読
1月28日 南條竹則『中国文人食物語』

Friday, September 14, 2007

「比較文化論」講義計画

9月19日からの「比較文化論」は、次の予定で講義を進めていきたいと思います。講義計画は「講義要綱」及び明星大学Webシラバスに記載されているものから変更しました。特に試験の日取りに注意してください。

テーマ:近現代中国における“身体と帝国”-医療と衛生をめぐって-

講義計画:

第1講( 9月19日) ガイダンス
第2講( 9月26日) 「帝国」の概念と中華帝国の歴史
第3講(10月 3日) 中国伝統医学の歴史
第4講(10月10日) 中国の近代化と医療・衛生改革
第5講(10月17日) 新しい時代の疾病と医療の課題
第6講(10月24日) 試験(授業内レポート)
第7講(11月 7日)  総括とフィードバック

Wednesday, September 12, 2007

《朱子语类》翻译工程(报摘)

《朝日新闻》2007年9月11日有如下一则消息:

《着手翻译《朱子语类》:共有140卷,儒学家将花费20年时间完成》

《朱子语类》纪录了中国南宋时期思想家朱熹(1130-1200年)同其弟子们所进行的问答,最近以成立的译注刊行会力图将其全部都译成现代日文。该书荟萃了朱子学的整体思想内容,而朱子学曾经对东亚地区的近世具有极大的影响。虽然过去也有过同样的尝试,但该书篇幅浩大,共有140卷,再加上其以中国南方地区口语书写给翻译工作带来困难,最终未能实现。东京大学名誉教授、中国思想史专家沟口雄三先生号召21名专家参加此项目,计划20年以后将初步完成译注工作。这可谓当代儒学家们的一项宏伟工程。(渡边延志报道)

沟口先生称:“朱熹所开启的朱子学是一种近世东亚知识分子不可或缺的知识,它也是一种道德,也是一种科学,从中国传入朝鲜,为德川幕府所引进,对当时的思想以及文化带来了广泛的影响。是一个东亚共同的思想遗产。”《朱子语类》可以说是朱熹的一套讲义录,涉及到政治、历史、社会、经济、法制,甚至包括科学以及天文学。在江户时期,讲授儒学的私塾和藩校都列入必读书目。
一直到今天,读者以训读汉文的方式阅读江户时期的版本,京都大学名誉教授、中国文学专家兴膳宏先生在强调现代日文版的必要时说:“日本人阅读汉文的功夫在日本社会中急速走向消失,这样下去,年轻一代的日本人在不久的将来连最近一代人们的所思所想都读不懂了。”
该刊行会建立在沟口先生20年前开始主持的研究会的基础上。明治大学教授垣内景子女士和东海大学副教授恩田裕正先生都曾在此研究会中受到培养,如今都是40多岁,她们最近已经表示她们今后要作为该会的中心力量从事此项活动。
8月,该会在东京召开了第一次会议,沟口先生在会上很高兴地发表讲话:“我已经是75岁了。这项工作已经成功地交给了年轻一代学者。这样才能使我们将翻译通篇当作我们所要追求的目标了。”
过去20年的成果作为第一次出版本于7月已由汲古书院刊行。但其内容仅为全书140卷中的3卷。对于难读的语言,他们的研究已经得到了相当大的进展,有望今后加快速度。虽然如此,按他们的预计,以后20年能翻译出来的份量充其量也只是70至100卷左右。
垣内女士称:“这套文献比较特殊,没有经过专门训练不可能读懂。我们应该在进行工作的同时,致力于培养人才。”恩田先生则以紧张的口吻说:“我愿意终生从事这项工作。到了100卷左右的时候,我也许会考虑让下一代人接我的班了。”
印数大约为数百册左右,不会有一点经济效益。大阪等地方的一些企业家为赞助该项活动开展捐款活动。

电影《季风中的马》

10月6日(土)から岩波ホールで上映される『白い馬の季節』という映画(原題は《季风中的马》)の試写会に招かれて行ってきました。中国内モンゴルの草原(舞台となっているのはバエンノール盟ウラト後旗)で暮らす遊牧民の物語です。内モンゴルでは長いこと草原の荒漠化が深刻でした。荒漠化というのは日本語では一般に砂漠化と言われるものです。「砂漠」というと大きな砂丘がいくつも連なり、見渡す限り草木がどこにも生えていないような光景を思い浮かべるでしょう。ただ実際にはそのような砂漠は、植生が破壊された結果生じたというよりも、サハラ砂漠やタクラマカン砂漠のように、もともとの土壌条件や気象条件の結果そうならざるを得なかった地域であることも多く、短期的な気象変動や人間の経済活動によってもとあった植生が破壊される現象のすべてではありません。そのようなわけで、「砂漠化」ということばよりも「荒漠化」というほうが、植生破壊地域の多様な様相を包括するにふさわしいことばであるようです。この草原荒漠化問題に対しては、さまざまな対策がとられていますが、この映画では、放牧地を鉄条網で囲い込み、遊牧を制限することによって現存する植生を保護する政策が、主人公の遊牧民の生活に致命的なダメージを与えます。遊牧民としての生き方にこだわるあまり、鉄条網設置に携わる労働者と殴り合いの喧嘩をしたり、商売を始めた妻の行為に憤ったりしたあげく、やむなく愛する馬を売り渡してしまった主人公は、酒浸りの生活に陥ります。最終的に彼は、家族と共に遊牧生活に終止符を打ち、町での生活を選びました。
彼らにとって、社会経済生活のかたちがそのまま民族固有の文化アイデンティティにもなっていました。しかし、自然環境と社会環境が激変する中で、アイデンティティは崩壊に直面していきます。この映画のすばらしいところは、こうしたアイデンティティ危機の状況をストレートなメッセージとして伝えると同時に、しかもそれをナショナリズム・ナラティヴに還元していない点だと思います。漢民族対少数民族といった対立図式の上に表象されるよくありがちな語りは、この映画の中では意図的に排除されています。チンギス・ハーンの子孫を自称する鼻持ちならない画家が主人公をモデルとして描いた馬上の英雄は、モンゴル伝統の鎧に身を包みつつ、その下に見えている黒のTシャツには、胸に「adidas」と書かれていました。1990年代後半以降、「社会主義市場経済」体制の下で急速に浸透するグローバリゼーションが、末端の人々の生活に与える具体的な影響の一例として、この映画が描く生活を見るべきであることをこのことは物語っています。それは画家の意地悪ないたずらだったのかもしれません。しかし、「モンゴル」というナショナリティがグローバルな文脈の中でパロディ化を自ら受け入れることによってしか保存できなくなってしまっていることを、この絵はシニカルに表現しているのではないでしょうか。そしてそれは、民族性だけの問題ではなく、すべてのローカル・アイデンティティが共通して直面している現実なのではないでしょうか。
草原退化の原因について、映画は詳しく教えてはくれません。しかし、近年日本にも頻繁に飛来するようになった黄砂の発生源は、実は、この映画の舞台となっている内モンゴル中西部です。原因は複合的ですが、主要なものとしてあげるべきなのは、草原の耕地化であるようです。寒冷な気候では、一年の半分近い時間が農閑期となり、その間放置されざるを得ない農地は表層の土砂が乾燥して、春先の強い偏西風に飛ばされていきます。もう一つの原因は、過放牧です。草原というと、背丈ほどもありそうな草が風に大きくうねりながらなびいているというイメージがありますが、砂質の土壌の上にかろうじて夏の間だけ草が生えているというのが現実で、植生恢復能力は非常に低いのです。しかし、カシミヤ産業を中心に、羊の経済効果が高まり、過剰な放牧が行われるようになりました。主人公の家では、綿羊に混じって山羊も飼われていましたが、山羊はカシミヤ原料となり、経済価値は高いのですが、草の根や木の皮なども食い尽くすので植生破壊の元凶とも見なされ、わたしが住んでいたところでは、放牧が禁止されていました。過剰放牧を引き起こすもう一つの要素は人口増加です。それは、1970年代までつづいた拡大主義の人口政策が今日の中国に残した深刻な負の遺産であるというべきです。
草原退化にともなって、遊牧民の定住化と職業転換が政策的に強化されているというのは最近聞いた話ですが、1990年代までは可能であった遊牧が、なぜ、今になってこのような危機に向き合わなくてはいけなくなったのか、そのあたりの構造がわたしにはよくわかりません。遊牧的経済生活の持続可能性が近年急速に失われていったのだとすれば、その変化を招いた人為的プロセスを明らかにする必要があります。地球温暖化という大きな気候変動プロセスが作用し、その元凶が人間の経済活動であるということは確かにそうなのですが、わたしが知りたいのはそういうことではありません。推測に過ぎませんが、国有企業改革を中心とする市場主義的政策転換の過程で、社会基盤の脆弱な遊牧者の経済生活に決定的なダメージを与える何らかの力が働いているのではないか、草原退化という外部的要因が致命傷に結びつくのはその結果なのではないでしょうか。つまり、グローバリゼーションの影響が、映画の舞台となっている場所では、遊牧生活のサスティナビリティ崩壊として表出しているのではないか、そう疑ってみることが重要であると思われるのです。新自由主義のおそろしいところは、こうして切り捨てられていった人々に対して、無気力とか怠惰とかいう烙印を押しつけ、個人の資質の問題にすべてを解消してしまっているところです。主人公の妻は、過去の遊牧生活に恋々とするばかりで、生計のために必死になろうとしない夫に対して、「向上心も野心もない」と不満をぶつけます。しかし、今日的状況が悲劇的な閉塞性を伴っていると思われるのは、このような人々が社会から分断された結果、孤立した個人としてしか活きていけなくなってしまっていることです。彼らにとって、今ここに活きることの意義はどこに行ってしまったのか、それは、小説『兄弟』があますところなく描ききったカーニバル的喧噪の無機質性にも共通の病となっているはずなのです。
もうひとつ、指摘しておきたいのは、この物語が草原を舞台にした人間生活のエコロジーを描きながら、近代的啓蒙の不可逆的浸透プロセスを巧みに物語っていることです。息子の学費稼ぎが彼らにとっての直接の動機になっているというのはその象徴ですし、主人公とその妻の鮮明な対比それ自体が、「敢えて賢くなる」ことを選択せざるを得ない状況(=勢)に、「男らしく耐えていく」よりほかない19世紀以来のモダンが、草原の遊牧民にも到来したことを告げています。ましてや、このグローバリゼーションの時代に、孤立せざるを得ない個々人がどうやって意義と価値を恢復していくのかという難問は、ウェーバーの時代よりも深刻に世界を覆い尽くそうとしているのかもしれません。
最後に一点だけ不満を。邦訳タイトル『白い馬の季節』は、たぶん中国の配給元がつけたのであろう英文タイトルSeason of the Horseからきているのでしょうが、これはあまりよろしくないのでは?中国語原題は「季節風の中の馬」ということで、時代に翻弄される人の生きざまという主題をよくあらわしているのですが、英文タイトルではそれが転倒してしまっているのではないでしょうか。まあ、これは小さな問題です。映画としてのできばえがどうであるのかはわたしには評価できませんが、真摯に生きたいと願っているわたしたち一人ひとりが、現代に活きるということはどういうことなのかを考えるのにふさわしい、味わい深い物語であることには間違いありません。おすすめです。

Saturday, September 1, 2007

比較文化論(輪講)

「比較文化論」(人文学部共通科目)の輪講担当者として、9月19日から10月31日までの7回、中国の近代化過程で生じた身体観と健康観の変容とグローバルな文化政治との関連を探る講義を行います。主なテキストとして、楊念群『再造“病人”』(中国人民大学出版社、2006年)を使用する予定です。他に、参考となるインターネットサイトとして、
《医学捌号楼》http://www.med8th.com/
《三联生活周刊》总第409期《封面故事:西医为何难容中医》http://www.lifeweek.com.cn/iRelease/jsp/other/RegionView1.jsp?rid=1&issueid=409

授業内容紹介(明星大学シラバスから):
比較文化論は、地球諸地域の文化の、普遍性(グローバル)と特殊性(ローカル)について考えるものです。今年度のテーマは、「身体と帝国」です。私たちの「身体」は、私たちを取り巻く様々な環境・文化・ファッションや、さらには権力・政治・帝国などによって、大きな影響を受けながら存在しています。ここでは、身体をめぐる「文化」や「帝国」との関わりについて、各専門領域・各フィールドから多角的なアプローチを行うことにします。

授業時間:水曜1限。
場所:23-301教室。

Friday, August 24, 2007

“余华《兄弟》”(中文版)

我在下面的帖子“余华《兄弟》”中写了简短的感想,翻译如下:

贯穿此作品的接二连三、喋喋不休的调侃笔调虽然令人实在感到厌腻,读后却给我留下了一时难以自拔的沉痛感。狂欢般的轻佻浮躁在死人之后的、对死者的绝对的遗忘之上连绵不断地,上了毒瘾似的延续着。正因为作品正视着它,才会给人带来如此沉痛。宋钢的死亡只能在李光头想把他的触手伸向太空的那种巨大的欲望中才获得意义,但这当然不是其真正意义。至于其死亡的真正意义,已经无从寻觅其间了。但或许更为重要的是:正如余华自己所说,此种无限欲望的无限狂欢状态实质上在”文革”时代已经开始了。宋凡平和李兰的死去实际上象征着此种狂欢在那时已经开始了。而死去的并非仅仅是死者。林红在宋钢死去后,作为“刘镇红灯区”的老板娘开始主宰了性的享乐。性产业所提供的性的愉悦是在禁止生育的游戏规则上才能成立的一种反“生生”的享乐方式。在解放放纵的欲望之后,李光头完全沉溺在狂欢般的享乐和喧嚣之中。他是主动放弃生育的权利之后才得到了无穷尽的快乐的。失去了宋钢的林红也不会在生产新生命。整个刘镇似乎自我放弃了生产后代而沉浸在节日的喧闹之中。生在如此状况中的唯一一个生命便是江湖骗子周游和苏妈(她是时代的见证人,也是众多围观的群众当中最为善良的一个)的女儿苏妹之间的孩子-苏周。她是在“全国处美人大赛”疯狂进行的时候,不以生孩子为前提的性行为的快乐当中怀胎的新生命。周游得知这个新生命的诞生之后,给周游全国销售假货的江湖日子立即划上了句号,改称“周不游”开始了他的新生活。苏周确实是一个当代那个无止境的享乐风潮的产儿。但是,如果我们在英雄缺席的时代里还要继续寻找某种希望,那么,此种希望有可能不是对英雄复苏的期待,而应该寄托到苏周的身上。因为,她继承着众多围观者当中总是避免了人性里面最坏的一面的“平凡的人”-苏妈和“全国处美人大赛”的支离破碎中唯一一个处女-苏妹的血脉。

余华《兄弟》

余華の『兄弟』を読みました。内容については、日本語であらすじを紹介しているブログがありましたので、リンクしておきます(「中国最新作品あれこれ」)。
余華氏自身のこの作品をめぐる発言を二つ紹介します。一つは、『南方周末』2005年9月8日版(電子版)に掲載されたインタヴュー《我能够对现实发言了》です。

記者:以前の作品では時代背景があまりはっきりとしていませんでしたし、今日の生活についてもほとんど書かれていませんでした。しかしこのたびの『兄弟』では、文革時代から現在までをお書きになって、時代的特徴がきわめて濃いようですが。
余華:わたしは以前は意図的に時代背景をぼかすことがよくありました。わたしの作品中の人物は時代性の影響をあまり受けることがないと思っていたからです。『兄弟』では、初めて小説を通じて文革に向き合いました。わたしは文革時代に生まれ育ちました。まだ大人ではありませんでしたけれども、あの時代がわたしの幼少時代から少年のころまでの暮らしに非常に深く刻まれており、ずっと忘れることができません。文化大革命という人類史上にのこる大事件については、これまでも、今も、そして将来も書き手がいるでしょう。わたしが書くとしたら、他の人たちとの違いをどうやって確保できるでしょうか。これまでのわたしはこの時代の歴史に入っていくためにいちばんいい切り口を見つけられませんでした。わたしたち作家がなぜ昔の時代を書きたがるのかといえば、時代が遠ざかるほどに伝奇的な素材を見つけやすくなり、小説の中で空想たっぷりに歴史に対してフィクションや想像を構成できるからです。ところが同時代はというと、現実の世界はめまぐるしく変化し、その上、インターネットのようなバーチャルな世界さえも出現しています。だから、現実の生活について書く作家はたくさんいますけれども、そうした作品の中には真実の生活は存在せず、読者はつねにそれが虚構の、信じがたいものだと感じてしまうのです。『兄弟』の下巻を書き始めて、わたしは現下の現実生活を把握できると突然感じるようになりました。わたしは、中国の現実に対して発言ができると思いました。これはわたしにとっては質的な飛躍なのです。今日の中国では、一人ひとりの運命はあまりにも不確実で、現実と伝奇性が二つにして一つとなっているということにわたしは気づきました。だから、真実の現在を書きさえすれば、時代の変化に耐えうる伝奇性を表現できるのです。

もう一つは、ドイツの『フランクフルター・アルゲマネ・ツァイトゥング』に掲載された(2006年4月21日)インタヴューの中国語版《巨大欲望的时代》です。これは、余華氏本人のブログに掲載されています。

マック・シモン:余華さん、あなたの新しい小説の中では、文化大革命と現代とがつながっています。この両者はどのような関連があるのでしょう。
余華:この二つは実際には一枚のコインの両面です。今日の社会に見られるたくさんの極端な現象は、文化大革命時代の極端な現象の反動としてあらわれてきたものです。実際、わたし自身も長い時間をかけてやっとこのことに思いあたりました。以前から、わたしは今日の時代に関することについて書きたいとずっと思っていたのですが、どのように書いたらいいのかわかりませんでした。その後わたしは、今日の中国と文革時代の中国とを結びつけて見なければならないということに気づきました。なぜなら、この二つの時代はそもそも密接に関連しあっているからです。この点に気づいてから、二年足らずでこの小説を書き上げました。文革時代の抑圧がなければ、中国で今日見られるさまざまな放縦もあり得ないでしょう。放縦が抑圧の中から解き放たれたとき、それは爆発的に吹き出てくるでしょう。現在の中国の発展はまったく反対の方向へと向かっています。ある種の行為がかつてとてもはっきりしていたとすれば、今日ではそれがちょうど逆転しているのです。恐怖ということについて言えば、文革のころには人々はとてもおそれていました。文を一つでも書き間違えることは許されなかったのです。わたしが小学一年生のころ、同級生があるとき「太陽が山に沈んだ」といいました。ところがこのことばは反革命です。当時太陽は毛のシンボルだったのですから。今日の社会で、もっとも典型的な特徴は倫理の喪失です。人々はどんなことでもやるようになりました。何年も前ですが、中学の同窓会の席上で、突然けんかが始まりました。その時わたしは社会格差ということに気づきました。社会から排除されてしまった人もいる一方で、その反対に官僚になり、お金を儲けた人もいるのです。
(中略)
マック・シモン:人々はこうした大きな変化にどうやって適応しているのでしょう。
余華:こうした変化を消化できない人もいます。そういう人は自殺してしまいます。中学の同級生にはそういう人がいました。しかし大多数の人たちはどういうかたちであれ適応しています。今日起こっていることにすべては、さまざまな欲望が大きく膨張し、はげしく強調されているということです。それはセックスに限ったことではありません。例えば、ある大型鉄工所では、生産量が一年の間に倍増しました。それは奇妙なことです。この工場の規模は変わっていないのですから。ではなぜ生産量が突然倍増したのか。社会学者の調査でわかったのは、工場の周りにたくさんの簡易高炉が設けられて、地元の農民が自ら熱した液状鋼を工場にとどけ、工場ではそれを炉に入れて続けて加熱し、それによって生産にかかる時間を短縮していたのです。その結果、周囲の木々はすべて高熱に焼かれて枯れてしまいました。このような現象を支配しているのは、すべてのルールを破り、絶え間なく求め続けていこうとする巨大な欲望です。文革のときからわたしたちは、このような奇怪な世界の中で暮らしているのです。
マック・シモン:この巨大な欲望はどのように現れてきているのですか。

余華:住宅を例に挙げると、家を買うのに一億元以上出せる人もいれば、そうでない人、つまり貧しい家庭では、子どもがお父さんにバナナをねだっても、そのお父さんは買うお金がないのです。彼は自分にはバナナを買うお金がもはやないということに思い至り、窓から飛び降りてしまいました。その奥さんは、庭におりて、夫が息絶えているのを見ると、もう一度部屋に戻って、何も言わずに首をつってしまいました。豊かさの話にしろ、貧しさの話にしろ、似たような物語は、今日の中国では毎日のように発生しています。

これでもかこれでもかというほど、読者を食傷気味にするような调侃(戯れ言)の連続にもかかわらず、いたたまれないような沈痛を読後に残す小説です。その沈痛感はカーニバルのような軽佻浮薄さが、死者の後で、死者に対する絶対的な忘却の上で、麻薬のように延々と続いていくことを作品が鋭く見据えているからでしょう。宋鋼の死は、宇宙へと触手を広げようとする李光頭のグロテスクなほどの欲望の中でしか意味を与えられなくなってしまっています。そこでは、宋鋼の死が何を意味していたのかはまったく顧みられることはないのです。
そして、だいじなことは、余華氏がいみじくも述べているように、このような状況は、実は文革の時からすでに始まっていたのではないかということではないでしょうか。宋凡平と李蘭の死は、実はカーニバルがその時にすでに始まっていたことを象徴しているのではないでしょうか。
死んでしまったのは死者だけではないでしょう。林紅は宋鋼の死後、風俗経営者として性的享楽の主宰者となります。セックス産業における性的愉悦は生むことを禁忌として成立する反生生的享楽にほかなりません。欲望の野放図な解放の中でカーニバルのような享楽と喧噪に身を任せる李光頭は、もとより、自ら生むことの権利を放棄することによって、尽きることのない悦楽を手にしたのでした。林紅もまた、宋鋼亡き後、新たな生命を生むことはもはやあり得ないでしょう。劉鎮全体が、生むことを自己放棄することによって祭りの中に耽溺しているかのようです。そのような中で、唯一生まれた生命は、江湖骗子(浮き世の詐欺師)周游と、時代の生き証人であり、あまたの傍観者の中で最も善良だった蘇媽の娘、蘇妹との間に生まれた蘇周でした。蘇周は「全国処美人コンテスト」の狂騒の中で、生むことを前提としない性的悦楽のうちに身ごもった、新しい生命でした。しかし、この新しい生命の誕生を知った周游は、全国を周遊して偽物を売りさばく生活に終止符を打ち、「周不游」という名前で生まれ変わることになります。蘇周じしんは、この際限がないかに見える享楽的現代が産み落とした子供に間違いありません。しかし、英雄亡き後にそれでもまだ何らかの希望を持ち続けるとするならば、その希望は英雄の復活ではなく、あまたの傍観者の中でつねに最悪の人間性を回避し続けようとしていた「ふつうの人」、蘇媽と、「全国処美人コンテスト」のはちゃめちゃの中で唯一の処女であった蘇妹の血を引く、蘇周にこそゆだねられるべきなのかもしれません。

余華氏は1960年生まれの現代中国を代表する小説家。《活着》(『活きる』)は、張芸謀が映画化して有名になりました。もっとも映画のほうは、主題がすっかり変わってしまったと言えるほど、原作から逸脱していましたが。

Tuesday, August 21, 2007

上海、苏州之行

上海と蘇州へ行ってきました。短い訪問ですが、その中で驚いたのは、近年日本人の間でも人気のある観光スポット新天地が中国共産党第一回大会の開催地とセットで造られているということでした。建物はすべて、映画に出てくるような租界時代の横町(里弄)風に復元され、それが党大会開催地と新天地とを一体に結びつけているのです。陳思和氏はかつて、近代学術転型によって、知識人は「廟堂の知識人」から「広場の知識人」に変わったと述べました。五四運動は「広場の知識人」が政治社会に決定的な影響力をもたらした象徴的事件でした。1990年代以降の文化現象を分析する戴錦華氏は、社会主義市場経済の時代に入って、「広場」は消費活動の中心的シンボルのシニフィアンに変わってしまったとカルチュラル・スタディーズのことばで語っています。新天地と共産党発祥の地のこうした一体化は、なんともみごとな象徴でしょうか。

蘇州では寒山寺を訪れ、かの『楓橋夜泊』の石碑が兪樾の題詞になることに初めて気がつきました。運転手に詁経精舎を知っているかと尋ねたところ、あっさりとノーの答えが返ってきました。伝統とか文化というものは、こういうところとはちがったところでつながっているということなのでしょう。


去了一趟上海和苏州。在这短暂的访问中让我惊奇的是,近年来受到日本游客欢迎的景点“新天地”和中共一大会址毗邻建造形成着一个整体效果。所建的房屋都复原了租界时代的里弄景观,像是在电影中的风景。这些建筑风格的统一将“新天地”和一大会址连接起来使之产生了整体感。陈思和曾说学术的现代化转型使“庙堂的知识分子”转变为“广场的知识分子”,五四运动标志着“广场知识分子”对政治社会的决定性影响力。戴锦华在用文化研究的理论话语分析1990年代以后的文化现象时说,进入了社会主义市场经济时代后,“广场”变成了消费活动中心的象征之能指。“新天地”和一大会址的这种一体化不由得令人感慨。

在苏州访问了寒山寺,第一次发现那个《枫桥夜泊》的石碑原来是由俞樾题词。我也问了开车司机知不知道诂经精舍,他的回答是干脆的“否”字。传统也好,文化也好,或许都不是以这种方式传承下来的吧。

Monday, July 30, 2007

野火烧不尽,春风吹又生

銭理群氏の最近の発言を一部紹介しましょう。前回の孔慶東氏の発言はこれを受けてものです。

全文はこちら>>>

こういう「事件」が起こるたびに、わたしたちは決まってある種の無力感を感じるわけですが、では希望はどこにあるのでしょうか?わたしはともかく「楽観主義」を三点申し上げたい。第一に中国は人口が多いということ。つまり、ますます多くの知識人が体制に組み込まれて、思想の自由や独立した批判的立場を守り続ける知識人(「自由主義」であるか「新左派」であるかを問わず、そういう知識人がいると信じています)が孤独感を感じている。彼らは比率からいえばたしかに非常に少ないのですが、絶対数からいうと必ずしも少なくはない。だからわたしたちは連帯しあい、助け合い、何らかの力を形成していけるのではないでしょうか。二つめに、中国は幅員が大きいということ。毛沢東がかつて言ったように、「東はくらくても西は明るい」というわけです。少しずつ包囲されていったとしてもなお挽回の余地が常にある。わたしたちは文章を発表する場所をいつも見つけることができるでしょう。独立、自由の声は抑えつけられません。第三に、わたしたちの長きにわたる文化伝統です。その中には批判的知識人の伝統も含まれていますが。このような伝統の力は軽視できないものです。それは一代一代、継承者を育んでいくでしょう。つまり、「野火焼きて尽きず、春風吹きて又生ず」というわけです。この三点を思ったとき、そこに「ささやかな希望」を見いだせるような感じが致します。

Thursday, July 26, 2007

文本和其背后

近現代文学研究で知られる北京大学の若手研究者孔慶東氏の発言です。ひとつの態度として、素朴なことばの中に考えさせる内容を含んでいると思うのですが、如何でしょう。

全文はこちら>>

いちばん大事なのは、銭理群先生がおっしゃった人口問題でしょう。ここで人口問題というのは、わたしの考えではつまり人民の問題です。つまり、人民に欲望がまだあるかどうか、わたしたちの語りが最終的に人民に根ざして欲しいという欲望があるかどうかということです。人民の欲望とはなにか。わたしは帰国してきて、バスに乗ってきました。来るときのバスの中では、北京の空一面のほこりや交通渋滞、車内の人々のぶつくさ言う様子を見てきました。中国のことを理解しようというときに、『読書』を読む必要があるでしょうか?だとしたら、わたしはずいぶん惨めなものです。『読書』は大変重要な雑誌ではありますが、中国を理解するには『読書』を読むのではなく、中国にやってきて、きままに出稼ぎ労働者たちと一緒にうどんを一杯食べればいい。わたしは、一日中わけのわからない人といっしょにいて、他の人がわたしのことを北京大学の教員らしくないということを聞いて光栄に思うのです。わたしはこういうやり方で中国を理解してきました。わたしはいろいろな中国人がどうやって暮らしているのかを知っています。北京大学の教員がどうやって生活しているのか、博士修了者がひと月たった二千元の給料でどうやって教員として暮らしているのか、わたしは、さまざまな人の暮らしぶりを知って、そうして、比較の結果ひとつの基準を導く。そうすると、どの雑誌が真理を述べているのか、どの本、どの文章が本物なのか、どの文章が太平の世を装っているのかがわかるのです。

Wednesday, July 25, 2007

中国的1960年代

中国語で「19××年代」と発音することに奇妙な違和感をいまだに覚えるのですが、21世紀も7年目に入り、この言い方もどうやらすっかり市民権を得ているようです。

さて、『読書』2007年7月号の編集後記を以下に抄訳します。

20世紀初期、共通の歴史的境遇(列強圧迫下の「東亜の病夫」と「近東の病夫」という)のおかげで、中国とトルコの革命家たちは、「運命を同じくする」かのような感覚を抱いていた。だが時は移り変わり、50年はじめには、両国の若い軍人同士が、トルコからはるか遠くの朝鮮で干戈を交えることになる。「国連軍」に加わった数千人のトルコ人兵士が極東の戦争で命を落としたとき、たくさんの若いトルコ人たちは問いつめるようになった:「なぜ我が国の若い軍人がはるか遠くに行って無駄死にしなければならないのか?」朝鮮戦争は若い世代の心に種子を落とし、彼らがその「60年代」を迎えるころになると、再びその眼差しを中国に向けるようになった。中国と中国革命、そして中国革命の中から生まれた思想や価値が多くのトルコ人青年を引きつけたのだ。中国と中国の革命を理解するために、彼らは中国語を学び始める。その一人がダーリック(Arif Dirlik)だった。彼はトルコを離れ、中国研究をライフワークにするようになった。より正確には、彼は中国革命研究をライフワークにしたというべきかもしれない。ポスト革命時代の中国研究の中で、彼の中国革命に対する執着ぶりは、確かに数少ないものだ。ダーリックの現代史研究に対する評論は、ひとつひとつをとれば、精密さを欠いているかもしれない。そして、そうであるが故にそれは論争的だ。しかし、時代思潮の変化やそのアカデミズムにおけるあらわれに対する彼の分析は、往々にして勘所をとらえている。
(中略)ダーリックの中国革命に対する関心もきっと、自らの社会と時代の雰囲気に対する彼の理解に根ざしているに違いない。彼の主な仕事はほとんどいずれも中国革命に関係している。初期の代表作『革命と歴史:中国的マルクス主義歴史学の起源』は、30年代初期の「中国社会史論争」に対する洞察に富んだ研究だ。『中国共産主義の起源』『中国革命におけるアナキズム』『革命の後に:グローバル資本主義に対する警鐘』など、書名を見るだけで、20世紀革命の「におい」が伝わってくる。わたしがダーリックの当時を知る人物に出会ったのは、あの(イスタンブールへの)旅行のときであった。彼女はダーリックが兵役を拒否するためにトルコを去ったのだと語ってくれた。
それは、「トルコの60年代」の物語だ。中国と関連しつつ、しかも中国とは状況がまったく異なった時代状況の中での物語だ。

Arif Dirlik氏のことは、日本ではまだあまり知られていないようです。わたしも名前しか知りません。今月号は、巻頭に、その《全球化、现代性与中国》(「グローバル化、モダニティ、そして中国」)を掲載しています。

Monday, July 23, 2007

外国事情(アジア事情)前期期末レポート課題

次のいずれかの課題を提出すること。

  1. 堀田善衞『インドで考えたこと』(岩波新書、1957年)を読んだ上で、授業で学んだことも思い出しながら、「アジアと向き合うこと」という題で、2000字以上のレポートを作成しなさい。
  2. 陳凱歌『私の紅衛兵時代』(講談社現代新書、1990年)を読んだ上で、授業で学んだことも思い出しながら、「時代のなかの個人」という題で、2000字以上のレポートを作成しなさい。

いずれも締め切りは、9月17日(月)12:30厳守。遅れたものは受け取らない。
提出先は、石井研究室(27-514)のポスト
課題は学内掲示でも確認できる。

Monday, July 16, 2007

鲁迅、东欧、拉美,以及日本

『中国研究月報』2007年3月号は特集記事として「いま魯迅をどう語るか」を掲げていますが、その中に、Dennitza Gabrakova氏の「除草できない希望-魯迅の『野草』」という論文があります。巻頭の代田智明先生による紹介によれば、作者はブルガリアからの留学生とのことです。魯迅『野草』をブルガリア語に初めて翻訳した人なのだとか。
東欧と中国近代の思想文化を結ぶ線について、おそらく文学研究の場では常識になっているに違いありません。研究の動向にうとい私でさえ、ミラン・クンデラが大量に翻訳されて、あちこちの書店で平積みになっていることを知っています。たぶん東欧への関心は、歴史的に蓄積されているものなのでしょうが、その歴史は社会主義中国の歴史とともに始まったのではなく、20世紀初頭のころ、つまり、魯迅がバイロン(彼はイギリス人ですが)を語り、ハンガリーの革命詩人ペテーフィの名を挙げていたころにまで遡るのでしょう(『摩羅詩力説』)。考えてみれば、80年代にはガルシア・マルケスや、オクタヴィオ・パス、ひいてはボルヘスのような、ラテンアメリカ作家たちの作品群が中国に大量に紹介されていました。莫言の小説や、李少紅の映画(『血祭りの朝』《血色清晨》)などは、ガルシア・マルケスの影響を強くにじませる代表だと見なされています。
東欧やラテン・アメリカといった、地域の思想文化は、東アジアと西欧を中心にした視座から、ともすれば欠落してしまいかねません。しかし、このような地域の思想文化(これにインドを加えてもいいでしょう)に対して、中国のそれが盛んに共鳴しているという事実は、「近代」というグローバルな進み行きに対するひとつの応答として、おろそかにはできない要素なのかもしれません。

Monday, July 9, 2007

中国哲学研究

『中国哲学研究』系东京大学大学院中国思想文化学(东亚思想文化)专业的博士生所主办的学术刊物,自1990年创刊以来已刊出了22辑。在该刊物上发表过论文的年轻学人如今在日本、韩国、中国、台湾、美国等国家和地区中国研究界中都有举足轻重的地位和声誉。
新近出版的第22辑也刊载了拙文。当然,拙文无法与先前众多优秀的文章相媲美,只是借此机会广泛宣传以期让更多的有识之士认识这个刊物而已。点击此处即可链接“东大中国哲学研究会”网站,可参阅各辑目录,欢迎选购。

東大で中国思想文化学を専攻している大学院生が中心となって編集している『中国哲学研究』第22号がこのほど刊行されました。拙稿も掲載されています。上のリンクからどうぞ。

Monday, July 2, 2007

香港回归十周年

わたしは中国内モンゴルに短くはない期間住んでいたわけですが、そこは、人口的には多数を占める漢民族を中心にして、モンゴル族や回族、満族、朝鮮族、ダフール族、その他数多くのエスニック・グループが混在して生活している地域でした。
基層と呼ばれる底辺の村落に行くとモンゴル族と漢族との間の不和が残っていて、「綜合治理」などと称する融和政策を展開していました。あれから10年になりますが、その状況は基本的に変わっていないと思います。モンゴル族のなかには、「わたしたちは漢人とちがって……」と、漢人のよくない風俗を揶揄しながら、軽い憂さ晴らしをしている人も多くいました。
そもそも「内モンゴル自治区」でありながら、人口の多数派が漢族であり、そのほとんどが関内(つまり万里の長城の内側)からの移民の子孫であることを思えば、内モンゴルでは「漢化」がもはや後戻りのできないところまで進んでしまっていると言えるわけです。実際モンゴル語を母語としないモンゴル族も多いですし、モンゴル語自体も地域によってはクレオール化が進んでいるように聞こえます。
一方で、そこに暮らす漢族の人々はといえば、何かといえば羊の肉を準備し、酒に興じるとモンゴル民謡(漢語バージョン)を歌うなど、文化風俗の点ではモンゴル式のほうがむしろマジョリティを獲得しているようで、こちらは「モンゴル化」が浸透しています。もちろん、「わたしたちはモンゴル族とは違って……」と、モンゴル族のよくない風俗をあげつらって、自分を高みにおこうとする人も多くいました。

そもそも、ヨーロッパ全体にも匹敵しようかという大きな面積を持つ「中国」という国家がなぜ成立しているのでしょうか。「国家とは合法的に暴力を使用可能な唯一の主体である」といわれますが、そうであるならば、この巨大な地域システムは、暴力の合法的行使主体を数量的に極力減らすことによって成立しているわけで、人口比で見た場合、暴力使用権所有者の数が世界的に類を見ないほど極端に少なくなっていることに注意すべきではないでしょうか。つまり、中国というシステムは、暴力への依存度を極小化すべくして成立している、たぐいまれなシステムだともいえるわけです。では一体どのような力がこの巨大なシステムを支えているのでしょうか。わたしはこれに関する研究があるわけではありませんが、一元的な権力集中メカニズムが強権を発揮して現行秩序を維持しているという仮設は、これだけの面積と人口を有するこのシステムに対しては、さほどの有効性を持っていないのではないかと思います。

田島英一氏は「鼓腹撃壌」ということばを使って、比喩的に次のように語っています。 (『中国人、会って話せばただの人』、PHP新書、2006年)

帝堯は、みずからが天子としての合法性を備えているのかどうかを確認すべく、微服に身をやつして街に出た。そこで耳にしたのが、腹鼓と踏み脚でリズムをとる、老人の歌である。「日出でて作し、日入りて息ふ。井を鑿ちて飲み、田を耕して食らふ。帝力何ぞ我に有らんや」。要は、我々は日々労働し、自力で生きていたいように生きているのだから、お上など知ったことではない、という意味だ。帝堯は、それをよしとした。「鼓腹撃壌」する「民」のイメージは、たぶん、今でも変わらない。このような田園風景のなかで日々を送る民衆にとって、誰が共産党中央の指導者であるか、執政党の階級属性が何かなど、知ったことではなかろう。

もちろん、「鼓腹撃壌」の生活を乱すような力は徹底的に排除されるべきでしょう。田島氏はこう付け加えることを忘れてはいません。

しかしどうあれ、「鼓腹撃壌」の世界において、武器を手に侵入してくる破壊者は、絶対的に悪だ。

ただ一方で、ここに欠落しているのは、皇帝権力の合法性を賦与している「天」はすなわち「公」であるということです。今日では皇帝はもはや存在せず、共和国体制ですから、「鼓腹撃壌」の日常を守るためには、なおさら国家理性の力を借りる権利も必要もあるでしょう。国家が公正と理性を体現している/するべきだという考えは、いわゆる「钉子户」問題のときにも象徴的に示されていました。
わたしが思い出すのは、映画『英雄HERO』が、「天下」のフレームワークのなかでの文化アイデンティティを思考しようとしていたことです。あの映画は張芸謀の失敗作として評判がよろしくないようです。たしかに「天下」の登場のしかたは陳腐に見えるかもしれません。しかし、趙の末裔(章子怡)だけが最後に生き残り、侠客が滅んでいくあたり、この映画もなかなか侮ることができないものだと感じるのは、わたしがオメデタイからでしょうか?

民族自治制度にせよ、特別行政区にせよ、その構想は、あれかこれかという二項対立を超えた「多元一体」的統合モデルの模索であると言えるでしょう。矛盾を含みつつそれを一元的に解消することなく維持発展していくということなのだと思われます。

Tuesday, June 26, 2007

中国における1960年代の消失

拙訳の汪暉「中国における1960年代の消失(下)-脱政治化の政治をめぐって-」が掲載された『思想』第999号が発行されたようです。汪暉氏の単発の論文としては、「グローバル化のなかの中国の自己変革を目指して」(『世界』1998年10、11、12月号)以降、最も重要なものではないかと思います。また、中国の批判的言説におけるカール・シュミット受容のひとつのケースとして見るのもおもしろいのではないかと思われます。
参考までに、原題は、《去政治化的政治、霸权的多重构成与六十年代的消失》でした。

外国事情(アジア事情)ユニット3ミニ・レポート課題

  • 「思考課題」について、800字以上のミニ・レポートを作成しなさい。ワープロの場合は、末尾に字数を記すこと。
  • 締め切り:7月2日(月)18:00。
  • 提出先:石井研究室(27-514)のポストに投函すること。

思考課題:

授業で学んだ背景を頭に入れた上で、映画『芙蓉鎮』を観賞しよう。

Monday, June 25, 2007

日本的实用主义和鹤见俊辅

有一则报摘,翻译如下(文章来源:朝日新闻2007年6月24日。点击网络版):

《鹤见俊辅新著重新思考实用主义》

著名哲学家鹤见俊辅本月25日迎来其85岁生日。他的新著《偶然生在这个世界:半个世纪后的“美国哲学”讲义》(『たまたま、この世界に生まれて-半世紀後の「アメリカ哲学」講義』)这一天将刊行。鹤见曾十几岁时赴美就读于哈佛大学,1950年发表其处女作《美国哲学》,论及了“实用主义”。他在新著中回顾了当年的思考并探索对未来的展望。鹤见在自古以来扎根于乡土的生活智慧中看到了实用主义。
实用主义的观点认为人的观念若不付诸行动或见于经验则毫无意义。1870年前后,查尔斯·帕斯、威廉·詹姆士等在美国麻萨诸塞州剑桥主持的“形上学俱乐部”孕育了这种思想。
鹤见列举了深入阅读詹姆士的夏目漱石柳宗悦,以及提倡“小日本主义”的石桥湛山等人物,认为他们都是受到实用主义思想深刻影响的日本人。与此同时,他也指出,实用主义的思想没有渗透到大学的哲学学科中去,其原因为:“大学成为了制度性的框框,没有余地容纳实用主义。”他批判道:“先有了哲学史的框架,框架外的哲学家没法进入它。这样哲学就不能思考流动的思想了。”

他认为实用主义实质上存在于学院之外的,自古以来的“土法”当中。
根据龙谷大学客座教授、科学史专家山田庆儿,“土法”一词来源于中文,指“与当地的自然条件、风俗习惯以及社会组织等相结合的独特的技术或做法”。
拿其新著所举的事例而言,北欧拉普兰德(Lapland)人深谙雪的种类,在他们各种各样的土法中,可以看到实用主义。他们有关雪的种种观念直接关系到他们的实际生活,而不是供于学者们进行分类。鹤见建议人门“要将藏于土法中的实用主义挖掘出来,从日常语言当中出发重新进行思考”。
鹤见从哈佛毕业之后,乘坐日美交换船回国。之后再也没有访问过美国。
他说“我在哈佛的时候,美国具有多样性”,但经过越南战争、伊拉克战争之后的今天,“美国开始用暴力的方式把自己的正义强加于他国了”。他对此表示担忧。他还说:“日本高高兴兴地要参与到美帝国主义的一部分。对此,我是要反对的。‘美丽的国家’日本的美仿佛纳粹的美。”

采访录

「十年文選」の刊行に併せて、『読書』に関する紹介や評論文が多くなっています。本ブログでも最近はこの話題ばかりのような気もしますが、懲りもせず、もう一つ。

「左岸文化」掲載の汪暉氏に対するインタヴュー記事です。以下はその抄訳。

南都週刊(甘丹、以下南都)読者の中には『読書』は人文雑誌なのだから、より独立した人文精神を保つべきではないか、現実の社会問題や政治問題に介入しすぎるとそうした独立した人文精神に影響が出るのではないかと考えていると思いますが、如何ですか。
汪暉:(省略)『読書』の現実介入は必要なことだと思います。ただ、わたしたちの介入のしかたは新聞のようなやり方ではなく、知識人の省察的文章、理論的文章を通じて、理論的、思弁的な視野から介入していくわけであって、直接介入していくのではありません。90年代にこの雑誌を引き受けたときには、もっと窓口を広く開けて、視野を広げたいと思っていました。当時、温鉄軍氏の文章を載せましたが、その後あのような反響が生まれるなどとはまったく予想していませんでした。医療制度改革とか、教育問題とかの議論が全部そうなのですが、わたしたちはこれらの議論が社会全体に大きな影響をもたらすとは決してのぞんでいません。わたしたちはそれほどナイーブではありません。『読書』の役割は、知識人の真剣な、厳粛な議論の場を提供するということにあり、『読書』での議論を通じて、これらの議論を公共空間での生活全体に拡げていくということです。『読書』が介入しなければ、知識人の介入もなく、現実的問題は永遠に、国家体制内での純然たる専門家同士の議論になるか、それともアカデミズムの中での学者の議論になってしまい、公共空間における生活の一部にはなり得ないでしょう。
(中略)
南都昔からの読者の中には、『読書』の最近の文章は、現実問題を議論しているので、結果として以前のものほどおもしろくないし、わかりにくいという声もあります。
汪暉:(省略)『読書』が直面しているのは、大衆文化関連の雑誌です。それらに比べれば、読みにくいのはあたりまえでしょう。ではそうした状況の下で、『読書』は学術の中へともどっていけばいいのか、それとも大衆文化を完全に取り入れるべきなのか。わたしたちはもちろん、読みやすい文章がいいと思っています。しかし、完全に大衆文化的になってしまうことはのぞんでいません。今の世代の読者と上の世代の読者とでは読書傾向が全く違います。今の世代は大衆文化に詳しいですが、上の世代はハイデガーとかニーチェのような読みにくい文章に夢中だったのです。『読書』の文章は一種のバランスを保つべきでしょう。問題に深く分け入っていけるだけでなく、できる限りおもしろく、読みやすくあるべきです。ただ、あらゆるテーマがすべておもしろい文章になるというわけではありません。これはたしかに今やろうとしてもなかなか難しい問題です。
(中略)
南都では、『読書』は一体どのような責任を担っているのでしょう?
汪暉わたしたちは『読書』が本当の意味で知識人のフォーラムになることを希望しています。それは開放的で、幅広い自由を大切にする議論の場です。90年代半ば以降、社会では思想論争がたいへん盛り上がりました。それまでの20年間をはるかに上回るといってもいいほどです。しかも、問題の複雑さも以前とは比べられないほどになりました。だから、わたしたちは、『読書』がこうした複雑な問題に関する議論を本当の意味で展開できることを希望しているのです。特にここ数年来、社会的には、また大きな変化が生じ、新たな問題が次々と発生しています。『読書』はこういうときだからこそ、こうした議論の場を提供していく必要があります。

