Tuesday, May 8, 2007

“我们日本人”日文版

同名の投稿の日本語版です。村田先生のコラムは、リンクを貼りましたので、そちらでご覧ください。

村田雄二郎先生がご自身のブログに掲載されていた文章は、興味深いものでした(チベットに関する『教養学部報』からの抜き書きです)。このうち、「大チベット」にかんする疑問や多民族混在の現象に関する分析の仕方は、蕭亮中氏の議論を思い起こさせるものがあります。「民族」という固定観念を取り払うことによって、わたしたちは文化が交錯するより豊かな「調和」的空間を想像できるのかもしれません。中国における民族自治が最終的に目指していたのは、民族差異の克服ということでしたが、それは間違っていないと思われます。しかし、見方を変えてみると、いわゆるトランス・ナショナリズムのポスト近代論は、一方で、別の問題を隠蔽しているように思われます。今日では、少なくとも西側資本主義のコンテクストの中では、トランス・カルチャー、トランス・ナショナリズムは一種ポリティカル・コネクトネスであるかのような気配さえあります。わたしたちは自らの国民的アイデンティティを取り払って、主体的な個人として他者に向き合うべきだとする議論もあります。しかし、仮に体に焼き付けられている「日本国民」としてのしるしを消し去ったとしたら、この国、この民族にまつわる過去を一体どうやって自らの問題としてとらえ直せるのでしょう。この国がまだあの時代から遺された負の遺産を清算し終わっていないときに、わたしたちは本当に近代主義的な「国民」から、ポスト・モダンなトランス・ナショナリズムへと軽やかな飛躍を遂げていいのでしょうか。張旭東氏は、グローバリゼーションに関する有名な北京大学連続講演の際、終始「わたしたち中国人」ということを強調していました。わたしがいわんとしていることは、張氏の意図と必ずしも一致してはいないでしょう。しかし、「過去から期待されている」のであればこそ、「わたしたち日本人」という、この、あるいはすでに古くさくなってしまったかもしれない呼称をもう一度強調するべきなのかもしれないとも思うのです。

No comments: