Saturday, December 13, 2008

后《读书》时代的中国知识圈

「ポスト『読書』時代」という言い方自体が、ここで言いたいことのポイントから少しずれているかもしれません。いわゆる知識人(知识分子)という自称・他称が居心地の悪い、気恥ずかしさを伴う響きを持つようになったのは「ポスト『読書』時代」の現象ではなく、むしろ、『読書』の編集リーダーが交代に追い込まれたのは、その結果であったとも言いうるからです。
1990年代の学術史ブームは80年代の知的エリートの高ぶった啓蒙言説への反省から始まったと言われています。『学人』という刊行物が牽引者としていわゆる「学術規範」を模索的に提示しながら、学術史叙述を試みたのでした。1990年代を通じて、大学におけるディシプリンの分化と専門化が進んだ結果、『学人』は2000年に停刊となりますが、おそらくそのころまでにその役割がすでに終わっていたということなのでしょう。大学内の学術研究の分化・専門化傾向は、「学術規範」のある意味における成熟ということを示していたわけですが、その副産物として次第に顕著になっていったのが学科言説相互の通約不可能性の問題です。そのような中で『読書』は、人文学・社会科学の各分野で活躍する研究者や、小説家・文芸評論家といった文学者たちが、それぞれの知的背景に基づきながら、非専門的な意見を発表する場として、知的論壇を形成していたと言えるでしょう。その意味では、『読書』は知識人たちのアマチュア精神発揮の場として、そのユニークな存在感を維持し続けていたのです。しかし、大学内の業績評定の規格化の流れの中で、『読書』は書き手たちの高度な専門的バックグラウンドと知名度にもかかわらず、学術論文としては承認されず、功利的な閲覧ニーズに応えるべくもないことは、すでにずいぶん前から明らかなことでした。
さらには、このようなアマチュアリズムの発揚の場として、インターネットが大きな力を持つようになったことも重要なポイントです。左派文芸批評の「左岸会館」、リベラリズム論壇の「学術中国」、新左翼系の「乌有之乡」、国学の「国学ネット」、その他、大学人たちが開設しているブログなどが、より自由で活発な議論のプラットフォームとして機能を果たすようになりました。多くの雑誌論文がこれらを通じて次々と転載され、ほとんどの文章がネット上で閲覧できるようになりました。それ以上に特徴的なことには、速度を強みとするネット論文(学術論文の体裁を持ってはいるが、紙媒体には載らないものをここでは指しています)が、インターネット空間を席巻しています。おおむねこのような論文は、書き手にとっても読み手にとっても、アクセスのしやすさが共通の特徴で、短めでわかりやすいものが多く、汪暉・黄平の『読書』が難読であるとの批判を多く受けた背景にも、こうした「スピードの時代」におけるわかりやすさ信仰が作用しているのではないかと思われます。
『読書』の編集トップ交代からすでに1年以上が経過し、新生『読書』はまだ迷走を続けているように見受けられます。かといって、定期刊行物の中から、かつての『読書』のような良質のアマチュアリズムが凝縮されたものがあるのかといえば、私にはよくわかりません。
一方で、知識の細分化・専門化、すなわち秩序化・制度化のもとで、果たして対象が確かなものとして認識できるのだろうか、という自己省察が不断に行われているのも見のがすことはできないでしょう。そのひとつの表れが『開放時代』第6期の巻頭シンポジウム《中国乡村研究三十年》です。農村社会研究に従事する識者たちが最も問題を集中させたのが、如何にして中国を認識するのか、というテーマでした。この視点は、同じ号に掲載されているそのほかの現代史関連の論文にも共通しているものと思われます。シンポジウムの中では、農村研究の基本的な視座として、マルクス主義と毛沢東思想を掲げる声がありました。これは、単に制度的知識の教条を繰り返しているものではないとわたしは思います。毛沢東は対象への知的アプローチにおける実践性と理論性の弁証的関係について、素朴なことばを用いて重要な問題提起を行っていました。そして、その問題提起が相変わらず、というよりもむしろ、このような時代においてこそ益々重要な意味を担っていることを、いみじくも指摘していると理解すべきものだと思うのです。