Thursday, June 21, 2007

儒家传统和社会主义

『読書』2007年第6期の『編集後記』から。

三農問題、貧富の格差などの社会問題に関する議論が起こるたびに、伝統(とりわけ孔子と儒学)と社会主義の歴史をめぐる論争が繰り返されている。伝統を遡るのであれ、社会主義を振り返るのであれ、それらは今日の中国社会の変遷に対する反応として行われている。儒家の伝統と社会主義的思考は、短い二十世紀において、しばしば対立しあい、反目しあっていた。だがなぜ今になっても記憶の流れの中で、それらはそろって屹立しているのだろうか。孔子と魯迅は現代思想の系譜の中で対立する二つの思想的座標だ。一方に対する肯定は他方に対する批判を引き起こす。市場社会の形成プロセスにおいて生じてきた問題に対して、ともに何らかの意見を表明しようというときですら、二つの思想的伝統の牽引者たちの間には、しばしば厳しい思想的不一致が見られる。しかし絶えることのない激しいやりとりの中に、わたしたちは別様の旋律をおぼろげながら聴き取ることができる。つまり、両者を延々と続く伝統の中に組み入れて総合していく道を求める旋律だ。(中略)

思えば、儒家と社会主義を同じ脈絡のなかにおいて理解しようというのはなにも新しいことではない。80年代のころ、わたしたちは儒家思想と社会主義をそろって否定し、社会主義の失敗は実のところ中国的伝統の結果であると考えたのだった。思想的には、これは20世紀における中国的モダニティに関する自画像(伝統と近代の対立という)をかき改めることによってできあがった、初めての総合であった。今日、市場社会が形成され、グローバル化の波が押し寄せる中で、一部の知識人たちは、この両者は相互に結びつき、刺激し合うことが可能であると信じて、両者の関係を対立から疎通しあい連続性をもったものへと変えようと努力している。つまり、初めての総合は、否定というかたちで完成したが、二度目の総合は肯定というかたちで始められたのだ。(中略)

儒家伝統に対する厳しい批判と社会主義の勃興は、どちらも20世紀に生じた現象だ。20世紀の社会主義者たちは伝統に対する徹底的な訣別の中から革命を深めていく途を探そうとし、保守主義者たちは伝統を守ることの中で社会主義とその革命の進み行きに対して揺るぎない否定的態度を貫いた。したがって、両者の総合を求めていこうとするときにも、20世紀という問題を再検討することを避けて通ることはできない。(中略)

マルクスは「19世紀」を観察したときに述べている。「19世紀の社会革命は、過去からでなく、未来から自らの詩情をすくい取る」。彼はこうもいっている。「かつての革命は過去の世界史的事件を振り返る必要があった。それは自らの内実を自己欺瞞的に隠蔽するためだった。だが、19世紀の革命は、死者をして自分たちの死者を葬らせるだろう。それは自らの内実を自らがはっきりと理解するためなのだ」。19世紀から20世紀の間、未来はいつも中心的テーマだった。ポスト20世紀的な空気が充満する中で、市場化とグローバル化がわたしたちの生活をリードするパワーになっている。このような中で、未来の不確実性はわたしたちの時代にも君臨しているのだ。19世紀や20世紀のような革命の時代はもう終わった。しかし「未来」という問題はまだ残っている。総合を求めるという場合に大切なことは、過去を振り返って自らの内実を明らかにし、新たな歴史意識を再び構築して未来をひらくことだろう。


わたし(石井剛)宛てにメールを送信できる機能を新たに加えました。

Wednesday, June 13, 2007

《读书》专题研究

《左岸文化网》という文芸評論サイトの存在については、以前紹介したとおりですが(5月5日の記事)、そこにこれまた以前(5月15日)触れたことのある雑誌『読書』に関するテーマ研究論文集が掲載されています。研究を行ったのは、北京大学を中心として、清華大学、南開大学の大学院生が参加するグループです。日本の大学でもしばしば行われている(いまはどうなのか?)、自主ゼミのようなかたちの自発的な集まりのようです。もっとも、コアメンバーは『北京大学研究生学誌』という、北京大学の大学院生がつくる学術雑誌の構成員たちで、2005年に現代学術史研究をやった延長上で、『読書』をその創刊時から一気に読み直そうということになったのだそうです。以下にその概要を紹介しましょう。
  1. 师力斌《导言:知识分子的心灵史》(師力斌「はじめに:知識人の魂の歴史」)

  2. 刘岩《80年代〈读书〉与后80年代思潮--以“自由主义”和“文化保守主义”为中心》(劉岩「80年代の『読書』とポスト80年代の思潮--「自由主義」と「文化保守主義」を中心として」)……90年代の「新自由主義対新左派」の図式として表現されるようになった論争も、もとはといえば、消極的自由の追求に価値を置くリベラリズムと文化保守主義がコインの両面として共存するハイエク的自由主義を肯定するような価値観を共有していたと筆者はいいます(ここで挙げられているのは、新左派の代表的人物崔之元氏と台湾のハイエキスト林毓生氏、さらに現代新儒家の大物杜維明氏です)。

  3. 薛刚《往事与随想--〈读书〉史学类文章研究》(薛剛「往事と随想--『読書』歴史学関連記事研究」)……『読書』に90年代以来、掲載されてきた歴史ナラティヴの「書き直し」に関わる記事を、思想史、近代高等教育史、「忘却の歴史」、「マクロヒストリー」、学者史、という諸分野にまとめて紹介しています。基本的にこれらは、『読書』もまた90年代の学術史・思想史ブームという大きな文化背景の中で、話題を提供してきたことを物語っているでしょう。このうち、思想史分野に関しては、孫歌氏らの貢献として、溝口雄三氏に代表される「日本発の史的視座」の紹介と影響について触れられていることが、日本人読者の興味を引くところでしょうか。

  4. 郗戈《未来不能没有马克思--〈读书〉杂志中的马克思形象》(郗戈「未来にマルクスは欠かせない--『読書』におけるマルクスイメージ」)……「読書に禁区なし」という標語とうらはらに、80年代初期の『読書』は、イデオロギーとしてのマルクス像を遵守しながら議論を展開していたと作者はいいます。しかし、それはやがて学理としてのマルクス、周縁化したマルクス(以上80年代中後期)、近代批判言説としてのマルクス(西欧マルクス主義、90年代)へと変化していきます。このながれは、直接、近年来市民権を得たことば「公共知識人」たちの批判思想へと連結させられていきます。『読書』で繰り広げられる批判的言説のよりどころとして、マルクスがかつてのイデオロギーイメージを離れて、一種の理念型として観念されるようになったというのです。

  5. 钟城、方利维、陈小鼎、黄琪轩《〈读书〉中的政治哲学与政治科学》(鍾城、方利維、陳小鼎、黄琪軒「『読書』における政治哲学と政治科学」)……80年代には、多くの西洋政治思想が紹介され、中でも、ルソーの存在が重要であったことは、2.の中でも触れられています。ルソーは、「ブルジョア的自由主義・平等」に対する主な参照例として関心を引き起こし、同時に「一般意志」をめぐって、消極的自由と積極的自由をそれぞれ擁護する論争へとつながっていった、と2.は概括していました。また、4.では、80年代後期におけるウェーバーの影響、また、90年代以降の、西欧マルクス主義言説を主流とする状況の中での、ローティやデリダとの対話の試みなどに言及されています。一方、この論文では、外国政治制度に関する比較政治学的視座、国際関係論といった「政治科学」関連記事の整理に力点を置いています。やはり特徴的だと思われるのは、第三世界に対する関心が一貫して持続していることでしょう。また近年では、9・11後のグローバル政治に関する批判言説が、やはり、この論文でも取り上げられています。

  6. 艾佳慧《“阳阿”“薤露”的尴尬--〈读书〉中社会学类文章概观》(艾佳慧「「陽阿」「薤露」のきまずさ--『読書』における社会学関連記事概観」)……「陽阿」と「薤露」は古代楽曲の題名。通俗楽曲としての「下里巴人」や雅曲の代表「陽春白雪」とのはざまにあって、俗でも雅でもない中間性を標榜したのが『読書』だったと作者は述べています。この論文が対象にするのは社会学関連記事ですが、ウェーバーやブルデュー、フーコーらが『読書』を通じて中国に広く知られるようになり、また中国社会学の元祖ともいえる費孝通などの初期の成果への注目にかんしても『読書』の貢献は大きかったにもかかわらず、紹介の文章が、まさにその読みやすさ故にアカデミズム言語の記憶から取りこぼされてしまっていると作者は分析しています。1997年に汪暉氏や黄平氏が編集を担当するようになってから、戸籍制度改革、国有企業改革、三農問題、農民工問題などに対する記事が多く見られるようになりましたが、しかし、本質は変わっておらず、その結果として読者離れを起こしている、と作者は指摘しています。もっともこの読者離れの背景として、中国アカデミズムにおける学術生産評価制度などの仕組みが関わっていることを思い越す必要もあるでしょう。なお、かつて毛沢東がかの有名な延安での『文芸講話』で、「現在取り組まなければならないのは、「下里巴人」と「陽春白雪」をいかに統一するのか、つまり質の向上と普及との統一の問題なのだ」と述べていることが思い起こされます。
  7. 刘念《以学术介入生活--〈读书〉27载经济类文章研究》(劉念「学術から生活にはたらきかける--『読書』27年経済関連記事研究」)……『読書』における経済関連記事の特徴を年代ごとに整理した上で、『読書』が経済的問題に強い関心を持っているというよりも、現実に対する人文学的関心から出発して、経済問題をとりあげてきたのだと作者は総括しています。経済記事については、今日では数多くの刊行物があり、『読書』の影響力は非常に限定的である、とりわけ「読書体」とも呼ばれる、一般向けではない文体が潜在的読者層であるはずの大学生・大学院生すらも敬遠がちにしている、と作者は指摘します。
  8. 陈振中《三代认同时面对文学》(陳振中「三世代が同時に向き合う文学」)……「三世代」とは、①1930年代から1940年代に登場し、建国後に埋もれてしまった作家(卞之琳銭鐘書など)、②1950年代に登場し、80年代に再び「花開いた」作家(王蒙王元化など)、③80年代の大学生、もしくは当時の若手研究者(劉再復陳平原など)を指します。作者によれば、とりわけ①と②③の間の差が大きく、80年代における「九葉派」詩人に対する回憶的記事が①によって多く執筆される一方で、当時流行していた「朦朧詩」は『読書』の中でまったく無視されていたといいます。80年代以降の文学創作や文学研究は、五四以降の伝統を参照しつつ、同時に過去との分裂を体現していたのであり、その意味では、中国知識界のあり方が89を分水嶺として変質したという一般的な見方に対して、作者は疑義を呈しています。
  9. 高慧芳《〈读书〉中的黄裳》(高慧芳「『読書』における黄裳」)……黄裳氏は古書探訪や辨僞などに優れた功績をのこす蔵書家・作家で、80年代『読書』に最も多く文章を掲載した人です。考証学的な手法や文人趣味的な関心によって多くの散文を書き、それが「読書に禁区なし」の『読書』の中で、一貫した場を得続けていたということ、それ自体が興味深いことで、論文集の最後の一篇を飾るのにふさわしい論文ではないでしょうか。

さて、いろいろありましたが、最初の紹介文にもあるとおり、『読書』は学術専門誌ではないので、この研究グループが各ディシプリンごとに分担して分析を行うこと自体、当初から無理がなかったとはいえず、その点こそが、『読書』のユニークなスタイルを象徴しているとも言えるでしょう。

この文章のオリジナルはこちら>>

Monday, June 11, 2007

小岛毅《近代日本的阳明学》

小岛毅老师最近陆续发表新著,其中大部分都是他的专业范围之外的著作,而且一发表出来,一定会引起一些反响,这应该说是在日本研究中国思想史的圈子里近年来少有的盛况。此栏标题所提的著作《近代日本的阳明学》系2006年由讲谈社出版。在日本读书界素有广泛影响的《朝日新闻》书评栏目也登载过该书的评论。小岛老师在其后序中写到:

我原来打算将本书的内容在中文刊物上连载。因为有位中国朋友曾建议我写篇介绍日本儒教精神的文章。尚无象样的解说这一事实构成了日中两国之间文化摩擦的原因之一。当是时,刚就任还不久的小泉纯一郎首相参拜了靖国神社,这一事也促使我要向中国人民好好说明事已至此的历史经过。因而我下决心要以三岛由纪夫剖腹自杀事件为支点论述阳明学和武士道之间“被建构的关联性”。

当然,小岛老师是反对任何日本政治领导参拜靖国神社的,但他的反对和其他日本批判知识分子的反对法并不一样。他甚至以开玩笑的口气说过高桥哲哉先生(以反对靖国神社著名的哲学教授)和石原慎太郎实质上都是囿于现代思想的框框,看不到问题的实质根源。据小岛老师的观点,江户时期水户学派的思想支撑着“靖国神社历史观”的文化-心理基础,而其实质便是日本本土化的阳明学思想。小岛老师用“纯粹动机主义”一词来概括此种日本阳明学的精神。

有一个惟我是善的逻辑在戊辰战争中确立了下来:只有死跟着天皇的人们才是正确的。这种逻辑来源于藤田东湖作为他的本职工作参与编纂的《大日本史》。这也是先于此书风靡一时的赖山阳《日本外史》的宗旨。现在还有些人宁可停止思考,看待二战就端赖于它是动机正确的“大义”之战,至今还宣扬其为“圣战”,而从来不去问“为什么被打败”。这种拒绝反思的态度无非是水户学的大义名分论和日本阳明学的纯粹动机主义相结合的产物。我在本书中要去论证这一点。

“戊辰战争”乃开启了明治维新的倒幕(打倒德川幕府)战争。小岛老师在新近出版的另一本专著《靖国史观》中对以倒幕运动为主的明治维新的意义进行了全新的阐释。小岛老师认为倒幕士人实非英雄,他们只是利用天皇武力推翻幕府政治的“恐怖分子”而已。也就是说,当英雄看待倒幕武士(明治维新领导)的叙事本身就是后来的主流话语所建构起来的假象。而小岛老师如上叙述的要害在于明治以后至今的日本思想运动、社会运动以及政治运动,无论是当权方发起的还是批判力量所开展的,大多都包含着“戊辰战争”以来的“纯粹动机主义”。因此他认为,仅仅反对靖国神社所代表的二战观远远触及不到靖国神社问题的本质,真正要反思的应该是以“动机纯粹”与否来对人的行动进行评判的这种日本民族“现代”心性。

不知道有没有人愿意将此书翻译成中文?我也期待此书引起反响之后在日本公共论域中会出现不同于以往的新气象。

顺便说一句:此书随处可看到小岛老师巧妙的幽默。可惜,在我听他的课的记忆中似乎没有他在课堂上开过那样玩笑的印象。

Friday, May 25, 2007

汪晖新作

岩波書店『思想』第998号(2007年6月号)に、拙訳の汪暉「中国における1960年代の消失-脱政治化の政治をめぐって-(上)」が掲載されました。7月号には後半部分が掲載される予定だそうです。汪暉氏によると、これは革命の歴史としての中国20世紀に対する考察の予備作業に位置づけられるということですが、この構想自体は少なくとも3年前には雛形がある程度できあがっていただろうと思われます。例えば、2004年8月に行われた许燕氏によるインタヴュー《“去政治化的政治”与大众传媒的公共性》は、重要な原型のひとつでしょう。2004年といえば、かの4冊本『現代中国思想的興起』が出版された年です。その序文の中で、汪暉氏は、
本書には追加されるべき内容がたくさん含まれている。例えば、中国革命とそのイデオロギーに関する歴史的分析だ。長い20世紀の中で、中国革命は中国社会の基本構成を徹底的に変革した。わたしたちはただ「中国」という範疇の連続性のみに頼ってモダン・チャイナのアイデンティティ問題を説明することはできない。
と述べています。『現代中国思想的興起』は、「「中国」という範疇の連続性」のほうに重心を置きながら、「モダン・チャイナ」生成の歴史を叙述したものです。しかし、通時的ナラティヴの形式を「歴史」ではなく、「興起」という概念によって概括したことに最も象徴されているように、汪暉氏がこの大著の中で示そうとしたのも、リニアーな連続性・一貫性においてレジティマシーを求めようとする権力性を不安に陥れるような「生成」、もしくは「生生」としての歴史であったはずです。その意味で、汪暉氏が、20世紀における革命の意味をもう一度省察しようとするのは、ほとんど必然の成り行きといってよいものでしょう。さらには、この問題意識はやはり1980年代末の魯迅研究に淵源しているというべきものだと私は思っています。
『現代中国思想的興起』は、目下、日本語に翻訳されるべき中国語著作のナンバーワンであると思われます。

