Wednesday, September 12, 2007

电影《季风中的马》

10月6日(土)から岩波ホールで上映される『白い馬の季節』という映画(原題は《季风中的马》)の試写会に招かれて行ってきました。中国内モンゴルの草原(舞台となっているのはバエンノール盟ウラト後旗)で暮らす遊牧民の物語です。内モンゴルでは長いこと草原の荒漠化が深刻でした。荒漠化というのは日本語では一般に砂漠化と言われるものです。「砂漠」というと大きな砂丘がいくつも連なり、見渡す限り草木がどこにも生えていないような光景を思い浮かべるでしょう。ただ実際にはそのような砂漠は、植生が破壊された結果生じたというよりも、サハラ砂漠やタクラマカン砂漠のように、もともとの土壌条件や気象条件の結果そうならざるを得なかった地域であることも多く、短期的な気象変動や人間の経済活動によってもとあった植生が破壊される現象のすべてではありません。そのようなわけで、「砂漠化」ということばよりも「荒漠化」というほうが、植生破壊地域の多様な様相を包括するにふさわしいことばであるようです。この草原荒漠化問題に対しては、さまざまな対策がとられていますが、この映画では、放牧地を鉄条網で囲い込み、遊牧を制限することによって現存する植生を保護する政策が、主人公の遊牧民の生活に致命的なダメージを与えます。遊牧民としての生き方にこだわるあまり、鉄条網設置に携わる労働者と殴り合いの喧嘩をしたり、商売を始めた妻の行為に憤ったりしたあげく、やむなく愛する馬を売り渡してしまった主人公は、酒浸りの生活に陥ります。最終的に彼は、家族と共に遊牧生活に終止符を打ち、町での生活を選びました。
彼らにとって、社会経済生活のかたちがそのまま民族固有の文化アイデンティティにもなっていました。しかし、自然環境と社会環境が激変する中で、アイデンティティは崩壊に直面していきます。この映画のすばらしいところは、こうしたアイデンティティ危機の状況をストレートなメッセージとして伝えると同時に、しかもそれをナショナリズム・ナラティヴに還元していない点だと思います。漢民族対少数民族といった対立図式の上に表象されるよくありがちな語りは、この映画の中では意図的に排除されています。チンギス・ハーンの子孫を自称する鼻持ちならない画家が主人公をモデルとして描いた馬上の英雄は、モンゴル伝統の鎧に身を包みつつ、その下に見えている黒のTシャツには、胸に「adidas」と書かれていました。1990年代後半以降、「社会主義市場経済」体制の下で急速に浸透するグローバリゼーションが、末端の人々の生活に与える具体的な影響の一例として、この映画が描く生活を見るべきであることをこのことは物語っています。それは画家の意地悪ないたずらだったのかもしれません。しかし、「モンゴル」というナショナリティがグローバルな文脈の中でパロディ化を自ら受け入れることによってしか保存できなくなってしまっていることを、この絵はシニカルに表現しているのではないでしょうか。そしてそれは、民族性だけの問題ではなく、すべてのローカル・アイデンティティが共通して直面している現実なのではないでしょうか。
草原退化の原因について、映画は詳しく教えてはくれません。しかし、近年日本にも頻繁に飛来するようになった黄砂の発生源は、実は、この映画の舞台となっている内モンゴル中西部です。原因は複合的ですが、主要なものとしてあげるべきなのは、草原の耕地化であるようです。寒冷な気候では、一年の半分近い時間が農閑期となり、その間放置されざるを得ない農地は表層の土砂が乾燥して、春先の強い偏西風に飛ばされていきます。もう一つの原因は、過放牧です。草原というと、背丈ほどもありそうな草が風に大きくうねりながらなびいているというイメージがありますが、砂質の土壌の上にかろうじて夏の間だけ草が生えているというのが現実で、植生恢復能力は非常に低いのです。しかし、カシミヤ産業を中心に、羊の経済効果が高まり、過剰な放牧が行われるようになりました。主人公の家では、綿羊に混じって山羊も飼われていましたが、山羊はカシミヤ原料となり、経済価値は高いのですが、草の根や木の皮なども食い尽くすので植生破壊の元凶とも見なされ、わたしが住んでいたところでは、放牧が禁止されていました。過剰放牧を引き起こすもう一つの要素は人口増加です。それは、1970年代までつづいた拡大主義の人口政策が今日の中国に残した深刻な負の遺産であるというべきです。