Monday, November 24, 2008

《和我们的女儿谈话》

王朔といえば、1980年代以降、最もよく知られよく読まれている小説家です。市井の人物像が生き生きと描かれ、その中に時代に対するかなり冷徹な観察や風刺が織り込まれている点がその人気の秘訣でしょう。とりわけ彼が紡ぎ出す諧謔を含んだ軽妙なことば-「调侃」(ことばによるあざけり、からかい)は、彼独特の文体を構成していると言われます。実はわたしは、まだきちんと彼の作品を読んだことはないのですが、彼の作品を改編してつくられた映画、名作『太陽の少年』(《阳光灿烂的日子》)からも、十分にその魅力と才気がうかがわれるのではないでしょうか。これは《动物凶猛》という中編小説からの改編です。
その王朔の近作が標題の『和我们的女儿谈话』(我らの娘たちと語る)です。『読書』2008年第11期の行超《写给失意的得意之作:走进王朔《和我们的女儿谈话》》によれば、語り手の「北京老王」が2034年の北京や中国、ひいては世界のようすを語るという物語。

王朔が描く2034年には、人間が物質的生活の中で突き当たるあらゆる問題は高度に成熟した科学技術によって完全に解決され、人間は「科学技術」が何たるかということすらわからなくなってしまっている。一針の注射で免疫力が改善され、スペースシャトルはエレベーターとして使われるようになる……しかし、科学技術とは反対に、人々の精神生活は極端に混乱した状態を呈している。「憤青」は非物質文化遺産として重点保護を加えられ、紙媒体の書籍を研究することが人類学研究分野における重要課題になり、名声を博した北京映画学院はアジアゲーム大学に変身している、などなど。人間性の危機はますます募り、人と人の関係は想像しがたいほどに疎遠になって、「利用する」ことすら覚束なくなってしまっている。

もちろん、筆者が指摘しているように、これは未来の空想物語と言うよりも、変化する人と社会のありように対する一種の「発掘と遠近法」としての観察と思考であることは言うまでもありません。

王朔は言う、これは「失意の中の人々のために書いた」本であると。しかし、思い通りになっている人々こそなおさら読むべきものだ。なぜならそれは生の本来の姿をはっきりと見せつけてくれるからだ。生活の中には楽しみもあれば、傷つくこともあり、希望もあれば、失望もある。だがより重要なことは、失意の人であれ、思い通りになっている人であれ、皆生きていかなければならないということ、力強く生きていかなければならないということだ。

最後のひとことの背後にある空虚さ、ドライさがわたしにはどうも気になります。筆者が特に言いたいのは、「思い通りになっている人々(得意中的人们)」のほうなのでしょうか。彼らこそが「生きていかなければならない」ことを知らなければならないというのは一体どのような背景と意図のもとで発せられることばなのでしょう?

Monday, November 10, 2008

有关中国农业的讨论

『読書』2008年第10期から。周博《人道的栖居》は低収入都市民、とりわけ、民工として都市に流入してきた人々の住宅問題について、人文学的角度からアプローチしています(“栖居”とは「住まうこと」、つまり後期ハイデッガーの「建てる・住まう・思索する」、「詩のごとく人間は住まう」から来ているということです)。民工の住宅問題をどう解決するのか、という問題の中で、これまで焦点になってきた問題の一つが、民工が集中して住んでいる地域のスラム化をいかに防ぐのかということです。周文では、立場の異なる二つの意見に言及しています。一つは、秦暉氏の主張です。彼は現在都市民としての福利を享受することができないでいる民工は、住宅の供給を受ける対象からも除外されており、にもかかわらず、彼らが勝手に簡易的な住居を建てようとすると、政府による取り締まりを受けることになるといい、民工には「自由も福利もない」のだと述べます。そこで、まずは深圳あたりの都市から、福利住宅の供給はできないまでも、民工に自分で家を作らせることを許す、つまりまちの一角にスラムができることを許容すべきではないか、と提案をしています(新聞記事のコピーをリンクしておきました)。一方、賀雪峰氏は、同じ『読書』2008年第10期に《农业的前途与农村的发展》という文章を発表して、「都市への定住に失敗した農民(都市流入農民の大多数を占めるはずだ)がもう一度農村へ帰ることのできるようにし、都市のスラムに残らせるべきではない」と発言しています。周氏は「人道的な住まい方」はいかにして可能かという角度から、賀氏の意見に賛同の意を表しています。賀氏の主張の基本には、農民が耕作する土地に対する権利を持っているかぎり、彼らが生計のために都市に出稼ぎにやってきて、仮に失敗したとしてももう一度帰る場所が保障されることになる、ということがあります。スラム化を許容するということは同時に土地を手放すことが可能になるということで、それでは改革開放から二十年以上の時間をかけてようやく全国的にほぼ解決を見た「温飽(さしあたって必要最低限の衣食住が確保されている状態)」が、再び揺らぎかねないことになると賀氏は言うのです。周氏は、スラム化によって都市内の貧富二極化が構造化されることによって、深刻な不平等を生み、「人道的に住まう」という原則が満たされなくなるという理由から賀氏に賛同しています。
賀氏の文章は、もともと『読書』2006年の第2、3期と第6期に掲載された黄宗氏の2篇の文章、《制度化了的“半工半耕”过密型农业》,中国农业面临的历史性契机》に対する批判的応答の文章です。
それにしても、時事問題に直結するような社会論が『読書』にはずいぶん多くなりました。

