Monday, June 25, 2007

采访录

「十年文選」の刊行に併せて、『読書』に関する紹介や評論文が多くなっています。本ブログでも最近はこの話題ばかりのような気もしますが、懲りもせず、もう一つ。

「左岸文化」掲載の汪暉氏に対するインタヴュー記事です。以下はその抄訳。

南都週刊(甘丹、以下南都)読者の中には『読書』は人文雑誌なのだから、より独立した人文精神を保つべきではないか、現実の社会問題や政治問題に介入しすぎるとそうした独立した人文精神に影響が出るのではないかと考えていると思いますが、如何ですか。
汪暉:(省略)『読書』の現実介入は必要なことだと思います。ただ、わたしたちの介入のしかたは新聞のようなやり方ではなく、知識人の省察的文章、理論的文章を通じて、理論的、思弁的な視野から介入していくわけであって、直接介入していくのではありません。90年代にこの雑誌を引き受けたときには、もっと窓口を広く開けて、視野を広げたいと思っていました。当時、温鉄軍氏の文章を載せましたが、その後あのような反響が生まれるなどとはまったく予想していませんでした。医療制度改革とか、教育問題とかの議論が全部そうなのですが、わたしたちはこれらの議論が社会全体に大きな影響をもたらすとは決してのぞんでいません。わたしたちはそれほどナイーブではありません。『読書』の役割は、知識人の真剣な、厳粛な議論の場を提供するということにあり、『読書』での議論を通じて、これらの議論を公共空間での生活全体に拡げていくということです。『読書』が介入しなければ、知識人の介入もなく、現実的問題は永遠に、国家体制内での純然たる専門家同士の議論になるか、それともアカデミズムの中での学者の議論になってしまい、公共空間における生活の一部にはなり得ないでしょう。
(中略)
南都昔からの読者の中には、『読書』の最近の文章は、現実問題を議論しているので、結果として以前のものほどおもしろくないし、わかりにくいという声もあります。
汪暉:(省略)『読書』が直面しているのは、大衆文化関連の雑誌です。それらに比べれば、読みにくいのはあたりまえでしょう。ではそうした状況の下で、『読書』は学術の中へともどっていけばいいのか、それとも大衆文化を完全に取り入れるべきなのか。わたしたちはもちろん、読みやすい文章がいいと思っています。しかし、完全に大衆文化的になってしまうことはのぞんでいません。今の世代の読者と上の世代の読者とでは読書傾向が全く違います。今の世代は大衆文化に詳しいですが、上の世代はハイデガーとかニーチェのような読みにくい文章に夢中だったのです。『読書』の文章は一種のバランスを保つべきでしょう。問題に深く分け入っていけるだけでなく、できる限りおもしろく、読みやすくあるべきです。ただ、あらゆるテーマがすべておもしろい文章になるというわけではありません。これはたしかに今やろうとしてもなかなか難しい問題です。
(中略)
南都では、『読書』は一体どのような責任を担っているのでしょう?
汪暉わたしたちは『読書』が本当の意味で知識人のフォーラムになることを希望しています。それは開放的で、幅広い自由を大切にする議論の場です。90年代半ば以降、社会では思想論争がたいへん盛り上がりました。それまでの20年間をはるかに上回るといってもいいほどです。しかも、問題の複雑さも以前とは比べられないほどになりました。だから、わたしたちは、『読書』がこうした複雑な問題に関する議論を本当の意味で展開できることを希望しているのです。特にここ数年来、社会的には、また大きな変化が生じ、新たな問題が次々と発生しています。『読書』はこういうときだからこそ、こうした議論の場を提供していく必要があります。

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