草原退化にともなって、遊牧民の定住化と職業転換が政策的に強化されているというのは最近聞いた話ですが、1990年代までは可能であった遊牧が、なぜ、今になってこのような危機に向き合わなくてはいけなくなったのか、そのあたりの構造がわたしにはよくわかりません。遊牧的経済生活の持続可能性が近年急速に失われていったのだとすれば、その変化を招いた人為的プロセスを明らかにする必要があります。地球温暖化という大きな気候変動プロセスが作用し、その元凶が人間の経済活動であるということは確かにそうなのですが、わたしが知りたいのはそういうことではありません。推測に過ぎませんが、国有企業改革を中心とする市場主義的政策転換の過程で、社会基盤の脆弱な遊牧者の経済生活に決定的なダメージを与える何らかの力が働いているのではないか、草原退化という外部的要因が致命傷に結びつくのはその結果なのではないでしょうか。つまり、グローバリゼーションの影響が、映画の舞台となっている場所では、遊牧生活のサスティナビリティ崩壊として表出しているのではないか、そう疑ってみることが重要であると思われるのです。新自由主義のおそろしいところは、こうして切り捨てられていった人々に対して、無気力とか怠惰とかいう烙印を押しつけ、個人の資質の問題にすべてを解消してしまっているところです。主人公の妻は、過去の遊牧生活に恋々とするばかりで、生計のために必死になろうとしない夫に対して、「向上心も野心もない」と不満をぶつけます。しかし、今日的状況が悲劇的な閉塞性を伴っていると思われるのは、このような人々が社会から分断された結果、孤立した個人としてしか活きていけなくなってしまっていることです。彼らにとって、今ここに活きることの意義はどこに行ってしまったのか、それは、小説『兄弟』があますところなく描ききったカーニバル的喧噪の無機質性にも共通の病となっているはずなのです。
もうひとつ、指摘しておきたいのは、この物語が草原を舞台にした人間生活のエコロジーを描きながら、近代的啓蒙の不可逆的浸透プロセスを巧みに物語っていることです。息子の学費稼ぎが彼らにとっての直接の動機になっているというのはその象徴ですし、主人公とその妻の鮮明な対比それ自体が、「敢えて賢くなる」ことを選択せざるを得ない状況(=勢)に、「男らしく耐えていく」よりほかない19世紀以来のモダンが、草原の遊牧民にも到来したことを告げています。ましてや、このグローバリゼーションの時代に、孤立せざるを得ない個々人がどうやって意義と価値を恢復していくのかという難問は、ウェーバーの時代よりも深刻に世界を覆い尽くそうとしているのかもしれません。
最後に一点だけ不満を。邦訳タイトル『白い馬の季節』は、たぶん中国の配給元がつけたのであろう英文タイトルSeason of the Horseからきているのでしょうが、これはあまりよろしくないのでは?中国語原題は「季節風の中の馬」ということで、時代に翻弄される人の生きざまという主題をよくあらわしているのですが、英文タイトルではそれが転倒してしまっているのではないでしょうか。まあ、これは小さな問題です。映画としてのできばえがどうであるのかはわたしには評価できませんが、真摯に生きたいと願っているわたしたち一人ひとりが、現代に活きるということはどういうことなのかを考えるのにふさわしい、味わい深い物語であることには間違いありません。おすすめです。

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