Saturday, October 20, 2007

《读书》所陪伴的时代与社会(续)

汪暉:東南アジアを研究している中国の学者はその多くが華人研究、華僑研究を中心としていますし、韓国文化研究では、儒学や漢籍に関する研究が主体です。そのほかの地域も同様です。そこに欠落しているのは世界史という視点であり、本当の意味での地域史ですらありません。わたしたちの自己理解がとても偏っているのです。参照するものが異なれば、理解のしかたも完全に変わってしまいます。中国知識界に人材がいないのではないのですが、視点がしっかりしていないため、ある種のものがながされ、失われてしまっている。参照系がすべて混乱してしまえば自己理解すらなくなってしまうのです。呂新雨さんの先ほどのことばを使えば、「他者other」に言及してしまうとたちどころに間違いだらけになってしまい、あらゆる領域において、ほとんどすべて把握できなくなってしまう。それこそは本当の知の危機です。これまでこうやって多くのことを話し合ってきて、西洋中心論に対する批判も出ましたが、この意味ではわたしたちはやはりそれに支配されているのです。正しいことをずっと言い続けてきたと思ったら、やはりそこでまだ足踏みをしていることに気づくという、これこそは根本的な問題でしょう。
戴錦華:西洋という概念は、あまり軽々しく使わない方がいいのではないでしょうか。いわゆる西洋というのは欧米のことを指しているのですが、ヨーロッパはアメリカとの間で新たなたたかいに入り、ポスト冷戦期を考える際の最も重要な変数になっています。一方で、ヨーロッパから始まった資本主義の拡大は、最初から「グローバル化」したものでした。それ以外の国や地域がそれとぶつかるやいなや、「自己」と「他者」の問題が現れてきます。しかし忘れてはいけないのは、いわゆる主体の構造というのは、つねに「自他構造」であり、他者とは永遠に自己にとっての他者だということです。他から「我」を設定するプロセスの中で、他は自己の一部分に変質していきます。したがって、西洋中心主義は最初から外在的な、単純なものではないのです。今日、アメリカはどこにあるのか?アメリカはわたしたち自身の深いところにいるのです。中国の多くの外貨貯蓄が皆アメリカ連邦政府の証券になっているというときに、アメリカはどこにあると言えますか?(中略)欧米諸国が第三世界に遭遇し、植民地の人々が立ち上がって「人」になろうとしたとき、ヨーロッパの学者たちは、自分たちもまた世界の一つの地域の自己に過ぎないのだということを再認識せざるを得なくなりました。ポスト構造主義とかポストモダンというのは、こういう前提があった上で生まれてきた知なのです。今それをわたしたちが使うとなると、主体/客体、自己、他者という複雑な関係を処理しなくてはならないでしょう。

ところで、『読書』2007年第8期の「編集後記」の最後の一文は次のようなひと言でした。
実は今もう黎明時だ。しかし、なお明暗の狭間である。
センセーショナルなメディア言説の中で消費されることになった「事件」の渦の中で、上海でこうした座談会が開かれていることを、「編集後記」のこのことばと重ね合わせて考えてみれば、変わりゆく時勢の中で、それを見きわめつつ、自らのよって立つべき位置を顧みるという、冷徹な思考の強さが試されているのだとも思われます。

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