汪暉『現代中国思想的興起』に関する書評集はここをクリックしてください(学術中国サイト)>>>

Thursday, May 24, 2007

现代中国哲学史

台湾大学哲学系の杜保瑞氏の《现代中国哲学在台湾的创造与发展》(台湾における現代中国哲学の創造と発展)は、現代中国哲学史の教科書的概説として比較的有効な文章だと思われます。「思与文」からのコピーです。目次は以下の通り。
  1. 前言
  2. 关于中国哲学研究方法的检视
  3. 思想史研究与哲学研究
  4. 义理研究与哲学研究
  5. 关于中国哲学方法论的检视
  6. 中国大陆的中国哲学方法论尝试
  7. 借鉴于西方哲学的方法论转化
  8. 儒释道三学研究成果的检视
  9. 现代中国哲学在台湾的创造与发展
  10. 哲学研究的目标
  11. 平等接受儒道释的价值心灵
  12. 中国哲学是理性活动的一种型态
  13. 以功夫理论与境界哲学为中心的基本哲学问题诠释模型
  14. 佛学系统的基本哲学问题诠释模型
  15. 劳思光心性论中心的方法论
  16. 牟宗三道德形上论中心的方法论
  17. 概念范畴中心的方法论
  18. 现代中国价值心灵的再取择

Tuesday, May 22, 2007

「外国事情(アジア事情)」ユニット2ミニレポート課題


  • 「思考課題」について、600字以上のミニ・レポートを作成しなさい。様式は問わない。

  • 締め切りは5月28日(月)18:00。

  • 提出先は石井研究室(27-514室)。ドア前のポストに投函すること。

  • 他からの丸写しが明らかなものは評価しない。

「思考課題」:ユニット2では、中華人民共和国の成立に至るまでの近代史を概観した。授業に基づいて、この歴史を振り返ってみよう。また、映画『黄色い大地』と『紅いコーリャン』が描き出した世界を参考にしながら、歴史と人々の関わりについて、自分なりに考えてみよう。

中国汽车业发展状况

過去数年間、WTOが自動車の競争と価格下落をもたらし、それに続いて、中国自家用車の成長と中国自動車産業全体の大きな発展がもたらされた。中国の自家用車台数は、1987年には35万台だったが、2000年には625万台となり、2005年には1848万台にまで成長した。これは1987年との比較では53倍、2000年と比べても1.96倍という数字だ。中国都市住民100戸あたりの自家用車保有台数は、1999年には0.5台だったが、昨年は3.37台となった。自家用車購入の増加が中国自動車産業の拡張を支えている。中国の年あたり自動車生産量は長きにわたって数十万台から百万台のレヴェルにとどまっていたが、2000年には初めて200万台を突破し、2005年には571万台(1.76倍)となった。
マクロコントロールの影響を受けてはいるものの、過去三年の間、中国自動車関連企業の売り上げは良好で、業界全体の利潤は平均51%拡大している。


赵晓《宏观经济继续高走,汽车时代提速可期》 (『南方週末』2006年11月16日)からの摘録。作者趙暁氏は、北京科技大学経営管理学院教授。

Tuesday, May 15, 2007

《《读书》十年文选》即出

1996年から2005年までの10年間に『読書』に掲載された論文の数々が、文集(《改革:反思与推进》、《重构我们的世界图景》、《逼视的眼神》、《亚洲的病理》、《不仅为了纪念》、《〈读书〉现场》の計6冊)となって発売されるようです。汪暉氏、黄平氏連名の序文が複数のサイトに掲載されています。『読書』が「読書に禁区なし」をスローガンに創刊されたのが1979年、1999年には20年記念のCD-ROMも発売されました。もうあと少しで30周年になろうというこの時になぜ、とも一瞬思いましたが、現在の『読書』を支えている汪暉氏、黄平氏が編集を担当するようになって10年ということなのかもしれません。今でこそ、同様のクオリティ雑誌(中国で「思想評論雑誌」と呼ばれている類のものを指しています)が多数あり、古い読者の中には、『読書』はつまらなくなったという人も少なくないようです。私自身は読者歴がまだ十年にも満たないので、比較のしようもありませんが。何はともあれ、序文の中にも書かれているとおり、この十年の間に、中国の知的言説を取りまく状況は大きく変わったというべきでしょう。80年代の「文化熱」のことが序文にも触れられていますが、最近のネット上での活発な言論状況を見ると、90年代の「学術史ブーム」のころとはまたすっかり様変わりしたような感慨を受けます。もしかすると、80年代への回帰現象なのだろうか、と思ったりもします(《大国崛起》というドキュメンタリーが物議を醸していたりしますし)。
やはり、90年代後半、いわゆる「新左翼対新自由主義」論争が、注目を集め始めたころから、つまり、正にこの「十年文集」が軌跡を描き始めてからが分岐点なのでしょうか。『学人』が目指そうとしたものは何だったのかが、改めて気になるところではあります。
翻って日本では、「国民投票法」が可決されるなど、時代と個人、正に「勢」と「理」と、そのはざまで生きていくしかない個々人の主体的選択の問題を考えさせる話題には事欠きません。中国の状況については傍観者でいるということが、一方では、何らかの「勢」のなかにコミットさせらている/していることでもあるという意識は、かつての『広場の孤独』(堀田善衞)ではありませんけれど、見落とすべきではないものではあるでしょう。

『読書』ってどんな雑誌?とたまに聞かれることがあります。正直言って、日本に同様の雑誌はないと思います。以前は、『批評空間』かな、とも思いましたが、あのような尖鋭さは『読書』にはないようです。『読書』の中では時事問題は扱われませんが、純粋に学術的な論文もまた掲載されません。時事的な背景を十分に意識しながら、それを敢えて直接語ることなく、思想・文化・学術を論じるという、巧みなバランス感覚がこの雑誌の「肝」だと思います。こういう媒体を支える書き手と読者がいるということが、中国語の言説空間の豊かな広がりを示しているのではないでしょうか。

Monday, May 14, 2007

所谓“钉子户”

中国で近年来大きな社会問題として取り上げられている「野蛮拆迁(暴力的な取り壊し)」、これは不動産開発に伴う住宅地の土地収用と家屋取り壊しが、正に暴力的な強制を伴って行われている現象のことで、最近では、重慶で立ち退きに抵抗する「钉子户(くぎ世帯)」の様子が、写真入りで日本を含む海外メディアにも多く取り上げられました
海外メディアや、海外のチャイナ・ウォッチャーたちは、最新の中国情報を中国メディアを通して得ているので、当然のことながら、このニュースについては、中国国内でも話題沸騰であったようです。左岸文化には、张宏良《“钉子户”把什么钉上了中国历史?》という文章が掲載されています。その冒頭にはこう書かれています。

数日前、重慶歌楽山のふもとで風を受けてはためく巨大な五星紅旗が中国全土、ひいては世界の注目を集めた。基礎の周囲に、20メートル以上の深い穴が掘られ、今にも倒れそうになっている古びた家屋の屋根には、この家屋の男主人が日差しを防ぐように、鉄塔のように高く中華人民共和国国旗を掲げ、女主人は、中華人民共和国憲法を手に持っている。彼らは国旗と憲法を使って、基礎が掘り起こされて今にも倒れそうな、先祖から伝わる家を守っている。

ポイントは、彼らにとって国家とは何か、ということです。張宏良氏は、このような暴力的措置に出るのは、往々にして地方の国有企業だといいながら、「国有企業」は、現在、「官営企業」に成り下がってしまったといいます。

経済的性格からいえば、国有企業は全民所有制企業であり、公有制としての性格を持つ。一方、官営企業は官僚集団独占企業であり、私有制としての性格を持つ。官営企業と私営企業は、私有制経済の基本的な二つのかたちだ。前者は集団的独占であり、官僚資本に属する。後者は私人による独占であり、指摘資本に属する。だが、両者の私的独占としての経済的性格は全く同じだ。ただ、私人による独占に比べて、集団的独占の最大の特徴は、贅沢三昧をきわめることだ。(中略)中国の勝ち組たちが「我が世の春」を日々謳歌していられるのは、国有企業改革を通じて、国有企業が官営企業に変わったことがその根本にある。

このような事情、そして、不動産開発ブームに乗った野放図な土地収用の現状については、興梠一郎氏が紹介しているとおりです。その『中国激流』では、こう書かれています。

問題の根源は、住民の財産権を保障する法律がないということである。「憲法」には2004年3月の全人代で、「合法的な私有財産は侵犯されない」(第13条)と新たな規定が設けられたが、私有財産を保障する法律は制定されていない。住民が「憲法」の条文を盾にとって立ち退きや取り壊しに反対しても、裁判所で受理もされない。ただ、この点についても政府は動きを見せ、「物権法」の起草に入っている。起草グループの一人である著名な法学者・江平教授は、「「物権法」は、個人の私有財産保護の問題を解決するために必要だ。立ち退きで発生する問題も対象だ」と語っている。

しかし、「物権法」は、こうした「钉子户」に救いの手をさしのべるのでしょうか。再び、張氏の文章を見てみましょう。

理屈上では、「物権法」が可決したばかりの今、たとえうわべだけであったとしても、法律エリートたちはこうした「钉子户」に同情を示してもいいはずなのだが、驚くべきことに、「物権法」起草グループを含む、この法律を宣伝していた法律家たちは皆、強制立ち退きを支持している。

このくだりは、いわれのない言いがかりではなさそうです。興梠氏も紹介している中国政法大学の江平氏は、「物権法」起草に関わった知識人グループの代表的人物ですが、立ち退きを支持する発言は、中国メディアで広く報道されました。彼は、司法的判断の下で正しく補償が行われることを前提として、なおも「钉子户」がその補償に不服である場合には、強制立ち退きは支持されるべきだと述べています。ただ、氏も認めるとおり、現行の法律では、補償の適切さ如何を判断するのに依拠可能な法律がないようです。
さて、これは一体どうしたことなのでしょう。日本の報道では、往々にして財産権の私有化拡大に関連する中国国内政治・経済・社会の動向を、ポジティヴな変化としてとらえる傾向があるようです。しかし、本当にそうだとすれば、このような文章、そして現象をどのように理解すればよいのでしょうか。今、中国で起こっている変化をどのようにとらえるのかということは、「新自由主義対新左派」として表象される長き論争(もうかれこれ十年近くなりました)をどう評価するかにもつながりますので、予断を許しません。
ただし、このあたりの複雑な襞をほぐしていくことなく、ただ伝えられてくることだけを見ていては、そこに意識的・無意識的に設定されている前提を隠し、その結果、大切なものを見落としてしまう可能性がありそうです。
 

Tuesday, May 8, 2007

“我们日本人”日文版

同名の投稿の日本語版です。村田先生のコラムは、リンクを貼りましたので、そちらでご覧ください。

村田雄二郎先生がご自身のブログに掲載されていた文章は、興味深いものでした(チベットに関する『教養学部報』からの抜き書きです)。このうち、「大チベット」にかんする疑問や多民族混在の現象に関する分析の仕方は、蕭亮中氏の議論を思い起こさせるものがあります。「民族」という固定観念を取り払うことによって、わたしたちは文化が交錯するより豊かな「調和」的空間を想像できるのかもしれません。中国における民族自治が最終的に目指していたのは、民族差異の克服ということでしたが、それは間違っていないと思われます。しかし、見方を変えてみると、いわゆるトランス・ナショナリズムのポスト近代論は、一方で、別の問題を隠蔽しているように思われます。今日では、少なくとも西側資本主義のコンテクストの中では、トランス・カルチャー、トランス・ナショナリズムは一種ポリティカル・コネクトネスであるかのような気配さえあります。わたしたちは自らの国民的アイデンティティを取り払って、主体的な個人として他者に向き合うべきだとする議論もあります。しかし、仮に体に焼き付けられている「日本国民」としてのしるしを消し去ったとしたら、この国、この民族にまつわる過去を一体どうやって自らの問題としてとらえ直せるのでしょう。この国がまだあの時代から遺された負の遺産を清算し終わっていないときに、わたしたちは本当に近代主義的な「国民」から、ポスト・モダンなトランス・ナショナリズムへと軽やかな飛躍を遂げていいのでしょうか。張旭東氏は、グローバリゼーションに関する有名な北京大学連続講演の際、終始「わたしたち中国人」ということを強調していました。わたしがいわんとしていることは、張氏の意図と必ずしも一致してはいないでしょう。しかし、「過去から期待されている」のであればこそ、「わたしたち日本人」という、この、あるいはすでに古くさくなってしまったかもしれない呼称をもう一度強調するべきなのかもしれないとも思うのです。

“我们日本人”

东京大学(驹场)地区文化研究专业教授村田雄二郎老师载于其博客上的一篇报摘(东京大学《教养学部报》),很耐人寻味。现转译如下:

当我们怀着这种憧憬或者忧虑之念试图建构在当代语境中具有积极意义且富于生产性的有关西藏这一地区“文化”的某种话语之时,我们所标榜的“地区文化研究”所包涵的各种问题立即浮现上来。如何定位并界定西藏这一“地区”的范围?其实,这个问题本身就是一个重大问题。我上面提到过“西藏自治区”,无须讳言,设在印度的达赖逃亡政府对此提出抗议,说这是中国政府擅自划定的。行政上的区域划分和民族文化圈域之间有不一致性,这可以说是世界上常见的现象,所以,他们所说在此层面上是有一定道理的。但是,他们所谓“我们西藏”的圣地的范围还包括东北西藏(青海、甘肃以及四川的部分地区)和东南西藏(云南和四川的部分地区)。的确,有很多藏族人民一直生活在这些地方,但其中大多都是多民族杂居地区,因此,这种“大西藏”实包涵汉族、蒙古族、穆斯林以及其它众多民族。不仅如此,就看西藏内部至今还存在着很难相互沟通的方言差距以及地方保护主义。即使万一将来实现“大西藏”的统一,新的弱势群体问题和民族问题一定会随之产生。实际上,我们稍微回忆历史就可以知道,对抗中国的西藏民族主义的产生并不在那么遥远的过去。依我所看,这无非是二十世纪这一“民族国家”的时代的产儿。在此意义上,如果说中国的民族主义和西藏民族主义是孪生兄弟,也并非言过其实吧。我们可以将围绕西藏展开的国际政治“纷争”从“地区”的视角重新视为现代民族主义的某种“症候”。另外,西藏“民族文化”的载体跨越喜马拉雅山脉分布在尼泊尔、印度、不丹等国家。当然,那里长期分享着人、物资和信息的交流;1950年代以后移居国外的藏民散居在包括欧美和日本在内的世界各地。这么一来,西藏文化在空间上的外延更是全球性的。而且,可叫做西藏离散族群的群体一面享受着发达国家的生活和文化,一面又在高度信息化的社会中加强和“祖国”之间的联系,正在重新构筑传统认同。乡土文化结合于全球主义,这也构成着地区文化研究要面对的新命题。……

