Saturday, October 13, 2007

所谓“中国道路”,还是“祭如在”?

新左派の代表的論客として有名な甘陽氏は、『読書』2007年第6期に《中国道路:三十年与六十年》と題するエッセイを発表し、この号の巻頭を飾りました。甘陽氏は、この中で中国の近代化プロセスを、孔子・毛沢東・鄧小平という三段階の伝統構築-継承プロセス、すなわち「新時代の“通三統”」であるとして、中国の改革は「儒家社会主義共和国」を目指すべきであると主張しています。「通三統」というのは、中国思想史に明るい人でない限り耳にすることのないような表現ですが、もとはといえば、儒家経典の解釈学派のひとつ、経今文学派が『春秋公羊伝』に対する解釈の中で抽出した概念です。もっとも、今文経学の範疇で「統」は、「伝統」という意味にはなりませんので、孔子・毛沢東・鄧小平という三伝統を貫くという意味での「新時代の“通三統”」説は、甘陽氏が一種のパロディとして用いただけかもしれません。だとすれば、「儒家社会主義共和国」ということばの含蓄についても別の解釈が可能になるでしょう。ただ、このことばが一定以上の魅力とともに論争性を有するものとして中国国内外知識界の関心を呼び起こすものであることは、今日の儒教ブームからしても容易に察しがつきます。だから、甘陽氏の意図がどこにあったかという問題とは別に、こうしたことばは刺激と共鳴をともなってきます。
例えば、『開放時代』2007年第4期に掲載されている蘇力氏(本名は朱蘇力、北京大学)の《费孝通、儒家文化与文化自觉》は、費孝通の農村文化論(礼治秩序、差序構造など)を儒家思想の近代的展開として位置づけつつ、農村社会の礼的秩序を「大国中国」の精神文明の根幹を支える儒家思想の生きつづける源泉として自覚化していく必要を訴える論文です。これなどは、溝口雄三氏の「中国的“公”」論にもつながる議論でもあると同時に、現代新儒家とは異なったかたちで宋代以降の儒家思想を今日的文脈の中で活性化していこうとする試みであるという評価も、とりあえず成立するでしょう。
しかし、当然のことながら、なぜ今にしてまた儒家なのか、どうして儒家でなければならないのか、という根本的な疑問がこのような傾向にはたちどころに生じるのであって、以前紹介した『読書』当該号の編集後記(本ブログ《儒家传统和社会主义》を参照)は、その作者汪暉氏が、全面否定とはとうてい言えないまでも、甘陽氏とはかなり異なった認識を持っていることを十分に伝えています。儒家思想と社会主義がそもそも結びつきうるものなのか、仮にそれが可能であるとして、それはどのように可能なのかという問題が、アクチュアルな状況の中から生起してくるだけの現状が確かに存在しているのらしいということを、この編集後記は伝えています。
一方、『読書』2007年第8期は、甘陽氏に対する応答として、韓東育氏(東北師範大学)の《也说“儒家社会主义共和国”》と王思睿氏の《中国道路的连续与断裂及其他》を掲載しています。王氏は、アメリカ的な「新資本主義(民主資本主義)」とスウェーデン式の「新社会主義(民主社会主義)」と、両者の中間としての混合モデル以外に参考となるべきモデルはなく、両者いずれをとるにしても憲政デモクラシーの実現こそが、最低限の要件になると主張するとともに、「儒家の共和国」という言い方自体が、宗教・思想の多様性を滅却した政治不正確な物言いですらあることを、ストレートに批判しています。これに対して、韓東育氏は、甘陽氏の議論から溝口氏の議論へと遡及しつつ、後者の論理的矛盾を指摘するとともに、80年代のNIEs勃興期に生じた儒教ルネサンスの思潮自体が幻想の産物であったと冷静にふりかえっています。韓東育氏の議論は、相変わらずの「儒家」信仰に対する冷めた視線を保っている点で味わい深いものです。

実際のところ、儒家に比べて、中国人は自分のことを「炎黄(炎帝・黄帝)の子孫」と呼びたがっているものだ。だが、もしも誰かが本当に今の中国のことを「炎黄社会主義共和国」とでも呼ぼうものなら、きっと中国人の大多数が納得しないだろうし、おそらくは甘陽氏自身もそれに反対するに違いない。結局のところ、「先賢」たちが後代の人々から得たものはといえば、「冷めた豚の頭の肉」のようなお供え物に過ぎず、したがって、古人にせよ現代人にせよ、それらの「わだかまりを解く」ための考え方とかやり方は、必ずしもまじめくさったものではない。馮友蘭の次のような理解はすこぶる適切だろう。「儒家のことばにしたがえば、祭礼を執り行う理由は、もはや鬼神が本当に存在していると信じているからではではない」、「礼を行うのは、祖先をまつる人の祖先に対する孝敬の気持ちに発するのであるから、礼の意義は詩的なものであって宗教的なものではない」。

あるいは、韓東育氏の指摘は、「儒家社会主義」論に対する総括批判なのではなく、むしろもう一つのはじまりなのかもしれません。

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