Wednesday, October 17, 2007

《读书》所陪伴的时代与社会

『天涯』2007年第5期の巻末に、《巨变时代的世界观:〈读书〉十年文选座谈会摘要》という題で、汪暉氏を招いた座談会の様子が詳しく報告されています。座談会は90年代半ばの人文精神論争で論争の中心にいた王暁明氏の所属する上海大学の主催で、6月30日に開催されています。北京と上海を代表する豪華な顔ぶれの討論会です。主な発言内容を目につくままに摘録してみたいと思います。前後のつながりを無視して、発言の興味深い部分だけを取り出していますので、異なる発言間で話題の一貫性は保たれていません。申し訳ありませんが、ご諒解ください。

1 『読書』と二十年来の中国や世界の激変
蔡翔(上海大学):『読書』の議論は往々にして知的なレヴェルで展開され、しかもさまざまな専門的な知的バックグラウンドを提供してくれました。これも私が『読書』からしばしば多くの収穫を得ることができた原因ですし、これからも『読書』がこの方向を継続して進めていって欲しいと期待しています。もしこのような成長が、いわゆるわかりやすさとかわかりにくさといった議論を呼ぶのだとしたら、それは問題として成立しない議論だと思います。「読みやすさ」を『読書』に求めるというのはあまりに低次元です。それに、『読書』の30年来の伝統はいわゆる「読みやすさ」ということばでくくれるものではありません。30年来、『読書』がずっと力を注いできたのは、新たな知を広め、歴史や現実に関心を持ち、中国の未来を積極的に探っていくということでした。ですから、『読書』は中国知識界で最も著名な思想のプラットフォームになっただけではなく、思想を伝播するかたちで、中国のあちこちに大小さまざまな知のサークルを形成してきたのです。これこそが『読書』の最も重要な伝統ではないでしょうか。
高瑞泉(華東師範大学):中国の哲学研究は、今、時代をとらえることがまったくできていません。それはときに何らかの知的バックグラウンドとして利用され、個人の修養に利用されていくことがありますけれど、現下の時代性をとらえられていないのです。『読書』はこの10年間で確かに、時代の最も尖鋭な問題をさぐりあてていました。これからもこの方向で大きな役割を果たしていって欲しいと思います。
許紀霖(華東師範大学):『読書』の問題点の核心は、読みやすいかどうかということではないのです。問題は、『読書』を制約している背景的条件にあまりにも大きな変化が生じているということです。それは少なくとも3点挙げられるでしょう。第一に、公共的な文化空間の消失ということです。(中略)1990年代以降、公共知の空間は解体し、個別のディシプリンに分割されました。公共的な問題を論じる文章もあるにはありますが、そこで使われているのは自分の畑の中でしか通用しない隠語であり、畑違いの人にはわかりにくい。読者のほうも専門化されてしまいました。二番目に、1980年代には見られた自由な環境が今ではすっかり失われ、たくさんの問題がタブーになっているということです。何か主張しようという場合に、問題となるのは何を言うのかではなくて、どのようにいうかと言うことであり、専門化された表現であるほど、ある意味で表現の自由を獲得しているという状況です。最後に、1980年代には、啓蒙という基本的なコンセンサスが存在していたということです。多少の分岐はあっても、その背後には基本的なコンセンサスがあったのです。つまり、汪暉氏が当時言っていた「態度の同一性」、近代化に対する同一的な態度のことです。しかし、こうしたコンセンサスは、1990年代半ば以降次第に失われ、さまざまなイデオロギーや専門のディシプリン、ひいては、共約困難なミニ・コミュニティへと分化していきました。専門の細分化というのは知の成熟化のあらわれでもあるのでしょうが、そこではイデオロギーが往々にして情緒的になりがちです。
陳映芳(華東師範大学):『読書』は社会科学化し、専門化したのでわかりにくくなったという人がいます。そこにはちょっと誤解があって、社会科学が問題をはっきりと述べることができていれば、それが理解できないというのはおかしいのです。問題は社会科学では一定の専門的基礎が要求されており、作者にも問題に対する専門的な研究が要求されているということです。『読書』が近年来提出してきた問題には重要なものがいくつかあります。1990年代以来中国では多くの問題が社会レヴェルで爆発的に登場し、知識界や思想界はそれに対する応答を求められてきました。『読書』は中国の問題を世界とかアジアといった背景において理解しようとしてきましたが、それはきわめて必要なことです。しかし、私は社会科学研究者として、それらの文章を読んであまり快く感じられないことがあります。それは専門化しすぎているからではなく、作者の西洋社会科学に対する理解が恣意的であったり、中国の問題に対する深い研究が欠落していると感じられるからです。いい問題が提出されてきたというのに、議論が情緒的だったり、イデオロギー的な文脈の中で展開してしまっている。これでは真正な議論の展開にとって不利でしょう。たぶんそこには原因があって、編集者とか作者の側の原因以外にも、国内の社会科学研究者が、具体的な問題の研究に沈潜している反面、中国の問題と世界的な問題を結びつけ、具体的な問題を思想理論のレヴェルに引き上げて思考するような衝動や能力を欠いているということにも原因があるのではないでしょうか。