这是一种很客观的分析。其对“大西藏”概念的质疑和多民族杂居的现状的分析令人不由得想起萧亮中先生的有关论述。离开“民族”观念的框框,我们可以想像更为丰饶的文化交融的和谐空间。所以,我认为,民族自治的最终目标定为民族差别的消解是对的。
但是换个角度看问题,跨国家主义(或曰跨民族主义,即trans-nationalism)的后现代思想也在另一方面遮蔽着另外一种问题。目前,至少在西方资本主义的语境中,跨文化、跨民族主义已经构成了一种政治正确。有些意见也说,我们应该先把自己的国民身分抛在后边,作为一个有主体性的个人面对他者。但是,如果真能把深刻地镶在身上的“日本国民”的印记抹掉的话,我也不知道如何能把这个国家、这个民族的那些过去看作自己的问题来对待?在这个国家还没有清算那一段历史所遗留下来的负的遗产的时候,我们真的可以从现代主义的“国民”轻松跳跃到后现代的跨国主义吗?记得张旭东先生在北大连续讲全球时代问题的时候,始终强调的便是“我们中国人”。我想说的不一定和张先生的意思一样,但我想正因为“过去给我们寄予着期许”,我们或许更应该强调“我们日本人”这一似乎已落后于时代的称谓。

写于日本国庆后。
   

Saturday, May 5, 2007

中文网络公共空间

中国のネット人口は1億3千万人いるそうです。そのうち、携帯電話からネットに接続している1700万人をを除いたとしても1億人を超える人が毎週1時間以上、インターネットを閲覧しているということになります(中国互联网络信息中心第19次中国互联网络发展状况统计报告,2007年1月公布)。
「人多力量大(人が多ければ力も大きい)」とはよく言ったもので、この1億人の裾野を持つ中国語のネット環境は多彩な広がりをもっているようです。日本でも中国のネット言論について、例の小泉首相(当時)の靖国神社参拝や、日本の国連常任理事国入りに対する反対運動が盛んだったころに、ずいぶん注目されました。残念ながら、断片的に紹介される状況は興味本位のものが多く、中国語のインターネット空間で展開されている多彩な議論の質に関する問題になかなか届かないようです。
中国を研究対象にしている方々であれば、もはや当たり前の常識になっていますが、中国語のインターネット空間で形成されている知的言説の多様さと広がりは、実にうらやむべき状況を呈していると言えます。他言語を支持していないのが何より残念なのですが、下の方に、いくつかリンクを貼り付けておきます。
こうしたサイトで繰り広げられている学術・思想的言説のなかには、ネット上で初めて公開され、あちらこちらに転載されていくもの、紙媒体の出版物に掲載されたものが、読者らによって転載されていくものなどがありますが、なかには、香港の『二十一世紀』(香港中文大学)のように、学術雑誌でありながら、過去に掲載された論文をネット上で再公開しているような例もあります。それはこうしたアカデミズム系のものばかりではなく、例えば、『南方周末』『三联生活周刊』のようなジャーナル系の新聞・雑誌も、記事をネット上に公開しています。
もともとこのブログを立ち上げた目的のひとつにも、これらの中国語サイバー空間の知的言説を多少なりとも日本語で紹介したいというのがありました。いずれにしても、こうしたハイレヴェルの言論空間がネット上で展開されている状況は、何ともうらやむべきものであると感じます。

「学術中国」:学術系サイトの代表格。
「思与文」:華東師範大学中国近代思想文化研究所が運営するサイト。
「左岸文化」:文芸批評中心のサイト。
「中国現象学」
「UTOPIA乌有之乡」

以上挙げたのはわたしが時々訪れることのあるサイトの一部にすぎません。これからも、おもしろい文章があれば、暇を見つけて紹介していく所存です。ラベル「译介(中译日)」をご覧ください。

Thursday, April 26, 2007

法和暴力的记忆

东京大学COE基地国际哲学中心(简称UTCP,即 University of Tokyo Center for Philosophy)2006年初举办过一次国际学术研讨会,我有缘参与了一些有关后台工作。此次会议办得很隆重,气氛又很热闹,全场弥漫着一种很热忱、高昂的氛围。最近,主持此会的UTCP高桥哲哉老师、北川东子老师和中岛隆博老师将会议论文都汇集起来,编成了一本书《法と暴力の記憶:東アジアの歴史経験》,现已由东京大学出版会出版。

中岛隆博老师撰写的后序我觉得写得很不错,下面其中的精彩部分翻译如下:

那是很奇妙的友谊,是建立在未曾谋面的陌生人之间的一种友谊。那是等待着相遇的人们之间的友谊,如果借本雅明和布莱希特的话说的话,那就是为了履行“攻坚强者莫之能胜”(《老子》第七十八章)的承诺建立起来的一种友谊。那么,这种友谊来自何方?再照着本雅明说的话,它便是从过去到来的。
是的,我们的“法、历史、暴力在东亚”的问题本身又是为了履行与过去的“秘密承诺”而发出的。要将过去从“强者”的束缚中解救出来!
在这里,关键在于这个过去就是我们自己的过去。过去并不会让特定的民族叙事回收起来,而它是一种不同的声音和不同的视角共同对之回应的对象。如果只用一个命题来概括贯穿本书《法和暴力的记忆:东亚的历史经验》中每一篇论文的基调,则:
“我们对一切过去担负着责任,一切过去给我们寄予着期许。”
这是一道很艰难的命题。“对一切过去担负着责任”是极其严酷的,甚至让人不由得塞耳侧目。但是,“一切过去”同时又“给我们寄予着期许”。这又是莫大的欣慰啊!我们并没有孤零零地被抛弃在这个世界之中。我们存在于世界的友谊之下。

Tuesday, April 24, 2007

「外国事情(アジア事情)」レポート課題

明星大学通识课“外国事情(亚洲事情)”小论文要求如下:
  • 「思考課題」について、800字以上のミニ・レポートを完成して提出しなさい。
  • 提出期限:2007年5月7日16:30まで。
  • 提出先:石井研究室(27-514)のポストまで。
  • 今学期の成績は、ミニ・レポートを平常点とし、期末レポートと1:1の比率で評価する。
  • インターネット、その他書籍などからのひき写しは、無条件で0点とするので、絶対にしないこと。

「思考課題」 :

「アジア」とはどのような地域だろうか。その歴史を振り返るとともに、日本と「アジア」との関わりについて考察してみよう。

Monday, April 23, 2007

第一学期“语言文化研究”演习课研读安排

*はしか流行による全学休講措置(6月6日から12日)に伴い、6月11日以降のスケジュールに変更を加えました。

5月7日 田島英一『上海』
5月14日 同上
5月21日 同上
5月28日 スヴェン・ヘディン『シルクロード』
6月4日 未定
6月11日 *はしか流行による全学休講
6月18日 青樹明子『「小皇帝」世代の中国』
6月25日 濱崎憲一、伊吹淳『HIV/エイズと中国 感染者たちの挑戦』
7月2日 『論語』
7月9日 劉文兵『中国10億人の日本映画熱愛史』
7月16日 二階堂善弘『中国妖怪伝』
7月23日 徐城北『京劇の世界』

Friday, April 20, 2007

兴梠一郎《中国激流》

我在明星大学承担一节演习课,今年要跟同学们研读的第一本书为兴梠一郎《中国激流》(岩波书店,2005年)

Thursday, April 19, 2007

现代性、科学、二十世纪

本来ならば、一部分を拾って日本語訳をつけておくべきですが、その時間的余裕もないので、汪暉氏に対するインタヴュー記事を貼り付けておきます。
リンクできない場合は、こちらをどうぞ。

Friday, April 6, 2007

理、势、语言以及个人的生存

2005年12月17日,我在学习院大学举办的学术讨论会上关于汪晖先生的《现代中国思想的兴起》一书做了评述,上海三联书店《思想与社会》第6辑(2006年12月)刊登了我在会上诵读的发言稿全文。我后来在此基础上经过修改,写成了一篇文章。现将其全文介绍如下,欢迎阅读。

点击这里可打开文件>>>

Wednesday, April 4, 2007

社会分化的源头何在?

だいたいネーミングや宣伝文句からして、ある種の先入観を持たせるよう誘導している感じがありますのでふだんはあまりこの手のものは見ないようにしていますが、4月1日と4月3日にNHK総合テレビで放送された「NHKスペシャル 激流中国 富人と農民工」は、心に迫るものがありました。天津を舞台にして、「先富論」の恩恵を体いっぱいに浴びて大もうけしているいわゆる「新富人」と、彼らの足もとで厳しい出稼ぎ労働を強いられている「農民工」との対比のしかたがあまりにも鮮明に過ぎたからです。カメラは中国の市場改革によってもたらされた深刻な社会格差の現状をよくとらえていると思われます。(ついでながら、「格差」という言い方は90年代以降の公共言説がまともに向き合おうとしてこなかったある種の認識のフレームワークを覆い隠してしまう便宜的用語ではないかと思われます。もちろん、中国についてもまったくその通り、というよりも中国ではより深刻なのですが。例えば、戴錦華氏の《在”苦涩柔情”的背后》,《读书》2000年第9期、はそのあたりの事情を早い時期にうまく表現した好例でしょう。)
ただ、この辺がテレビというメディアの限界なのでしょうか、なぜこのような現状が生まれたのかという背景的説明がまったくと言っていいほどなかったのが残念です。例えば、広告会社社長をしているという若い「新貴族」が、天津市の高級幹部子弟だったということが触れられています。高級幹部子弟であれば、さまざまな特権がついてくるのだろうというのはもちろん誰にでもわかることなので、敢えて詳しく述べるまでもないということなのでしょうが、そのあたりのからくりについては、単によく言われる「一党独裁」云々という常套句で終わらせるべきではなく、より複雑な政治過程論として分析した方がいいと思われます。同じことは、北京で株式投資コンサルタントとして大成功を収めている元知識青年の例についても当てはまるでしょう。「健康食品会社」が株式公開をするということが何を示しているのかということ、それは単に中国における株式バブルというだけの問題ではないはずなのです。日本でも郎咸平氏の「国退民進」論については、一部経済アナリストによって紹介されているようです。国有企業改革の過程で生じているさまざまな現象に対する視点がなくして、「共産党が私営企業経営者を党員に迎えるようになった」という類の話題をニュースとして取り上げることにはあまり大きな意味がないように思えます。
さて、わたしがもっと気になったのは、「農民工」として取り上げられていた内蒙古自治区の2家族のことです。彼らのなまりからしてたぶん赤峰の人たちだろうと思いますが、彼らについても、ただ「底層」で苦しむ「農民工」ということばで表象するだけでは、もちろん不十分です。例えば、高校に通う娘の学費がなぜあんなに高いのか(つまり、彼女は「自費生」の類なのではないか)とか、医療費の自己負担はなぜ8割なのか(ここで問題にしているのは、8割が高いというのではなく、残りの2割を誰が負担しているのかということです)といったことは謎です。わたしがしばらく住んでいたのは同じ内蒙古自治区でも西部地区だったので、東北地区の農村とはかなり事情も異なっていると思いますが、カメラが映し出した彼らの居住環境は、少なくとも最悪のものではありませんでした。少なくとも、わたしが90年代半ばのころにしばしば泊めてもらった農家に比べるとずいぶん立派でした(特に女性の実家)。固定された現金収入とそれなりの社会福祉が受けられる時代がかつて彼らには存在していたのではないかということが想像されるのです。
私がいいたいのは、彼らが本当の「底層」ではないということでは決してありません。わたしが連想したのは、90年代後半から始まった国家機構のスリム化政策の結果、大量の失業者があふれたはずの基層レヴェルの集落(郷、鎮、村、つまり「公社」「大队」)の人々の社会関係、経済関係はその後どうなってしまったのだろうか、ということです。例えば、基層幹部として定年退職を迎えた人の子弟は今働き盛りのはずですが、彼らはどのようにして生計を維持しているのか、もしかすると、「農民工」という呼び名で一括されている流動人口層の中には、このような人々が大量に含まれているのではないか、という疑問です。つまり、社会主義体制の全体的な縮小、もっといえば内部的解体の流れの中で従来の社会関係から離脱されることを余儀なくされた人たち(ここでイメージしているのは基層幹部とその家族です)の社会生活・経済生活は、都市のレイオフ(下岗)人員とも、戸籍上の農民とも異なった状態として認識される必要があるのではないか、という疑問なのです。
これらはあくまでも根拠のない疑問ですから、予断は許されません。ただ、いわゆる「城郷分化」という二分論ばかりに目を向けていると、都市と農村の狭間で市場化と非国有化に翻弄されている人々の社会状況についての視線が忘れられてしまうのではないでしょうか。このあたり、以前書いたことにも関連していますので、未熟なかたちを承知の上で提示しておきたいと思います。

Wednesday, March 21, 2007

艺术的生活/生活的艺术

ちょっと美しい文章を見ましたので、全文を翻訳します。

丁聡「感謝」
わたしは昨年両足をくじいてから、足をくじいただけではなく、頭までもくじいてしまい、手やあしの機能に影響が出てきました。そこで2006年3月から、『読書』で27年間連載してきた絵も中断したのです。自分ももう90の高齢ですから、描かなくてもいいでしょう、わたしの作画のスタイルも古くさいですから、今の読者にとっては大して魅力もないでしょう、ちょうどこの機会にやめてしまおう、ともとは考えていました。
わたしが本当に驚いたのは、わたしが病気になってからというもの、読者からさまざまなかたちでお見舞いやお気遣いをずっといただいたことです。87歳のお年寄りから中学生に至るまで、わたしとわたしの絵に対する思いやりにあふれていて、早く治って続けて絵を描いて欲しいと願ってくれるのでした。読者の思いやりには本当に感動させられました。まだリハビリがつづいていますが、かなりよくなってきました。ただ、絵を描くには相変わらず力が及びません。方法はひとつしかないとわたしは思いました。『読書』と読者の同意が得られれば、他の刊行物では掲載されていない何枚かの古い絵を載せていただき、読者に味わっていただきたいのです。これもわたしを愛してくださる読者への最後の恩返しということでもあります。
わたしが一生最も愛し、親しんだ人たちには二通りあります。友人と読者です。病気の間、わたしは読者から離れざるを得ず、たいへんつらい思いをしました。読者が今のわたしをつくってくださった、『読書』がこの場を提供してくれた。だからわたしは読者と長期にわたって触れあうことができましたし、ここ何十年かの生活もたいへん充実した楽しいものとなりました。わたしは『読書』と読者に感謝します。わたしは皆さんのことを永遠に記憶し続けます。ありがとうございました。
丁聡
2007.2
丁聡氏は風刺漫画家として、『読書』創刊以来、毎号同誌の扉を飾ってきました。市井にあふれるさまざまな現象をウィットの効いた風刺漫画にして、陳四益氏がそれに文と詩をつけた「詩話画」というコーナーです。わたしは1998年ごろから『読書』を定期購読していますが、毎号自宅に届くたびに、真っ先に見るのがこのコーナーでした。ここしばらく、何の予告もなく途絶えていたので、おおよそ予想はしていたのですが、このたびこうして正式に丁老ご自身が声明を発表されるに至ったわけです。長年の愛読者としては何とも寂しい限りですが、この文ににじみ出る温かさとおだやかさは、寂しさを超えた美しさを醸し出しているように感じられます。
中国語のことわざに、「一方水土,一方人」といいます。土地が人を育む、もちろん、ここで土地とは、抽象的な山水とか「大地」とかではなく、その土地に暮らす人々の気風というような意味に理解するべきです。老いを受け入れるということが、日本では重要なテーマになっていますが、「受け入れる」のが老いていく本人であると同時に、いや、それ以上に、その周りの人々であること、そのためのパフォーマティヴな相互尊敬のかたちがあるのではないでしょうか。丁老のことばは、もちろんその人柄の表れですが、それがそのようなパフォーマティヴィティの中で発揮されてこそ、人柄が美しさとしてことばに表出してくるのではないでしょうか。
文化本質主義批判とかトランス・ナショナリティとかが叫ばれて久しいようですが、こうしたパフォーマティヴな行為規範、中国を例にとって敢えて言えば、「礼」的規範の言語コミュニティにおける強力な統御性は、そう簡単に否定されてしまうべきものではないものと思われます。李沢厚氏の文化-心理構造も、これに通じるものではないでしょうか。