Tuesday, October 28, 2008

三农问题、灾后重建和“三聚氰胺”

『天涯』2008年第5期の周立《极化效应和全球大危机》は、三農問題の複雑さを改めて感じさせる重厚な論文です。グローバル資本主義のもとでは、エネルギー集約型の大規模農業を展開して、農業の産業化を図らなければ競争に生き残っていくことはできないというのが周氏のとりあえずの現状分析です。しかし、そのような農業発展戦略は、誤った発展主義であり、そこにはサスティナビリティーが欠落していると周氏は言います。1990年代の中ごろ、レスター・ブラウンの『だれが中国を養うのか』というショッキングなタイトルの本が物議を醸しました。人口の増加と経済発展に伴う生活水準の向上、その一方での耕地面積の縮小は、不可避的に食糧問題を引き起こさざるを得ないという議論でした。中国国内では、この仮説に対して、当然のことながら強烈な拒絶反応が見られました。90年代後半に国が提唱した農地面積の動態的平衡(どこかの農地を産業向け用地に転用しても、他の土地を農地にもどすことでトータルなバランスを保つ)などはブラウンの警鐘に対する直接間接的な回答の一つだったでしょう。その一方で、21世紀を迎えたころから強調されるようになった、都市化率向上の政策は、多くの地方都市で急激な土地バブルを促しましたし、周氏の言うように、GDP至上の地方行政評価システムのもとでは、中央の耕地保護政策がなおざりにされてしまう現実を変えることができません。周氏の主張は悲痛なほどです。

イエス・キリストが言う狭き門は、天国の福音を信じるということだった。しかし、農業モデルということに限って言えば、この狭き門とは、人力と畜力による小農耕作を少しずつ恢復し、ここ数十年の間に形成されてきた農業の石油、化学肥料、農薬に対する依頼を少しずつ減らしていく、ひいては断絶するということだ。しかし残念ながら、そうした一部の巨大な近代的大型機械にもとあった運営モデルを停止させ、小農耕作モデルに服従させるということはほとんど不可能だ。だから、わたしたちは、この門は狭き門であるといわざるを得ない。資本が世界を引っ張る今日、それは不可能に近い。

周氏が批判しているのは、資本主義だけではありません。社会主義モデルにおける農業近代化建設も同様の問題をかかえていたことを、氏は朝鮮(北朝鮮)における農業の疲弊を例に挙げて説明しようとしています。今日の飢餓状況は、原油依存型の機械化農業が立ちゆかなくなってしまった結果なのだと。

一方、同じ号の巻頭に掲げられたノンフィクション、野夫《废墟上的民主梦-基层政权赈灾重建的追踪观察与忧思》は、「五・一二」特集の続きですが、この中では、農村における人心の疲弊が「基層」(末端行政単位)被災地の問題を複雑化している事例が報告されています。人心の疲弊がなぜ生じたのか、野夫はこう言います。

わたしたちは次のような事実を認めなければならない。今日の郷村社会では、たとえ党組織がこれまでどおり、基層の村組織にまで発展してきたとしても、相変わらず農民に共産主義の理想や社会主義の道徳を声高に述べたところで、基本的にはそれは教条主義であり、実効は乏しい。郷村社会で世代を超えて伝えられてきた栄辱観とかしきたりなどが、当時の「社教」、「破四旧」など極左運動に粉砕されてしまったあとには、新しい価値観がずっと生み出されないままなのだ。農民の権利に対する長年にわたる差別や無視の結果、貧しい人々は往々にして、真っ先に経済的な損得を考えるよう迫られるようになり、道徳的な良し悪しは考えなくなった。

