Monday, July 16, 2007

鲁迅、东欧、拉美,以及日本

『中国研究月報』2007年3月号は特集記事として「いま魯迅をどう語るか」を掲げていますが、その中に、Dennitza Gabrakova氏の「除草できない希望-魯迅の『野草』」という論文があります。巻頭の代田智明先生による紹介によれば、作者はブルガリアからの留学生とのことです。魯迅『野草』をブルガリア語に初めて翻訳した人なのだとか。
東欧と中国近代の思想文化を結ぶ線について、おそらく文学研究の場では常識になっているに違いありません。研究の動向にうとい私でさえ、ミラン・クンデラが大量に翻訳されて、あちこちの書店で平積みになっていることを知っています。たぶん東欧への関心は、歴史的に蓄積されているものなのでしょうが、その歴史は社会主義中国の歴史とともに始まったのではなく、20世紀初頭のころ、つまり、魯迅がバイロン(彼はイギリス人ですが)を語り、ハンガリーの革命詩人ペテーフィの名を挙げていたころにまで遡るのでしょう(『摩羅詩力説』)。考えてみれば、80年代にはガルシア・マルケスや、オクタヴィオ・パス、ひいてはボルヘスのような、ラテンアメリカ作家たちの作品群が中国に大量に紹介されていました。莫言の小説や、李少紅の映画(『血祭りの朝』《血色清晨》)などは、ガルシア・マルケスの影響を強くにじませる代表だと見なされています。
東欧やラテン・アメリカといった、地域の思想文化は、東アジアと西欧を中心にした視座から、ともすれば欠落してしまいかねません。しかし、このような地域の思想文化(これにインドを加えてもいいでしょう)に対して、中国のそれが盛んに共鳴しているという事実は、「近代」というグローバルな進み行きに対するひとつの応答として、おろそかにはできない要素なのかもしれません。

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