Saturday, March 17, 2007

秋风秋雨愁杀人-秋瑾女士传-

近年来,竹内的名字在中国知识界已是众人皆知了。当然,这归功于多年来在日本和中国之间致力于增进知识交流的两国知识分子,尤其是中间进行着富有成效的译介工作的中国学者。今天我要介绍的,是竹内好的盟友武田泰淳(1912-1976)。武田可谓日本战后文学派的一位健将,二战后发表了很多在日本知识界影响深远的小说和杂文,如:《论灭亡》(1948年)、《风媒花》(1952年)、《光苔》(1954年)、《森林和湖泊的祭典》(1955年)、《政治家的文章》(1960年)、《富士》(1969-1971年)、《快乐》(1972年),等等。他的成名作却早在战争期间已经刊行,题为《司马迁》(1943年)。其开头一句话至今广为流传:“司马迁是活而受辱的男人。”就读于东京帝国大学支那文学科的他,却不认同“支那”的称谓,也不满足于日本“汉学”的传统,逐渐远离学院,最终中途退学。竹内好则是他的同班同学,俩人自然情投意合,互相切磋,1934年,以欢迎周作人访日宴会为机,共同成立了著名的“中国文学研究会”。1937年应征参加侵华战争,据武田回忆,《司马迁》的构思肇始于战场上。很容易看得出来,文章开头那句话充满着对参加此次战争的懊悔和苦恼。身为既热爱中国文化又精通中国典籍的武田(他虽然鄙视日本汉学僵化的作风,但他阅读古籍的功夫堪称第一流,也有学者称,他的阅读能力甚至远胜过吉川幸次郎),就因为生在那个时代,被迫当兵。应该说“活而受辱”这句话说的更是他自己。他通过写作《司马迁》思考作为人如何面对极其严酷的历史和世界,《史记》所描绘的世界图景便是思考这个问题的有效依据。
日本战后受到中国文化(请注意,这有别于“支那文化”或者汉学所代表的文化系统)的影响而试图思考根本问题的作家,其代表性人物除了竹内好之外,应非武田泰淳莫属,而其思想至今仍可给人以深刻的启发。我在此所揭的标题便是武田1968年的一篇作品的题目,该作品1969年获得了该年度的艺术选奖文部大臣奖(武田拒绝领奖)。中国读者应该知道“秋风秋雨愁杀人”乃秋瑾绝命之词,作品就是写的她和鲁迅。武田在文化大革命猖獗于全中国之际访问绍兴,作品部分内容因此以游记似的笔法叙述。有一段写的有点意思,现在拙译如下:

在从那里几米处的地方,我们又下了车。因为我要买一顶在鲁迅的短篇小说里出现的,农民所戴的黑毡帽。跟我闯进来的围观人太多,使我挤进橱窗内侧。很多民众挤在你买东西的时候要站到的那个位置,所以我不得不绕到售货员的位子,否则无法买东西。我买上一顶帽子,试戴在头上看看大小合不合适,每次我要戴戴看,群众都乐得更要靠前挤身,让橱窗摇晃得眼看着就要砸坏玻璃。(中略)在鲁迅的孩童时代,绍兴的农民不管刮风降雨,不管是夏天的清晨还是冬天的夜晚,都戴着这黑毡帽。如果这样,秋瑾活跃在绍兴的时候,她周围的农夫一定也常戴着这种帽子。由此而推,她被处死的那天,这块土地上的农民无论是否亲眼目睹了她的死亡,一定都戴着这种黑帽子。这个事实虽然是司空见惯、平平凡凡的现象,但对我来说,好像是种非常令人畏惧的真实。

之所以“非常令人畏惧”,是同他就中国革命中无数人民的生与死要对关于人如何对峙世界和历史的一种问题进行思考有关。为什么是秋瑾?他说:

孙文为建设以汉民族为中心的共和国所作的方针的确没有错误。但如要使这个正确的方针经过了沾满血与泪的斗争之后达到实现,必须要有些异端者只忠实于各自的冲动、信念以及实行,不服从孙文路线,甚至违背了孙文的计划,前仆后继地要走向死亡。(中略)这些散沙们的激情是幼稚的,也是急躁的。但如果没有这些过于幼稚的东西、鲁莽的东西无数次地被当作跳板,那么,成功者的巧智、或者后来者的“了不起”的计划都无从证实了。

事实上、在当代中国,秋瑾也好,同时就义的徐锡麟也好,都是家喻户晓的革命烈士,并不是武田所说的无数的沙粒之中的一粒。但他想说的不是秋瑾她们作为革命英雄是否得到了应有的表彰,而恰恰与此相反,他要说革命的历史不应该表述为英雄故事,因为这种革命叙事只是给“利用革命谋私利”的人以口实而已。

秋风秋雨愁杀人的情况,不只是在徐锡麟和秋瑾被处死的那年发生的。鲁迅后来直到其临死之前,一直感受着黯淡的秋风秋雨不停地在愁杀人。不然,“打落水狗”的主张不可能在他的心中越来越变成坚固的信条。

也有人说,竹内好的思想早已经过时了,那么,武田这篇不无受到文革的政治文化思潮之影响的作品更像是古董了。但我认为,如此定论未免太苛刻了些。他的价值不关乎对中国社会文化分析的正确与否,而是通过中国的参照反观自我生存、人的生命的意义。这种态度显然异于对象化的中国研究,更不是观察态度。他也说到:

如果夏衍他们也终于难免成为落水狗的命运,那么,也许我更应该是“没落水之前已经死掉的狗”了?落水狗毕竟是个生物,正因此他也停止了落下去的动作。如果是压根不值得打的非生物的话,会否陷入连落下去的路线都不能选择的局面?

那该怎么办?我不知道武田他自己的话该怎么办。武田的这种境界如果弄不好会变成一个很虚假的东西,那样就无可救药了。现在确实时代不同,这种忐忑不安的感觉如今已一时很难令人产生共鸣,也不必一定要如此。但我认为,至少不应该因为时代不同为由抹掉或淡忘那沙子的历史。

Saturday, March 10, 2007

关于“社会主义新传统”的学术讨论

近年来活発になってきた広州の雑誌『開放時代』は、2007年第1期の巻頭に「学術的視野としての社会主義新伝統」(《作为学术视角的社会主义新传统》)と題する座談会特集を掲載しています。劉小楓曹錦清孫歌賀照田各氏など、総勢十数名が参加して行われた討論会を書き起こしたもののようです。その中で、賀照田氏は、2006年3月に一橋大学で行われた学術講演《从苦恼出发》(苦悩からの出発)と重なる発言をしていますので、以下に摘録します。

1 中国は伝統的には倫理に高く関心を寄せる社会(梁漱溟に至ってはは中国社会のこうした特徴を「倫理本位」と呼んでいた)であり、中国の社会主義教育は理想主義の強い教育であったが、改革開放が始まって20年もしないうちに、中国社会が表面上、日常生活が商業論理に染められ、日常的心理が最も商業的雰囲気にかき乱されるような社会になってしまったのはどうしてなのか?2 中国人は生活を楽しみ、苦しみに耐える力が強いとずっと思われてきた(李沢厚はこれを「楽感文化」と名づけた)民族なのに、なぜ短期間の間に、中国の自殺率はこれほどまで急速に高くなってしまったのか?こうした問題はすべて、他の民族にも共通する資本主義の問題や近代性の問題、社会的不公正の問題によるものにすぎないのだろうか?それとも資本主義、近代性、不公正といった問題以外に李珍景が気づいた中国社会主義の歴史と関係しているのだろうか?

ここで言及されている李珍景とは、彼が韓国で知り合った知識人のようです。李氏は90年代の中国を見て「社会主義の実践は必ずしもそれに相応する社会主義的主体を生み出さない」という印象を抱いたのだと賀照田氏は紹介しています。賀氏は李氏とこの命題を共有しながら、新中国建国以後の歴史を振り返っていきます。革命とその果実に対する高い期待と情熱にはじまった新中国の歴史は、伝統的な倫理観念にかわって、いわゆる「共産主義新人」に代表されるような近代的社会主義・共産主義的倫理観を理想とする国民像を描き出しました。文革後にはそれが冷め切った、虚無的な精神状態へと陥ってしまうのですが、賀氏は、「正しさ」のスタンダードを共産党を中心とする国家イデオロギーのもとで指導的に提供していったことに、この原因を求めているようです。

精神史の視点から見ると、70年代末に始まり、1992年に全面的に広がった現代中国の改革が最初に関心を向けた現実とはどのようなものだったか。多くの社会では伝統から近代への転型が比較的長い時間をかけて行われ、ある意味それは近代と伝統の間を一歩ずつ行きつ戻りつするプロセスであり、その結果、しっかりした伝統が長期にわたって近代的なものと共存していくことになる。そうした条件の下で、人々は十分な時間的余裕を持って経験に基づいた省察をする場を持って、伝統を組み替え、近代に適応していく。それに引き替え、中国の今日の改革は高度な緊迫感とコントロール能力を有する近代国家が支配しているものであり、短期間のうちにひとつの近代のかたちから、さまざまな違いの大きい別様の近代へと転じていく。時間的には急速で空間的には同時的な展開、そして内容的には広範で、振れ幅の大きい変化が生じるのだ。これらすべてにおいては、歴史の発展プロセスのなかで平静な心理や、相対的にゆったりとした時間、相対的に頼りがいのある心の支えなどを持つのは難しい。それらは自分に向き合い、自らを歴史的コンテクストに置くために必要なものだし、それらをしっかりと整理することによって、自らの命の連続性、生活の意義、心身の安定感などの諸問題を考えていくのにも必要であるのにだ。それだけではなく、他の問題を考える場合にも、こうした次元から問題を考えていくためにもそうなのだ。こうしたことができないということは、人々はしっかり、はっきりした感覚に基づいて思考することができないということで、それではもちろん外からの気分に過剰に反応してしまうのも無理はない。

賀照田氏の言語はいつも論理の展開がわかりにくく、思弁的です。しかし、こうした分析は、彼自身の生活実感にもとづいているはずです。決してわかりやすくはない、ある意味ではためらいながら紡ぎ出されているともとれるその言葉遣いこそが、非常に個人的なレヴェルの問題意識を大きな背景のもとで言語化しようとする努力(というよりあがきに近いもの)の表れであると見ることができるのではないか、とわたしは想像します。また、その意味で、賀氏のこうした問題意識は、先に紹介した楊念群氏の問題と結びつけられて、生活圏におけるより普遍的な苦悩のすがたへと想像を進めていくべきなのだというのが、わたしの直感的な感想です。

Saturday, February 24, 2007

东京大学拟大批引进外籍人才

据东京大学称,现在大约有250名的外籍人员在该校从事学术工作。以日本人为主的学术工作人员总数大约5000名,其中外国人所占的比例不到5%。国内其他大学,虽然在学术工作范围的界定、专任和兼任的区别等方面存在统计方法的不同,但外国人的比例高于东大的还有上智大学的48%、早稻田大学的8%左右等。鉴于此,东京大学已经决定将“国际化”作为其优先课题,引进更多的外籍学术工作人员。
该大学至今拥有22所驻外研究机构和行政机构,主要分布于欧美地区和亚洲地区。因为她今年春天将迎接建校一百三十周年校庆,该校提出了要将之增加到130所的目标。东京大学现有的驻外机构在数量上虽然大于早稻田大学(9所)、庆应大学(8所),但仍小于长期致力于增加海外机构的、2006年5月为止已拥有34所的京都大学。
东京大学还计划新建外籍人员的宿舍,出台相关的奖学金制度等等,以便多接纳海外人才。按计划,在东京本乡校区的附近兴建220间规模的招待所以供外籍研究工作人员以及留学生住宿,另外在位于千叶县的柏校区也要修建类似的设施。该校目前已经具有大约500间的外宾宿舍,但设施企划科的负责人称:“只数留学生人数也超过了两千人,我们的工作已经跟不上现实的需求了。”因此该校决定要改进现状。
此项国际化策略的概要是该校校长小宫山宏不久前在东京某地针对外国记者所做的一次讲演上透露的。小宫山称:“东大的国际化进程很滞后,这是最为令人担忧的问题之一”。他还透露了校内有必要进一步完善英语教学大纲的想法。但他没有谈及这些计划达到预期目标的具体时间。
据东大称,海外的调研机构及报刊等最近发布的有关大学综合实力(包括国际化程度等的指标在内)的世界大学排行榜中,东京大学屈居第12至第19名之间。东京大学认为:作为代表世界第二经济大国的一所大学,她有必要尽快采取相应的措施改变现状。
(译自《朝日新闻》2007年2月24日第3版)

Saturday, February 17, 2007

“人民康德”!?

李沢厚氏といえば、80年代の文化熱をリードしたオピニオンリーダーとして、非常に有名です。『読書』2007年第1期は、汪暉先生の『現代中国思想的興起』の編集も手がけた、三聯書店の若手編集者舒炜氏の李氏に対する書面インタヴューを、巻頭に掲載しています。改革開放時代の幕開けとほぼ同時(1979年)に初版が発行され、80年代前半の大学生や知識人たちに少なからぬ影響を与えた(という話をわたしが聞いているだけなのですが)、『批判哲学の批判』がどうやら修訂を経て近く再版される模様のようです。
このインタヴューのタイトルは、《循康德、马克思前行》、既にネット上ではコピーが出回っているようですので、検索してヒットしたものからひとつ、リンクを貼り付けておきます。「カントとマルクスに寄り添って進む」といったほどの訳になるでしょうか。日本語圏では、柄谷行人氏が『トランスクリティーク』(英文版あり)でもカントとマルクスを並べることによって問いを立てていましたね。わたしはこのあたりの動向にはまったく疎いので、李氏のことばをただなぞっていくだけですが、アメリカでは、Allen Woodという論者が、「カントの歴史唯物論」といったような言い方をしているそうです。もっとも、李沢厚氏の場合、美学的関心、もしくは「文化-心理構造」と呼ばれるような、歴史・社会的アプローチから、カントのアプリオリ批判、もしくは道徳命法批判をしていったところに特徴がありそうです。似たところでは、「内在的超越」論によってカントの三批判を中国の儒家伝統に引きつけていこうとした、台湾の牟宗三の思想がありますが、それが李氏の立場とどれほどの距離を持ったものであるのかはを検証の必要があります。李氏自身はこう言っています。

カントは神秘主義を否定している。カントは神だけが本体と現象が分かれない智的直覚を有しているとする。牟宗三はそれは人にもあると強調する。カントは認識論を論じたが、牟宗三はそれを倫理学、つまり道徳形而上学に持ち込んだ。だから、牟の「智的直覚」は認識や論理といった理性の問題ではなく、道徳-宗教の根底にある神秘的経験のことなのだ。(《实用理性与乐感文化》、『読書』からの二次引用)

李沢厚氏は、牟宗三のようなやり方ではなくて、社会性に根ざした(したがってまた、歴史的蓄積から出てくる)、超越的ではなく、内在的・世俗的な「社会的道徳」の方向で、中国世界における道徳の基礎づけの方向を探ろうとしているようです。

生命を論ずるには、まず人々の物質的生命、つまり衣食住の日常生活について論じなければならない。人はまず生きていかなければならない。物質的生命があって初めて、精神的生命とか、魂の救いといったものが可能になる。しかも、この「精神的生命」とか、「魂の救い」は、中国の伝統では、必ずしも神や宗教に帰依しなければならないものではなく、審美的な自然(天地)の境地なのだ。この境地は「美によって善を蓄える」というもので、「其の可ならざるを知りて之を為す」とか、「身を殺し仁と成す、生を舎し義を取る」のような、大きな道徳的心性や犠牲精神を含んでいる。だから、感性的な愉悦のようなものにはとうていおさまらないし、情感のない逍遙とはなおさら異なっている。

