Sunday, February 4, 2007

“二十四节气”和理性思维

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2月4日是“二十四节气”上的“立春”。恕我孤陋寡闻,本人不知道日本民族从何时引进中国历法,但“二十四节气”的说法至今仍在日本广为人知,是家喻户晓的季节“风物诗”。每当“节气”来临的前一天晚上,各个电视台的天气预报异口同声地告诉你:“明天是古历上的××”,两个叉儿就是第二天要到来的节气,如昨天(即2月3日)的天气预报里不约而同地都说“明天是古历上的立春”。我总觉得“古历上的”(「暦の上では」)的注脚有点别扭。因为这里隐含着另一层意思,即:节气只是古代历法上的习惯说法,现实上的季节变化不一定也没有必要和这种古代说法相一致,更经不起现代科学的检验。然而,在中国,至少在中原一带和其周围的广泛地区,这种注脚根本是个多余的。因为,在那些地区,每一个节气的到来和季节的变化更替相当吻合,对当地老乡们来说,准确把握以节气为主的历法对其生活有着至关重要的意义。比如,在黄河河套地区,一过了“秋分”,气温一定会急剧下降,所以,必须要在“秋分”到来之前完成秋收工作。因此,在中国,节气绝不仅仅是过去曾流行于民间的通俗观念,而是非常符合农村生活规律的,颇为客观的一套科学体系。也就是说,人们在日常生活的常识上面时刻都可以感受到符合自然界变化规律的理性叙述,而且此一体系本身便是对生活经验的合理总结。这样一来,人们对经验科学的信赖可建立在很牢固的生活实感上。依我看,这就是中国思想文化由来已久的理性主义的经验基础,而建立在这种贴身的生活层面上的理性主义应该不会轻易动摇。反过来看日本的情况,“节气”的概念是从外边借来,直接套在日本的季节变化的,从一开始就没有立基于日本的百姓生活上,从而必然导致和生活实感的疏离。所以,天气预报先生的那个注脚在日本也总起着不可忽视的作用,他在告诉你:即使你要完全相信“节气”行事,也对你的工作不会带来什么实惠,因为那只是“历法上的东西”!这种理性知识不是可以拿来直接运用到实际生活上的,而充其量可当作炫耀自己博闻多识的装饰品。如此看来,日本的文化土壤上根深蒂固的、不可否认地存在的一种反知识传统并非没有其内在逻辑。从生活的角度来看,认为借来的知识系统不一定可适用于现实生活的判断也许是更为合理的选择。

1 comment:

石井剛 ISHII Tsuyoshi said...

2月4日は「二十四節気」の「立春」でした。日本人がいつごろから中国の暦法を使い始めたのか知りませんが、「二十四節気」は今でも誰もが知っている季節の「風物詩」ですね。「節気」が訪れる前夜の天気予報では、必ず「明日は暦の上での××です」と紹介があります。××には翌日の節気の名称が入るわけです。ただ、「暦の上での」という言い方はどうも不自然な感じがぬぐえません。なぜなら、そこには、「節気は昔の暦での習慣的な言い方で、実際の季節変化は暦どおりにはいかないし、科学的なものでもない」ということが言外に含まれているからです。ただし、中国、少なくとも中原一帯の地域では、こうした注釈はよけいなものとなります。あちらでは、節気と季節変化とが一致しているので、現地の農家にとっては、節気をきちんと押さえておくことは生活の中で非常に重要な意義を持ってきます。例えば、わたしがいた黄河の河套地域では、「秋分」を過ぎるとたちまち気温が下がってくるので、その前に秋の収穫を終えておかなくてはなりません。だから、中国では節気は以前民間に流布していた通俗的観念であるというだけではなく、農村の生活リズムに即した、きわめて客観的な科学的体系なのです。つまり、人々は日常生活の常識レヴェルで、自然の変化法則に合致した合理的ディスコースの存在を常に感じているわけで、しかも、その体系自体は、生活から出た経験の成果なわけです。そうなると、人々の経験科学に対する信頼は、とても堅固な生活実感の上で成立することになります。このことは、中国の思想文化に古くから存在する合理主義の経験的基礎になっているのではないでしょうか。そして、そのような、生活に密着した合理主義というのは、そう簡単に動揺するものではないでしょう。翻って日本はどうでしょうか。「節気」は外来の概念で、それをそのまま日本の季節変化に当てはめてしまっているのですから、それははじめから日本の庶民生活に根ざしてはおらず、従って、当然生活実感からはかけ離れているわけです。だから、天気予報の例の注釈は、日本では重要な意味をもってきます。つまり、たとえ「節気」の通りに行動したところで、何の得もない、なぜなら、それは「暦の上でのこと」に過ぎないのだから、とそれは述べているのです。このような理性的知は、そのまま現実の生活に当てはめて使うことはできないでしょう。せいぜい博識をひけらかすのに使う小道具の程度です。こうしてみると、日本の文化風土に根強く存在している一種の反知性的伝統というものも、いわれなきものだとは言えなくなります。生活という角度から見たときに、借り物の知は現実の生活に応用できないと判断すること自体が、おそらく合理的な選択でもあるからです。