Monday, October 8, 2007

幸福的蓝图谁来画?

于丹(北京師範大学)氏の《论语心得》は、なんと400万部の売り上げを記録したそうです。中央電視台(CCTV)の人気番組《百家讲坛》でブレイクして以来、すっかり時の人となったという話はわたしも聞いています。于丹氏の個性が近年来高まりつつあるという儒教復興ブーム(読経ブーム)の後押しを受けて、爆発的なヒットとなっていることについて、『読書』8月号では、貝淡寧(Daniel A. Bell)氏が《《论语》的去政治化:于丹《论语心得》简评》という評論を寄せています。貝氏はカナダ出身の哲学研究者で、「貝淡寧」はその中文名です。現在清華大学の倫理学・政治哲学教授。貝氏は次のように述べています。

例えば子貢が政治について尋ねた著名な段落では、孔子は、政府は十分な武器と食糧を獲得して国を守るべきであり、庶民は統治者に対して信頼を寄せるべきであるという(食足り、兵足りて、民之を信ず)。続けて、孔子は、それを大事な順に並べるように問われて、十分な武器は最後であり、人民の信頼が最も重要だと述べた。于丹は、この段落を国が関心を持つべきなのは人々の幸福であってGDPではないというふうに解釈している。しかし、わたしたちは人々が幸せであるとか政府に信頼を寄せているといったことをどうやって判断すればよいのだろう。彼女が示唆しているのは、個人の心の受けとめかたであって、政府が人民のために行う何らかのことがらではないということだ。彼女は、それを説明するために、顔回が貧困の中でもとても幸せであったという例を出している。だが顔回というのは最悪の例だろう。まず、彼は幸せを目指そうとはしていない。彼が目指しているのは「道」であり、善人になること、世界をもっとすばらしいものにすることなのだ。その信念と使命感が彼に力を与え、苦しい生活の中でもめげることなく、道徳を見失うことがなかった。しかし、多くの人にはこのようなヒロイズムはない。

一方、『天涯』2007年第5期は、銭理群氏の《乡村文化、教育重建是我们自己的问题》を巻頭に掲載しています。《乡村教育的问题和出路》という本の序文として書かれたものだそうですが、この本自体についてはわかりません。この文章に記されているさまざまな具体的な事例についてはいちいち紹介するわけにはいきませんので、興味のある方は上のリンクからどうぞ。ただ、現下の状況について魯迅研究者の銭氏らしい概括を行っている部分を引用しましょう。

今年の初め、『生きる理由と生き方』という文章を書いた。論じたのはシェークスピアに登場するデンマーク王子の有名な命題に対する中国からの応答だ。そこで、魯迅の『孤独者』に示された三段階の「生きる理由」について語った。それは、「自分のために生きる、「わたしを愛してくれる」人のために生きる、敵のために生きる」というものだ。(中略)日常生活の倫理や論理が覆された後には、これらはすべて揺るがざるを得ない。人々がただ「カネ」のためだけに生きるようになり、精神的な支えを失ったとき、生活の中で挫折を迎えたり、物質的な欲望が満たされなくなったとたん、生きるエネルギーを失ってしまうことになる。家庭の愛情が希薄になり、功利的になり、家族の情操機能が劣化してしまえば、親や家族の愛情を子どもが感じることができなくなり、もしくは感じたとしても不十分である場合には、「わたしを愛してくれる者のために生きる」という動機も失われてしまう。(中略)事実は深刻なのだ。農村文化が衰弱し、農村教育の文化性が失われてしまっていることは、すべて知らず知らずのうちに青少年から「生きる」理由や、生命の意義や楽しみを奪うことになる。そして、自分たちの子孫たちが有意義に、楽しく、健康に生きていけるかどうかという問題は、一つの民族にとって小さな問題ではあり得ない。

儒教文化の復興を支えるその消費者たちの生活と、疲弊する農村で掙扎する人々とその子どもたちの生きざまは、どれほど重なってきているのでしょうか。儒教ルネサンスが与えるであろう「生きる意味」とは、どこまで広がる可能性を持っているものなのでしょうか?

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