2 1990年代初め以来の中国における思想と知の新風景
張汝倫(復旦大学):『読書』がいちばんやるべきなのは、人々に反省と批判の頭脳を提供することであって、流行のタームを容易に受け入れたり、流行しているような事実に関する描写を行うということだけではないでしょう。わたしたちはこれほど多くの現実的問題を抱えているというのに、それを学術的思考のエネルギーに変えていくことができないというのでしょうか?例えば、母親を連れて病院に行く途中で拉致されて、レンガ窯で働かされるといったようなこと、わたしたちはこうしたことについて、ジャーナリスティックな角度から考えるだけでは当然満足できないわけですが、そうなってしまうのは1980年代以降の思想文化の発展全体のうちに何らかの欠落があるということを示しているのです。私はインドの知識人をうらやましく思うことがあります。彼らは自分たちの言葉を持っているような感じがします。それはわたしたちにも実はできることなのですが。
汪暉:歴史叙述の正当性は、今日ではグローバル化をどう評価するか、コロニアリズムの歴史や帝国主義の歴史、民族解放運動の歴史をどうやって再び分析するかということに関わってきます。多くの問題がそのプロセスの中で転化していきました。20世紀にできあがった明確な価値判断や是非の基準が、その中で曖昧になっていきました。左翼右翼ということが言われる一方で、左右の違いが非常にわかりにくくなっている。汝倫はさきほど西洋の知的ヘゲモニーのことを言っていたわけですが、わたしたち自身の歴史を書き直すということも、実際には一つの問題になっているのです。20年の変転を経て、わたしたちは非歴史的な人間になってしまいました。わたしたちはつねに歴史を叙述しているのですが、真正な歴史叙述は構築されてこず、いわゆる価値のすがたのようなものを提供できていないのです。こうした背景のもとで、社会科学や人文学のすべてが直面している危機は実はきわめて深刻なものなのです。中国の知識界でここ数年みられるいさかいには、不愉快な部分がたくさんありますけれども、こうしたいさかいを通して、わたしたちは多少なりとも、ある種のものが浮かび上がってきているのにきづかされます。それはわたしがこうした議論の中で見いだすことのできる最もポジティヴな部分です。例えば、「三農」問題に関する議論によって、多くの学生たちが農村に行くようになり、多くの農民たちが再組織化を行うようになり、多くの歴史的資源がこれらの議論や関連する社会的実践の中から再び取り上げられるようになりました。知識人や若い学生にとって、これは自己教育の運動なのです。こうした自己教育の運動がなければ、歴史を書き直す可能性も生まれてこないでしょう。
戴錦華(北京大学):わたしたちはややもすれば教育の大衆化とか文化の大衆化とか、消費の大衆化などといいますね。それと対照的な言い方をすると、『読書』はアカデミズム小衆化ですね。(中略)国による最も楽観的な統計では、中国のネット人口は2億に満たないということですが、わたしの調査したところでは、「ネチズン」と言い得る人の数はせいぜい数十万といったところです。中国の人口が13億であるということに比べると、ほんの一握りに過ぎません。今日いわれる中国の「大衆文化」は、90%以上が(わたしには統計的根拠があります)、小衆文化です。大作映画のチケットは80元ですけれど、これはアメリカのロードショー映画よりもずっと高いものです。劇場映画はそれでも大衆文化でしょうか?80元を払って『HERO』を見て、ネット上でその悪口を言う、これはたいへん小衆的なグループゲームに過ぎないのですが、どれをとっても、主流コンテクストでは「大衆」と言われています。これは9億の農民「大衆」とはまったく無関係なものではないでしょうか?わたしたちはどうやって中国の大衆問題を語ればいいのでしょう?大衆は人民と同じものなのでしょうか?小衆とはつまり少数ということなのでしょうか?主流の批判は永遠にマージナルな少数のところから生まれてくるものです。知識人には自問し、答えていくべき問題が山ほどあるのです。
3 視野とイマジネーション:中国、アジア、世界
羅崗(華東師範大学):数日前のことですが、ベンヤミンに関するゼミを開いているのですが、東京大学の教授や学生とワークショップを行いました。(中略)わたしたちはベンヤミンも読めば魯迅も読みます。わたしたちから見れば、ベンヤミンも魯迅も第一次世界大戦の衝撃の中から誕生した傑出した思想家であり、世界的危機に対するトータルな応答を構成しているのです。誰が東洋に属し誰が西洋に属しているかということをわたしたちは気にしたことはありません。ベンヤミンの目を借りて今日の中国を見ることもできれば、魯迅の目を借りて今日の中国を見ることもできるのです。アジアという問題が浮かび上がってきても、それをいわゆる東西二元対立の関係に置くべきではないでしょう。以前、ある韓国の学者がいい問題を投げかけていました。つまり、わたしたちが、アジア共同体について語るとき、結局のところ、それは日本、中国、韓国の各国政府が想像しているような経済的共同体に対応しているのだろうか、もしそうだとしたら、わたしたち知識人の立場はどうなってしまうだろうか、と言うのです。これは非常に鋭い問題です。

No comments: