Saturday, February 24, 2007

东京大学拟大批引进外籍人才

据东京大学称,现在大约有250名的外籍人员在该校从事学术工作。以日本人为主的学术工作人员总数大约5000名,其中外国人所占的比例不到5%。国内其他大学,虽然在学术工作范围的界定、专任和兼任的区别等方面存在统计方法的不同,但外国人的比例高于东大的还有上智大学的48%、早稻田大学的8%左右等。鉴于此,东京大学已经决定将“国际化”作为其优先课题,引进更多的外籍学术工作人员。
该大学至今拥有22所驻外研究机构和行政机构,主要分布于欧美地区和亚洲地区。因为她今年春天将迎接建校一百三十周年校庆,该校提出了要将之增加到130所的目标。东京大学现有的驻外机构在数量上虽然大于早稻田大学(9所)、庆应大学(8所),但仍小于长期致力于增加海外机构的、2006年5月为止已拥有34所的京都大学。
东京大学还计划新建外籍人员的宿舍,出台相关的奖学金制度等等,以便多接纳海外人才。按计划,在东京本乡校区的附近兴建220间规模的招待所以供外籍研究工作人员以及留学生住宿,另外在位于千叶县的柏校区也要修建类似的设施。该校目前已经具有大约500间的外宾宿舍,但设施企划科的负责人称:“只数留学生人数也超过了两千人,我们的工作已经跟不上现实的需求了。”因此该校决定要改进现状。
此项国际化策略的概要是该校校长小宫山宏不久前在东京某地针对外国记者所做的一次讲演上透露的。小宫山称:“东大的国际化进程很滞后,这是最为令人担忧的问题之一”。他还透露了校内有必要进一步完善英语教学大纲的想法。但他没有谈及这些计划达到预期目标的具体时间。
据东大称,海外的调研机构及报刊等最近发布的有关大学综合实力(包括国际化程度等的指标在内)的世界大学排行榜中,东京大学屈居第12至第19名之间。东京大学认为:作为代表世界第二经济大国的一所大学,她有必要尽快采取相应的措施改变现状。
(译自《朝日新闻》2007年2月24日第3版)

Saturday, February 17, 2007

“人民康德”!?

李沢厚氏といえば、80年代の文化熱をリードしたオピニオンリーダーとして、非常に有名です。『読書』2007年第1期は、汪暉先生の『現代中国思想的興起』の編集も手がけた、三聯書店の若手編集者舒炜氏の李氏に対する書面インタヴューを、巻頭に掲載しています。改革開放時代の幕開けとほぼ同時(1979年)に初版が発行され、80年代前半の大学生や知識人たちに少なからぬ影響を与えた(という話をわたしが聞いているだけなのですが)、『批判哲学の批判』がどうやら修訂を経て近く再版される模様のようです。
このインタヴューのタイトルは、《循康德、马克思前行》、既にネット上ではコピーが出回っているようですので、検索してヒットしたものからひとつ、リンクを貼り付けておきます。「カントとマルクスに寄り添って進む」といったほどの訳になるでしょうか。日本語圏では、柄谷行人氏が『トランスクリティーク』(英文版あり)でもカントとマルクスを並べることによって問いを立てていましたね。わたしはこのあたりの動向にはまったく疎いので、李氏のことばをただなぞっていくだけですが、アメリカでは、Allen Woodという論者が、「カントの歴史唯物論」といったような言い方をしているそうです。もっとも、李沢厚氏の場合、美学的関心、もしくは「文化-心理構造」と呼ばれるような、歴史・社会的アプローチから、カントのアプリオリ批判、もしくは道徳命法批判をしていったところに特徴がありそうです。似たところでは、「内在的超越」論によってカントの三批判を中国の儒家伝統に引きつけていこうとした、台湾の牟宗三の思想がありますが、それが李氏の立場とどれほどの距離を持ったものであるのかはを検証の必要があります。李氏自身はこう言っています。

カントは神秘主義を否定している。カントは神だけが本体と現象が分かれない智的直覚を有しているとする。牟宗三はそれは人にもあると強調する。カントは認識論を論じたが、牟宗三はそれを倫理学、つまり道徳形而上学に持ち込んだ。だから、牟の「智的直覚」は認識や論理といった理性の問題ではなく、道徳-宗教の根底にある神秘的経験のことなのだ。(《实用理性与乐感文化》、『読書』からの二次引用)

