Saturday, January 27, 2007

"我们的时代"与人的生存

黄平、姚洋、韩毓海《我们的时代》(中央编译,2006年)は、その題名の通り、現代の中国の社会・文化状況に関する知的関心が、その体温と共に伝わってくるような、生き生きした鼎談録です。話題が多岐にわたっているので、啓発や刺激を受ける部分も随所に及ぶのですが、ここでは市場化時代における再分配の問題をめぐる姚洋氏の議論を紹介しましょう。

……主張の如何に関わらず、古典的な作家たちには少なくとも統一の思想体系があった。彼らの哲学や政治的主張は一致していたんだ。でも我々の世代の公共知識人には、そんな一致性が欠けているように思う。例えば、秦暉は国有企業改革の議論によく参加して、国有資産の売却に際して現れる公平とか平等などの問題を強調している。(中略)彼の主張は明らかに左翼の立場と一致しているんだ。でも彼は、哲学のレヴェルになるとノーズィックの理論を認めている。起点における平等と手続き的正義こそが自由のすべてだと信じているんだ。自分でも自分は保守主義者だといっているし。でも、ノーズィックの中からは国有資産の平等分配なんて出てくるはずがない。ノーズィック理論の核心的概念は「得られるべき物」、つまり、個人が自分の努力を通じて得た物とか、上の世代から想像した合法的所得とか。(中略)もしノーズィックに賛成、その原則に賛成なら、インサイダーによる改制とか、企業経営者が大口株主になるとかといったことは国有資産に対する合理的な占有ということになるんだと認めなければならない。改制した企業の業績は概して向上しているし、労働者の給料は増えているし、しかも人員削減のスピードは遅くなっている、なんていう研究もあるからだ。つまり、改制の結果個々人の状況は改善されたというんだ。ぼくは彼と金雁がソ連・東欧の軌道修正について書いた本について書評を書いたことがある。「調和を求める緊張」という題でね。彼の主張と哲学思想の間は緊張に満ちているということが言いたかったんだ。ぼくは思うんだけれど、「文革」を経験した世代は国家に対して根っからの警戒心や抵抗の心理があるんじゃないかな。たとえ左翼的なものを信じていたとしても絶対に右翼の角度から議論をするという具合に。でも、そういうかたり方は自分を苦しめているんだとどうしても思うね。秦暉は、ふつうの左派のように国有企業の改制に反対するのではなくて、国有資産の分割とか売却には賛成している。でも、分割にせよ売却にせよ、公平でなければならないと思っている。哲学的な角度からいえば、起点の平等が必要だからだということになる。国有資産は全民所有制である以上、一人ひとりの市民が当然同じ分配を受けるべきだというんだ。でも、国有資産が全民所有であるかどうかはさておき、起点の平等ということだけについてみても、一体そんなにはっきりした起点の平等がどこにあるんだ、と問いたい。今日は全員が平等に分け前をもらえるかもしれないけれど、明日になればすぐに不平等になってしまうじゃないか。だって平等な資産を使用する能力がちがっているんだから。起点の平等を達成するためには、毎日毎日資産の再分配をしなけりゃならない。そんなことにはノーズィックだって賛成しないだろう。(pp.229-229)

国有企業の「改制」というのは、日本語の文脈でいえば、民営化と訳すべきものでしょうが、その事情はもっと複雑です。前(1月17日)に紹介した汪暉先生《改制与中国工人阶级的历史命运》はそのあたりのことが具体的に書かれています。これは香港中文大学の郎咸平氏が、今は捕まってしまった企業家顧雛軍氏のMBO戦略に対する一連の論難によって、大いに注目を浴びるようになった問題でもあります。秦暉氏がどのように反論するのか興味深いところでありますが、いわゆる「新自由主義対新左派」といった対立の構図の中にこうしたことばを解消してしまうべきではないでしょう。「明日になればすぐに不平等」になってしまうような現実を見きわめ、その中で、個人はいかにしてよりよく生きるためのよりどころと希望を得ていけるのでしょうか。
姚洋氏はほかにも農村の土地所有権についても、土地収用に関わる農民の権利侵害を抑制する方法として、所有権の私有化を図るのではなく、集団所有権を規定している現制度の枠組みの中で、農民の集団的交渉能力の向上を支援していくほうが有効であるという見解を述べるなど(p.213)、経済学者らしい冷静な分析に基づく判断を随所に発揮しています。
ところで、上の引用の中で挙げられているのはノーズィックですが、それ以上にこの本の中で繰り返しやり玉に挙がっているのは、ハイエクです。その批判のしかたは、上の引用からも明らかなように、「自生的秩序」に代表されるような予定調和的な市場原理観では、現実に存在する権力の不均衡について批判的な視座が生まれようもないという論理です。ずいぶん前のことになりますが、たしか岩井克人氏だったと思うのですが(ちがっていたらごめんなさい)、ハイエクの市場理論には、キリスト教的倫理に支えられた家族レヴェルの「小さな社会」の存在が前提にあって、その上での「大きな社会」論として市場の有効性を述べているんだ、などと言っていたのを記憶しています。たぶんこれはアダム・スミスの『道徳情操論』での主張と重なってくるのでしょうけれど、市場がただそれ自体で完結しているのではなく、その基礎には、倫理と道徳を共有する価値共同体の存在が前提されていたという指摘は、前回紹介した、楊念群氏の観点ともつながってくるものと思われます。

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