Thursday, June 21, 2007

儒家传统和社会主义

『読書』2007年第6期の『編集後記』から。

三農問題、貧富の格差などの社会問題に関する議論が起こるたびに、伝統(とりわけ孔子と儒学)と社会主義の歴史をめぐる論争が繰り返されている。伝統を遡るのであれ、社会主義を振り返るのであれ、それらは今日の中国社会の変遷に対する反応として行われている。儒家の伝統と社会主義的思考は、短い二十世紀において、しばしば対立しあい、反目しあっていた。だがなぜ今になっても記憶の流れの中で、それらはそろって屹立しているのだろうか。孔子と魯迅は現代思想の系譜の中で対立する二つの思想的座標だ。一方に対する肯定は他方に対する批判を引き起こす。市場社会の形成プロセスにおいて生じてきた問題に対して、ともに何らかの意見を表明しようというときですら、二つの思想的伝統の牽引者たちの間には、しばしば厳しい思想的不一致が見られる。しかし絶えることのない激しいやりとりの中に、わたしたちは別様の旋律をおぼろげながら聴き取ることができる。つまり、両者を延々と続く伝統の中に組み入れて総合していく道を求める旋律だ。(中略)

思えば、儒家と社会主義を同じ脈絡のなかにおいて理解しようというのはなにも新しいことではない。80年代のころ、わたしたちは儒家思想と社会主義をそろって否定し、社会主義の失敗は実のところ中国的伝統の結果であると考えたのだった。思想的には、これは20世紀における中国的モダニティに関する自画像(伝統と近代の対立という)をかき改めることによってできあがった、初めての総合であった。今日、市場社会が形成され、グローバル化の波が押し寄せる中で、一部の知識人たちは、この両者は相互に結びつき、刺激し合うことが可能であると信じて、両者の関係を対立から疎通しあい連続性をもったものへと変えようと努力している。つまり、初めての総合は、否定というかたちで完成したが、二度目の総合は肯定というかたちで始められたのだ。(中略)

儒家伝統に対する厳しい批判と社会主義の勃興は、どちらも20世紀に生じた現象だ。20世紀の社会主義者たちは伝統に対する徹底的な訣別の中から革命を深めていく途を探そうとし、保守主義者たちは伝統を守ることの中で社会主義とその革命の進み行きに対して揺るぎない否定的態度を貫いた。したがって、両者の総合を求めていこうとするときにも、20世紀という問題を再検討することを避けて通ることはできない。(中略)

マルクスは「19世紀」を観察したときに述べている。「19世紀の社会革命は、過去からでなく、未来から自らの詩情をすくい取る」。彼はこうもいっている。「かつての革命は過去の世界史的事件を振り返る必要があった。それは自らの内実を自己欺瞞的に隠蔽するためだった。だが、19世紀の革命は、死者をして自分たちの死者を葬らせるだろう。それは自らの内実を自らがはっきりと理解するためなのだ」。19世紀から20世紀の間、未来はいつも中心的テーマだった。ポスト20世紀的な空気が充満する中で、市場化とグローバル化がわたしたちの生活をリードするパワーになっている。このような中で、未来の不確実性はわたしたちの時代にも君臨しているのだ。19世紀や20世紀のような革命の時代はもう終わった。しかし「未来」という問題はまだ残っている。総合を求めるという場合に大切なことは、過去を振り返って自らの内実を明らかにし、新たな歴史意識を再び構築して未来をひらくことだろう。


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