Monday, July 2, 2007

香港回归十周年

わたしは中国内モンゴルに短くはない期間住んでいたわけですが、そこは、人口的には多数を占める漢民族を中心にして、モンゴル族や回族、満族、朝鮮族、ダフール族、その他数多くのエスニック・グループが混在して生活している地域でした。
基層と呼ばれる底辺の村落に行くとモンゴル族と漢族との間の不和が残っていて、「綜合治理」などと称する融和政策を展開していました。あれから10年になりますが、その状況は基本的に変わっていないと思います。モンゴル族のなかには、「わたしたちは漢人とちがって……」と、漢人のよくない風俗を揶揄しながら、軽い憂さ晴らしをしている人も多くいました。
そもそも「内モンゴル自治区」でありながら、人口の多数派が漢族であり、そのほとんどが関内(つまり万里の長城の内側)からの移民の子孫であることを思えば、内モンゴルでは「漢化」がもはや後戻りのできないところまで進んでしまっていると言えるわけです。実際モンゴル語を母語としないモンゴル族も多いですし、モンゴル語自体も地域によってはクレオール化が進んでいるように聞こえます。
一方で、そこに暮らす漢族の人々はといえば、何かといえば羊の肉を準備し、酒に興じるとモンゴル民謡(漢語バージョン)を歌うなど、文化風俗の点ではモンゴル式のほうがむしろマジョリティを獲得しているようで、こちらは「モンゴル化」が浸透しています。もちろん、「わたしたちはモンゴル族とは違って……」と、モンゴル族のよくない風俗をあげつらって、自分を高みにおこうとする人も多くいました。

そもそも、ヨーロッパ全体にも匹敵しようかという大きな面積を持つ「中国」という国家がなぜ成立しているのでしょうか。「国家とは合法的に暴力を使用可能な唯一の主体である」といわれますが、そうであるならば、この巨大な地域システムは、暴力の合法的行使主体を数量的に極力減らすことによって成立しているわけで、人口比で見た場合、暴力使用権所有者の数が世界的に類を見ないほど極端に少なくなっていることに注意すべきではないでしょうか。つまり、中国というシステムは、暴力への依存度を極小化すべくして成立している、たぐいまれなシステムだともいえるわけです。では一体どのような力がこの巨大なシステムを支えているのでしょうか。わたしはこれに関する研究があるわけではありませんが、一元的な権力集中メカニズムが強権を発揮して現行秩序を維持しているという仮設は、これだけの面積と人口を有するこのシステムに対しては、さほどの有効性を持っていないのではないかと思います。

田島英一氏は「鼓腹撃壌」ということばを使って、比喩的に次のように語っています。 (『中国人、会って話せばただの人』、PHP新書、2006年)

帝堯は、みずからが天子としての合法性を備えているのかどうかを確認すべく、微服に身をやつして街に出た。そこで耳にしたのが、腹鼓と踏み脚でリズムをとる、老人の歌である。「日出でて作し、日入りて息ふ。井を鑿ちて飲み、田を耕して食らふ。帝力何ぞ我に有らんや」。要は、我々は日々労働し、自力で生きていたいように生きているのだから、お上など知ったことではない、という意味だ。帝堯は、それをよしとした。「鼓腹撃壌」する「民」のイメージは、たぶん、今でも変わらない。このような田園風景のなかで日々を送る民衆にとって、誰が共産党中央の指導者であるか、執政党の階級属性が何かなど、知ったことではなかろう。

もちろん、「鼓腹撃壌」の生活を乱すような力は徹底的に排除されるべきでしょう。田島氏はこう付け加えることを忘れてはいません。

しかしどうあれ、「鼓腹撃壌」の世界において、武器を手に侵入してくる破壊者は、絶対的に悪だ。

ただ一方で、ここに欠落しているのは、皇帝権力の合法性を賦与している「天」はすなわち「公」であるということです。今日では皇帝はもはや存在せず、共和国体制ですから、「鼓腹撃壌」の日常を守るためには、なおさら国家理性の力を借りる権利も必要もあるでしょう。国家が公正と理性を体現している/するべきだという考えは、いわゆる「钉子户」問題のときにも象徴的に示されていました。
わたしが思い出すのは、映画『英雄HERO』が、「天下」のフレームワークのなかでの文化アイデンティティを思考しようとしていたことです。あの映画は張芸謀の失敗作として評判がよろしくないようです。たしかに「天下」の登場のしかたは陳腐に見えるかもしれません。しかし、趙の末裔(章子怡)だけが最後に生き残り、侠客が滅んでいくあたり、この映画もなかなか侮ることができないものだと感じるのは、わたしがオメデタイからでしょうか?

民族自治制度にせよ、特別行政区にせよ、その構想は、あれかこれかという二項対立を超えた「多元一体」的統合モデルの模索であると言えるでしょう。矛盾を含みつつそれを一元的に解消することなく維持発展していくということなのだと思われます。

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