「基層民主」と中央の政策との板挟み状態にある基層政府の苦悩を描き出した後、作者は郷村コミュニティの精神的紐帯を恢復する試みを取り上げつつ、そこへの期待を露わにしています。そこには、宋代以降に見られるようになった「郷約」や、20世紀前半の梁漱溟らの農村自治運動のイメージが重ね合わされています。
考えてみれば、中国国内のみならず、近隣諸国・地域にまで広がった「メラミン」混入事件もまた、酪農の産業化がもたらした災害でした。中国では酪農が盛んに行われている地域が相対的に少なく、いかにして牛乳や乳製品を巨大な国土全体に安定供給するのかというのは、たいへん難しい問題です。成分管理をせざるを得ないのは、そのような中国乳製品市場特有の事情があるからです。しかし、個人酪農家からの原料乳仕入れをやめて、生産段階から酪農企業が一括した生産・出荷管理を行えばそれで解決されるということにはおそらくならないでしょう。それでは、個人酪農家の活路を絶ってしまうことになりかねないからです。ましてや、乳製品製造企業を支えている彼ら個人酪農家たちの多くが、草原での牧羊生活を離れて、新しい集落で酪農に特化された生計を営んでいるわけです。
野夫は「刁民」(狡猾な農民)増加の事例を、個々の倫理性の問題としてではなく、より大きな社会体制の問題として考察しようとしています。小農経済からの訣別を果たすことによって1980年代以降今日に至る発展と繁栄が得られたのだとすれば、その代価が計量されるのはまだまだこれからのことなのかもしれません。

Monday, October 20, 2008

记忆五一二

5・12地震発生後、このブログでも目立つところにリンクを貼り付けておいた、日本赤十字の義捐金受付サイトが閉鎖されていました。このところ、中国の報道でも取り上げられることが少なくなってきたようです。メディアの関心が移ろいやすいのはしかたがないとしても、むしろ復興がたいへんなのはこれからのはずです。
手前味噌になりますが、わたしが所属している東大東アジアリベラル・アーツ・イニシアティヴ(EALAI)では、夏学期に自然災害と社会をテーマにした連続講義が行われました。
こちらから講義概要と学生アンケートが掲載されているページにリンクできますのでどうぞ。

本博客在“五·一二”地震的消息传来之后不久,就设置了日本红十字会招募捐款网站的链接,前两天偶然发现该网站已经关闭了。中国国内的相关报道最近好像也少了起来。媒体关注的对象随时转移,大概是没办法的事情。但灾后重建工作却在往后愈加重要。
我所奉职的东京大学“东亚教养教育创新组织(EALAI)”上学期组织了以自然灾害与人类社会为主题的连续讲座。由此可进入该网页查看讲座梗概和答问集。

Friday, September 26, 2008

以共生为目标的中国哲学(研讨会)

以“以共生为目标的中国哲学:与台湾学者的对话”为题,7月21日举办的研讨会纪录在UTCP(东京大学国际哲学教研中心)网站可以看到。请点击此处

「共生のための中国哲学:台湾研究者との対話」というタイトルで7月21日に開かれたシンポジウムの記録がUTCPのサイトで見られるようです。ここをクリックしてください

Tuesday, September 23, 2008

面对“五一二”

