Saturday, February 17, 2007

“人民康德”!?

李沢厚氏といえば、80年代の文化熱をリードしたオピニオンリーダーとして、非常に有名です。『読書』2007年第1期は、汪暉先生の『現代中国思想的興起』の編集も手がけた、三聯書店の若手編集者舒炜氏の李氏に対する書面インタヴューを、巻頭に掲載しています。改革開放時代の幕開けとほぼ同時(1979年)に初版が発行され、80年代前半の大学生や知識人たちに少なからぬ影響を与えた(という話をわたしが聞いているだけなのですが)、『批判哲学の批判』がどうやら修訂を経て近く再版される模様のようです。
このインタヴューのタイトルは、《循康德、马克思前行》、既にネット上ではコピーが出回っているようですので、検索してヒットしたものからひとつ、リンクを貼り付けておきます。「カントとマルクスに寄り添って進む」といったほどの訳になるでしょうか。日本語圏では、柄谷行人氏が『トランスクリティーク』(英文版あり)でもカントとマルクスを並べることによって問いを立てていましたね。わたしはこのあたりの動向にはまったく疎いので、李氏のことばをただなぞっていくだけですが、アメリカでは、Allen Woodという論者が、「カントの歴史唯物論」といったような言い方をしているそうです。もっとも、李沢厚氏の場合、美学的関心、もしくは「文化-心理構造」と呼ばれるような、歴史・社会的アプローチから、カントのアプリオリ批判、もしくは道徳命法批判をしていったところに特徴がありそうです。似たところでは、「内在的超越」論によってカントの三批判を中国の儒家伝統に引きつけていこうとした、台湾の牟宗三の思想がありますが、それが李氏の立場とどれほどの距離を持ったものであるのかはを検証の必要があります。李氏自身はこう言っています。

カントは神秘主義を否定している。カントは神だけが本体と現象が分かれない智的直覚を有しているとする。牟宗三はそれは人にもあると強調する。カントは認識論を論じたが、牟宗三はそれを倫理学、つまり道徳形而上学に持ち込んだ。だから、牟の「智的直覚」は認識や論理といった理性の問題ではなく、道徳-宗教の根底にある神秘的経験のことなのだ。(《实用理性与乐感文化》、『読書』からの二次引用)

李沢厚氏は、牟宗三のようなやり方ではなくて、社会性に根ざした(したがってまた、歴史的蓄積から出てくる)、超越的ではなく、内在的・世俗的な「社会的道徳」の方向で、中国世界における道徳の基礎づけの方向を探ろうとしているようです。

生命を論ずるには、まず人々の物質的生命、つまり衣食住の日常生活について論じなければならない。人はまず生きていかなければならない。物質的生命があって初めて、精神的生命とか、魂の救いといったものが可能になる。しかも、この「精神的生命」とか、「魂の救い」は、中国の伝統では、必ずしも神や宗教に帰依しなければならないものではなく、審美的な自然(天地)の境地なのだ。この境地は「美によって善を蓄える」というもので、「其の可ならざるを知りて之を為す」とか、「身を殺し仁と成す、生を舎し義を取る」のような、大きな道徳的心性や犠牲精神を含んでいる。だから、感性的な愉悦のようなものにはとうていおさまらないし、情感のない逍遙とはなおさら異なっている。

李氏は、この引用の前半部分に関わる「物質的生命」の第一義性について、それは「飯を食う哲学(吃饭哲学)」だと、強調します。そして、半ば冗談なのでしょうが、マルクスの唯物主義とは、結局のところ「吃饭哲学」であり、その限りでまったく正しいのだとかつて述べたりもしていました。
李氏の思想の大きな影響は、もう一つ「救亡が啓蒙を圧倒した」中国現代史への省察と、「革命に別れを告げる」式の改良主義的傾向でしょう。その意味では、李氏のラディカルさは、80年代初期にあって初めて浮かび上がってくるものだったのかもしれません。そうなると、今日的状況の中で、カントとマルクスを並べて論じていく場合に、果たして、李沢厚氏のようなやり方がどのようなインパクトを持ってくることになるのか、あるいは、まったく別様のしかたで、この両者ともに「寄り添って」いくような可能性があるのか、あるとしたら、それはどのようなかたちなのか、という問いは、おそらく、李沢厚氏の思想そのものを超えたところで展開されていくことも予想できるでしょう。

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