李沢厚氏は、牟宗三のようなやり方ではなくて、社会性に根ざした(したがってまた、歴史的蓄積から出てくる)、超越的ではなく、内在的・世俗的な「社会的道徳」の方向で、中国世界における道徳の基礎づけの方向を探ろうとしているようです。

生命を論ずるには、まず人々の物質的生命、つまり衣食住の日常生活について論じなければならない。人はまず生きていかなければならない。物質的生命があって初めて、精神的生命とか、魂の救いといったものが可能になる。しかも、この「精神的生命」とか、「魂の救い」は、中国の伝統では、必ずしも神や宗教に帰依しなければならないものではなく、審美的な自然(天地)の境地なのだ。この境地は「美によって善を蓄える」というもので、「其の可ならざるを知りて之を為す」とか、「身を殺し仁と成す、生を舎し義を取る」のような、大きな道徳的心性や犠牲精神を含んでいる。だから、感性的な愉悦のようなものにはとうていおさまらないし、情感のない逍遙とはなおさら異なっている。

李氏は、この引用の前半部分に関わる「物質的生命」の第一義性について、それは「飯を食う哲学(吃饭哲学)」だと、強調します。そして、半ば冗談なのでしょうが、マルクスの唯物主義とは、結局のところ「吃饭哲学」であり、その限りでまったく正しいのだとかつて述べたりもしていました。
李氏の思想の大きな影響は、もう一つ「救亡が啓蒙を圧倒した」中国現代史への省察と、「革命に別れを告げる」式の改良主義的傾向でしょう。その意味では、李氏のラディカルさは、80年代初期にあって初めて浮かび上がってくるものだったのかもしれません。そうなると、今日的状況の中で、カントとマルクスを並べて論じていく場合に、果たして、李沢厚氏のようなやり方がどのようなインパクトを持ってくることになるのか、あるいは、まったく別様のしかたで、この両者ともに「寄り添って」いくような可能性があるのか、あるとしたら、それはどのようなかたちなのか、という問いは、おそらく、李沢厚氏の思想そのものを超えたところで展開されていくことも予想できるでしょう。

Sunday, February 4, 2007

“二十四节气”和理性思维

日本語版は「コメント」に貼り付けてあります。
2月4日是“二十四节气”上的“立春”。恕我孤陋寡闻,本人不知道日本民族从何时引进中国历法,但“二十四节气”的说法至今仍在日本广为人知,是家喻户晓的季节“风物诗”。每当“节气”来临的前一天晚上,各个电视台的天气预报异口同声地告诉你:“明天是古历上的××”,两个叉儿就是第二天要到来的节气,如昨天(即2月3日)的天气预报里不约而同地都说“明天是古历上的立春”。我总觉得“古历上的”(「暦の上では」)的注脚有点别扭。因为这里隐含着另一层意思,即:节气只是古代历法上的习惯说法,现实上的季节变化不一定也没有必要和这种古代说法相一致,更经不起现代科学的检验。然而,在中国,至少在中原一带和其周围的广泛地区,这种注脚根本是个多余的。因为,在那些地区,每一个节气的到来和季节的变化更替相当吻合,对当地老乡们来说,准确把握以节气为主的历法对其生活有着至关重要的意义。比如,在黄河河套地区,一过了“秋分”,气温一定会急剧下降,所以,必须要在“秋分”到来之前完成秋收工作。因此,在中国,节气绝不仅仅是过去曾流行于民间的通俗观念,而是非常符合农村生活规律的,颇为客观的一套科学体系。也就是说,人们在日常生活的常识上面时刻都可以感受到符合自然界变化规律的理性叙述,而且此一体系本身便是对生活经验的合理总结。这样一来,人们对经验科学的信赖可建立在很牢固的生活实感上。依我看,这就是中国思想文化由来已久的理性主义的经验基础,而建立在这种贴身的生活层面上的理性主义应该不会轻易动摇。反过来看日本的情况,“节气”的概念是从外边借来,直接套在日本的季节变化的,从一开始就没有立基于日本的百姓生活上,从而必然导致和生活实感的疏离。所以,天气预报先生的那个注脚在日本也总起着不可忽视的作用,他在告诉你:即使你要完全相信“节气”行事,也对你的工作不会带来什么实惠,因为那只是“历法上的东西”!这种理性知识不是可以拿来直接运用到实际生活上的,而充其量可当作炫耀自己博闻多识的装饰品。如此看来,日本的文化土壤上根深蒂固的、不可否认地存在的一种反知识传统并非没有其内在逻辑。从生活的角度来看,认为借来的知识系统不一定可适用于现实生活的判断也许是更为合理的选择。