Tuesday, August 21, 2007

上海、苏州之行

上海と蘇州へ行ってきました。短い訪問ですが、その中で驚いたのは、近年日本人の間でも人気のある観光スポット新天地が中国共産党第一回大会の開催地とセットで造られているということでした。建物はすべて、映画に出てくるような租界時代の横町(里弄)風に復元され、それが党大会開催地と新天地とを一体に結びつけているのです。陳思和氏はかつて、近代学術転型によって、知識人は「廟堂の知識人」から「広場の知識人」に変わったと述べました。五四運動は「広場の知識人」が政治社会に決定的な影響力をもたらした象徴的事件でした。1990年代以降の文化現象を分析する戴錦華氏は、社会主義市場経済の時代に入って、「広場」は消費活動の中心的シンボルのシニフィアンに変わってしまったとカルチュラル・スタディーズのことばで語っています。新天地と共産党発祥の地のこうした一体化は、なんともみごとな象徴でしょうか。

蘇州では寒山寺を訪れ、かの『楓橋夜泊』の石碑が兪樾の題詞になることに初めて気がつきました。運転手に詁経精舎を知っているかと尋ねたところ、あっさりとノーの答えが返ってきました。伝統とか文化というものは、こういうところとはちがったところでつながっているということなのでしょう。


去了一趟上海和苏州。在这短暂的访问中让我惊奇的是,近年来受到日本游客欢迎的景点“新天地”和中共一大会址毗邻建造形成着一个整体效果。所建的房屋都复原了租界时代的里弄景观,像是在电影中的风景。这些建筑风格的统一将“新天地”和一大会址连接起来使之产生了整体感。陈思和曾说学术的现代化转型使“庙堂的知识分子”转变为“广场的知识分子”,五四运动标志着“广场知识分子”对政治社会的决定性影响力。戴锦华在用文化研究的理论话语分析1990年代以后的文化现象时说,进入了社会主义市场经济时代后,“广场”变成了消费活动中心的象征之能指。“新天地”和一大会址的这种一体化不由得令人感慨。

在苏州访问了寒山寺,第一次发现那个《枫桥夜泊》的石碑原来是由俞樾题词。我也问了开车司机知不知道诂经精舍,他的回答是干脆的“否”字。传统也好,文化也好,或许都不是以这种方式传承下来的吧。

2 comments:

石井剛 ISHII Tsuyoshi said...

詁経精舎のことを書きましたが、後で振り返ってみるとこれはわたしの勘違いですね。阮元は杭州に詁経精舎を開いたのでした。太平天国戦争を経て、これをもう一度中興し、章炳麟らを育てた兪樾の事跡を思いがけず蘇州で見つけて、すっかり舞い上がっていたようです。

石井剛 ISHII Tsuyoshi said...

其实,诂经精舍并不是在苏州,这是我的误解。阮元当年在杭州开办诂经精舍,后经太平天国战争之后,俞樾重建它并培养了章太炎等晚清名人。我没想到在苏州能见到那么多有关俞樾的事迹,兴奋之余出现了如此偏误。惭愧惭愧。