Tuesday, May 15, 2007

《《读书》十年文选》即出

1996年から2005年までの10年間に『読書』に掲載された論文の数々が、文集(《改革:反思与推进》、《重构我们的世界图景》、《逼视的眼神》、《亚洲的病理》、《不仅为了纪念》、《〈读书〉现场》の計6冊)となって発売されるようです。汪暉氏、黄平氏連名の序文が複数のサイトに掲載されています。『読書』が「読書に禁区なし」をスローガンに創刊されたのが1979年、1999年には20年記念のCD-ROMも発売されました。もうあと少しで30周年になろうというこの時になぜ、とも一瞬思いましたが、現在の『読書』を支えている汪暉氏、黄平氏が編集を担当するようになって10年ということなのかもしれません。今でこそ、同様のクオリティ雑誌(中国で「思想評論雑誌」と呼ばれている類のものを指しています)が多数あり、古い読者の中には、『読書』はつまらなくなったという人も少なくないようです。私自身は読者歴がまだ十年にも満たないので、比較のしようもありませんが。何はともあれ、序文の中にも書かれているとおり、この十年の間に、中国の知的言説を取りまく状況は大きく変わったというべきでしょう。80年代の「文化熱」のことが序文にも触れられていますが、最近のネット上での活発な言論状況を見ると、90年代の「学術史ブーム」のころとはまたすっかり様変わりしたような感慨を受けます。もしかすると、80年代への回帰現象なのだろうか、と思ったりもします(《大国崛起》というドキュメンタリーが物議を醸していたりしますし)。
やはり、90年代後半、いわゆる「新左翼対新自由主義」論争が、注目を集め始めたころから、つまり、正にこの「十年文集」が軌跡を描き始めてからが分岐点なのでしょうか。『学人』が目指そうとしたものは何だったのかが、改めて気になるところではあります。
翻って日本では、「国民投票法」が可決されるなど、時代と個人、正に「勢」と「理」と、そのはざまで生きていくしかない個々人の主体的選択の問題を考えさせる話題には事欠きません。中国の状況については傍観者でいるということが、一方では、何らかの「勢」のなかにコミットさせらている/していることでもあるという意識は、かつての『広場の孤独』(堀田善衞)ではありませんけれど、見落とすべきではないものではあるでしょう。

『読書』ってどんな雑誌?とたまに聞かれることがあります。正直言って、日本に同様の雑誌はないと思います。以前は、『批評空間』かな、とも思いましたが、あのような尖鋭さは『読書』にはないようです。『読書』の中では時事問題は扱われませんが、純粋に学術的な論文もまた掲載されません。時事的な背景を十分に意識しながら、それを敢えて直接語ることなく、思想・文化・学術を論じるという、巧みなバランス感覚がこの雑誌の「肝」だと思います。こういう媒体を支える書き手と読者がいるということが、中国語の言説空間の豊かな広がりを示しているのではないでしょうか。

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