李氏は、この引用の前半部分に関わる「物質的生命」の第一義性について、それは「飯を食う哲学(吃饭哲学)」だと、強調します。そして、半ば冗談なのでしょうが、マルクスの唯物主義とは、結局のところ「吃饭哲学」であり、その限りでまったく正しいのだとかつて述べたりもしていました。
李氏の思想の大きな影響は、もう一つ「救亡が啓蒙を圧倒した」中国現代史への省察と、「革命に別れを告げる」式の改良主義的傾向でしょう。その意味では、李氏のラディカルさは、80年代初期にあって初めて浮かび上がってくるものだったのかもしれません。そうなると、今日的状況の中で、カントとマルクスを並べて論じていく場合に、果たして、李沢厚氏のようなやり方がどのようなインパクトを持ってくることになるのか、あるいは、まったく別様のしかたで、この両者ともに「寄り添って」いくような可能性があるのか、あるとしたら、それはどのようなかたちなのか、という問いは、おそらく、李沢厚氏の思想そのものを超えたところで展開されていくことも予想できるでしょう。

Sunday, February 4, 2007

“二十四节气”和理性思维

日本語版は「コメント」に貼り付けてあります。
2月4日是“二十四节气”上的“立春”。恕我孤陋寡闻,本人不知道日本民族从何时引进中国历法,但“二十四节气”的说法至今仍在日本广为人知,是家喻户晓的季节“风物诗”。每当“节气”来临的前一天晚上,各个电视台的天气预报异口同声地告诉你:“明天是古历上的××”,两个叉儿就是第二天要到来的节气,如昨天(即2月3日)的天气预报里不约而同地都说“明天是古历上的立春”。我总觉得“古历上的”(「暦の上では」)的注脚有点别扭。因为这里隐含着另一层意思,即:节气只是古代历法上的习惯说法,现实上的季节变化不一定也没有必要和这种古代说法相一致,更经不起现代科学的检验。然而,在中国,至少在中原一带和其周围的广泛地区,这种注脚根本是个多余的。因为,在那些地区,每一个节气的到来和季节的变化更替相当吻合,对当地老乡们来说,准确把握以节气为主的历法对其生活有着至关重要的意义。比如,在黄河河套地区,一过了“秋分”,气温一定会急剧下降,所以,必须要在“秋分”到来之前完成秋收工作。因此,在中国,节气绝不仅仅是过去曾流行于民间的通俗观念,而是非常符合农村生活规律的,颇为客观的一套科学体系。也就是说,人们在日常生活的常识上面时刻都可以感受到符合自然界变化规律的理性叙述,而且此一体系本身便是对生活经验的合理总结。这样一来,人们对经验科学的信赖可建立在很牢固的生活实感上。依我看,这就是中国思想文化由来已久的理性主义的经验基础,而建立在这种贴身的生活层面上的理性主义应该不会轻易动摇。反过来看日本的情况,“节气”的概念是从外边借来,直接套在日本的季节变化的,从一开始就没有立基于日本的百姓生活上,从而必然导致和生活实感的疏离。所以,天气预报先生的那个注脚在日本也总起着不可忽视的作用,他在告诉你:即使你要完全相信“节气”行事,也对你的工作不会带来什么实惠,因为那只是“历法上的东西”!这种理性知识不是可以拿来直接运用到实际生活上的,而充其量可当作炫耀自己博闻多识的装饰品。如此看来,日本的文化土壤上根深蒂固的、不可否认地存在的一种反知识传统并非没有其内在逻辑。从生活的角度来看,认为借来的知识系统不一定可适用于现实生活的判断也许是更为合理的选择。

Saturday, January 27, 2007

"我们的时代"与人的生存

黄平、姚洋、韩毓海《我们的时代》(中央编译,2006年)は、その題名の通り、現代の中国の社会・文化状況に関する知的関心が、その体温と共に伝わってくるような、生き生きした鼎談録です。話題が多岐にわたっているので、啓発や刺激を受ける部分も随所に及ぶのですが、ここでは市場化時代における再分配の問題をめぐる姚洋氏の議論を紹介しましょう。

……主張の如何に関わらず、古典的な作家たちには少なくとも統一の思想体系があった。彼らの哲学や政治的主張は一致していたんだ。でも我々の世代の公共知識人には、そんな一致性が欠けているように思う。例えば、秦暉は国有企業改革の議論によく参加して、国有資産の売却に際して現れる公平とか平等などの問題を強調している。(中略)彼の主張は明らかに左翼の立場と一致しているんだ。でも彼は、哲学のレヴェルになるとノーズィックの理論を認めている。起点における平等と手続き的正義こそが自由のすべてだと信じているんだ。自分でも自分は保守主義者だといっているし。でも、ノーズィックの中からは国有資産の平等分配なんて出てくるはずがない。ノーズィック理論の核心的概念は「得られるべき物」、つまり、個人が自分の努力を通じて得た物とか、上の世代から想像した合法的所得とか。(中略)もしノーズィックに賛成、その原則に賛成なら、インサイダーによる改制とか、企業経営者が大口株主になるとかといったことは国有資産に対する合理的な占有ということになるんだと認めなければならない。改制した企業の業績は概して向上しているし、労働者の給料は増えているし、しかも人員削減のスピードは遅くなっている、なんていう研究もあるからだ。つまり、改制の結果個々人の状況は改善されたというんだ。ぼくは彼と金雁がソ連・東欧の軌道修正について書いた本について書評を書いたことがある。「調和を求める緊張」という題でね。彼の主張と哲学思想の間は緊張に満ちているということが言いたかったんだ。ぼくは思うんだけれど、「文革」を経験した世代は国家に対して根っからの警戒心や抵抗の心理があるんじゃないかな。たとえ左翼的なものを信じていたとしても絶対に右翼の角度から議論をするという具合に。でも、そういうかたり方は自分を苦しめているんだとどうしても思うね。秦暉は、ふつうの左派のように国有企業の改制に反対するのではなくて、国有資産の分割とか売却には賛成している。でも、分割にせよ売却にせよ、公平でなければならないと思っている。哲学的な角度からいえば、起点の平等が必要だからだということになる。国有資産は全民所有制である以上、一人ひとりの市民が当然同じ分配を受けるべきだというんだ。でも、国有資産が全民所有であるかどうかはさておき、起点の平等ということだけについてみても、一体そんなにはっきりした起点の平等がどこにあるんだ、と問いたい。今日は全員が平等に分け前をもらえるかもしれないけれど、明日になればすぐに不平等になってしまうじゃないか。だって平等な資産を使用する能力がちがっているんだから。起点の平等を達成するためには、毎日毎日資産の再分配をしなけりゃならない。そんなことにはノーズィックだって賛成しないだろう。(pp.229-229)

国有企業の「改制」というのは、日本語の文脈でいえば、民営化と訳すべきものでしょうが、その事情はもっと複雑です。前(1月17日)に紹介した汪暉先生《改制与中国工人阶级的历史命运》はそのあたりのことが具体的に書かれています。これは香港中文大学の郎咸平氏が、今は捕まってしまった企業家顧雛軍氏のMBO戦略に対する一連の論難によって、大いに注目を浴びるようになった問題でもあります。秦暉氏がどのように反論するのか興味深いところでありますが、いわゆる「新自由主義対新左派」といった対立の構図の中にこうしたことばを解消してしまうべきではないでしょう。「明日になればすぐに不平等」になってしまうような現実を見きわめ、その中で、個人はいかにしてよりよく生きるためのよりどころと希望を得ていけるのでしょうか。
姚洋氏はほかにも農村の土地所有権についても、土地収用に関わる農民の権利侵害を抑制する方法として、所有権の私有化を図るのではなく、集団所有権を規定している現制度の枠組みの中で、農民の集団的交渉能力の向上を支援していくほうが有効であるという見解を述べるなど(p.213)、経済学者らしい冷静な分析に基づく判断を随所に発揮しています。
ところで、上の引用の中で挙げられているのはノーズィックですが、それ以上にこの本の中で繰り返しやり玉に挙がっているのは、ハイエクです。その批判のしかたは、上の引用からも明らかなように、「自生的秩序」に代表されるような予定調和的な市場原理観では、現実に存在する権力の不均衡について批判的な視座が生まれようもないという論理です。ずいぶん前のことになりますが、たしか岩井克人氏だったと思うのですが(ちがっていたらごめんなさい)、ハイエクの市場理論には、キリスト教的倫理に支えられた家族レヴェルの「小さな社会」の存在が前提にあって、その上での「大きな社会」論として市場の有効性を述べているんだ、などと言っていたのを記憶しています。たぶんこれはアダム・スミスの『道徳情操論』での主張と重なってくるのでしょうけれど、市場がただそれ自体で完結しているのではなく、その基礎には、倫理と道徳を共有する価値共同体の存在が前提されていたという指摘は、前回紹介した、楊念群氏の観点ともつながってくるものと思われます。

Sunday, January 21, 2007

八十年代意味着什么?

2006年は80年代を回顧するディスコースが気になることがよくありました。わたし自身の体験と感覚でいえば、陳凱歌の鮮烈なデヴュー作『黄色い大地』(《黄土地》)や、同じころに日本でも取り上げられたテレビドキュメンタリー《河殇》の中に登場する農村・農民に対する眼差しと、近年来盛んになっていると伝えられる農村支援のボランティア活動とが、どこか深いところ、ある種共通のメンタリティとしてつながっているのではないだろうか、という乱暴といえば乱暴な、粗野な感覚があります。たぶん、両者をつなぐものがあるとすれば、グローバル化の刺激に対する反応とこれらとが不可分だということでしょうか。80年代には「球籍」問題として、今日ではWTO体制下での「三農問題」、「城郷格差」問題として、現れているわけですが、もちろん、そうした環境的要因が啓蒙主義的精神として表出しているという側面があると思われるのです。
中国の80年代ディスコースとしては、「新京報」が連載したコラムの影響が大きいのでしょうか。また、同じ「新京報」は、查建英《八十年代:访谈录》(三聯書店、2006年)を2006年の優秀図書に選んでいます。わたし自身はこれを読んだわけではありませんが、「新京報」連載コラムを集めた《追寻八十年代》(中信出版社、2006年12月)に序文を寄せた李陀氏が、これについて味わい深い評論を発表しています。『読書』2006年第10期に掲載された、《另一个八十年代》ですが、これについては、また後日ご紹介しましょう。ほかに、『中華読書報』2006年10月25日は、朱正琳《重审八十年代人的文化关怀》のなかで、甘陽《八十年代文化意识》上海人民,2006年7月)を紹介しています。朱文はネット上に複数流通していますので、リンクを貼り付けておきました。80年代の「思想解放」の中で、人間と文化に対する熱烈な関心が高まり、ひとつの時代の風景を構成していたわけですが、77級、78級という中国高等教育史上、空前絶後であるはずの大学生たちが、この時代の雰囲気を背負い、それをリードし、謳歌していたことは、現代中国思想文化史の中で、80年代が特筆すべき時代であることの大きな理由でもあるでしょう。
しかし、考えてみれば、この「思想解放」は、社会主義の制度的保障が有効に機能していたからこそ、あのような活発さを持ち得たのではないでしょうか。当時の大学生たちは、ほとんど無料で大学に通い、薫り高い文化の刺激を受けることができたわけですし、大学卒業後の進路についても、90年代後半以降現在に至る大学生たちが苦悩するような問題は存在していませんでした。大学へわが子を送り出す父母たちも「単位」の庇護のもとで、経済的・福祉的保障を享受しており、そのような意味では、彼らは自分たちの「選ばれし者」たる自信と、高邁な理想について、疑念を抱く必要は、あまり多くなかったのではないか、と想像されるのです。
ひるがえって、今日の中国の社会状況を見ると、どうなのでしょうか?一見、何の関係もないかのように見える文章ですが、楊念群氏の文章の一部を以下に紹介しておきたいと思います。

近代以来の知識人たちが繰り返し提唱してきた、家族の集団倫理を放棄し、国家政治倫理に転換するという二元対立的選択は、最終的にはどちらも、集団行動の倫理ロジックがある一定期間機能してきたことの結果だった。そこに欠けていたのは、まさに「個人」をいかに処遇するかということだった。つまり、政治倫理への転換を選択した際に、「個人」が日常生活の中で、どのような責任を果たすべきかについて、まったく再規定が行われなかったのだ。あるいは、どのような責任と義務を遂行すれば、自己の利益が得られるかということについて、まったく再規定が行われなかったのだ。忠誠なる行為を強いていく政治道徳が瓦解した後、あの、「政治」によって破壊されてしまったローカル・ネットワークもまた消失してしまった。そのようなときに、「個人」はどのような選択ができようか?農村における「公徳なき人」の出現は、他でもなく、伝統の日常倫理と、政治的強制とが、ともにモデルとしての意義を失ってしまった後に収穫された、畸形の果実だった。杨念群《亲密关系变革中的“私人”与“国家”》,《读书》2006年第10期

楊氏のことばが正しいとするならば、「公徳なき人」の発生を、モラルや向上心の欠落といった個人の問題(「私徳」の欠如)に解消することは、火に油を注ぎかねない危うさを潜めているのではないでしょうか。

Friday, January 19, 2007

《思通博客》现已开放!

敬请参阅。

Wednesday, January 17, 2007

回忆2006年

拙稿「モダニティとアイデンティティ」(中国:社会と文化、第21号、2006年6月)の中でも紹介しましたが、『2004年最佳小说选』(北大出版社,2005年)に掲載されていた短編小説群には少なからぬ衝撃を覚えました。特に、巻頭の『那儿』(曹征路)は、国有企業改革が何をもたらしているのかを深刻に考えさせる作品でした。拙稿にも書いたように、『往事并不如烟』の爆発的なブームには、正直のところ、ちょっとついていけない感覚を抱いていただけに、いわゆる「底層文学」が新鮮でした。「底層文学」については、その後、尾崎文昭先生が『アジア遊学』第94号で詳しくご紹介くださり(底層叙述-打工文学-新・左翼文学)、この『小説選』も取り上げてくださっています。2005年秋から半年の間、東大教養学部で講義をされた汪暉先生が、学部生向けの授業の中で、一連の国有企業改革の中で労働者たちがどのような現実に直面しているのか、具体的な事例を使って紹介されました。これは、「改制与中国工人阶级的历史命运」(天涯、2006年第1期)という論文にまとめられています。
一方で、洪治綱氏が言うように、「底層」はあくまでも「底層」、つまりサバルタンなのであって、いわゆる「底層文学」や「底層への思いやり(底层关怀)」もまた、一大消費文化の中で消費されていくためだけに生産されていくのではないか、その証拠に、2006年には、この「ジャンル」で見るべきものがなかったではないか、という指摘にもまた、共感を覚えます。
(洪治綱氏の文章は、左岸会馆http://www.eduww.com/Article/ShowArticle.asp?ArticleID=11026
例えば、「わたしは、『小説選刊』第1期を受け取ったとき、表紙の写真にたいへん驚いた。その出稼ぎの若者は、マントウを一山抱えてむしゃむしゃとかぶりつきながら、なんと無邪気に笑っていた。「底層への思いやり」というやつか、とわたしは思ったのだった。」などと洪氏は言っていますが、このようなかたりの視点が一人歩きしてしまうのは、かえってグロテスクな光景だと感じます。

Thursday, January 11, 2007

我的博客已经开设

久经考虑的博客,今天以很不完整的形式,已经设立起来了。我起初想通过某种公共话语空间锻炼自己平素的所思所想,也想给不懂中文的广大读者(日文读者)介绍中文网络信息中值得关注的好文章、好资讯,以期建立一个日中两个语言公共论域之间互动的平台,为日中两国增加了解做出微不足道的贡献。
由于我个人还未做好充分的准备,暂时还不能对外开放,等到时机已成熟的时候,希望与广大网友进行有益的交流。