オリンピックを経て日本ではすっかり忘れられてしまった感がありますが、「5・12」とは、四川省汶川で未曾有の大地震があった日のことです。例えば「范跑跑」をめぐる賛否あい乱れる議論の応酬のように、メディア上、ネット上では地震という自然現象の社会的・文化的意義に関して、さまざまな意見が表明されています。ちなみに「范跑跑」というのは、生徒たちを置き去りにして真っ先に教室から逃げ出していったと自ら公言した中学教師に対する揶揄を込めたあだ名です。日本でも紹介されていました。しかし、この教師を非難する言論だけが集中したわけではなく、それを弁護する声がたくさんあったことが、むしろ今回の特徴であるかもしれません。これは中国社会におけるモラルハザードの問題ではなく、英雄主義的表象のメディア作用をめぐって本音の議論を提供しているという点で注目すべき問題なのです。
さて、『読書』2008年第8期は、《笔谈:面对“五一二”》と題して、4篇の長短異なる文章を掲載しています。「筆談」という題目が示すとおり、これらは問題を十分吟味し整理したうえでまとめられた完成度の高い文章というよりも、速度を大切にしたものです。これは以前の『読書』にはなかった傾向です。汪暉・黄平時代の『読書』は時事問題から距離を置くことを主眼にしていましたので。
4篇はそれぞれ、杨早《媒体报道与公众心理》、杨子彦《从“人定胜天”到“众志成城”》、吴真《宗教仪式与灾后心理治疗》、周瓒《大地震与文学表达》です。周文はネット上にありましたので、リンクを貼り付けておきます。このうち、文章としての完成度が高いのは楊早氏のものです。今回の地震報道は情報の公開性に大きな特徴があったというのは日本でも知られているとおりですが、楊氏は新中国始まって以来とも言える「自由な報道環境」ゆえに様々な問題が生じたことを分析しています。それは主に「災害取材や心理ケアの訓練を受けず、物資の準備も不足していた記者が被災地に入ることによって、被災地の負担を大きくしたこと、記者の一部に見られた軽率で粗雑なやり方が被災民に「二次傷害」を与えたこと」に代表されるといいます。楊子彦氏の文章が示しているように、中国の災害報道の主旋律が「団結の力」を鼓舞することにあるというのは、報道の自由化のもとでも「規定の動作」でした。楊早氏は、主要メディアの果たすべき機能として、①伝達、②安撫、③批判の三点を挙げ、前二者に比べて③が弱かったと分析しています。

彼らは大量の画面や写真によって被災前の美しい山間都市の姿を回憶し、生存者の涙や嗚咽を撮影し、次々に登場する感動的な出来事を賛美したがっていた。その一方で、なぜ学校がほかの建物よりも崩壊がひどかったのか、被災地では強盗や管理の不適切といった状況が生じなかったのか、被災地での物資分配にはどのような困難が生じたか、ボランティアの無秩序な活動はどんな悪影響をもたらしたのか、被災地の底辺自治体はどのように運営されていたのか、といったことを自らの有利な立場やメディア資源を使って市民に問いかけようとはしたがらなかった。(中略)もちろんすべての市民がこのような事実について問いただしたいと思っているわけではない。災害の巨大さ、死傷者の惨状、感動的な救援などは全国の市民の心に大きな憐れみと無力感を喚んだ。多くの人はこうした中で、理性を失ってでも、すべてを被災地と被災民への関心に向けた。(中略)市民が災害の前で見せたある種の熱狂は、実は彼らの内心にあった大きな憐れみと無力感の発露であった。こうした発露は募金活動や被災地再建への参加によって、またはネイション・ステイトへのアイデンティティや集団への帰属感へと転化することによって完成するだろう。その点ではメディアの報道は市民たちがこのような転化を完成するのをうまく手助けした。しかし、もう一方では、多くの市民たちは心の中で、社会全体が災害の中で一致した道徳規準を持つことを求め、市民の強い思いは正常な社会秩序に対してある種の損害をもたらしさえもしたのだった。

呉真氏の文章は、被災地での「心のケア」の問題について、仏教や道教といった民間に根ざした宗教によって対応できるのではないかという提案を、台湾や香港での類似の事例と比較しながら試みたものです。
被災文学の登場については日本の新聞でも取り上げられていましたが、むしろ、文学表現の無力さと失語状態の前で逡巡する職業作家たちの声なき声のほうにこそ着目すべきであるかもしれません。そういう意味で周文は興味深いものです。

わたしが読んだものの多くは地震について書かれた詩歌であり、そのどれもが呻吟の類に属している。さまざまな詩のサイトは、地震のために詩を書くこと、犠牲者に哀悼を示し、生存者に愛情を示すこと、生き残った人々の驚愕や悲痛さを高らかに表現することなど、色々と呼びかけている。それらが呻吟の作であるということは必ずしも作品の価値をおとしめるためばかりではなく、ただ、それらの役割は慰めにしか過ぎないということを言いたいのだ。(中略)今この時に、もし沈黙でなく、まだ何かを表現したいという場合に、傷痕スタイルの文学表現をとるしかないのか、という問題は、もの書きを多かれ少なかれ試すものである。ネット上の少数の佳作は、地震の悲惨さが生存者たちにもたらした衝撃についてかたり、現実の複雑さの全体像や文学表現そのものの問題に触れている。現実の複雑さを表現すること、それは詩歌の題材が災難が人にもたらした衝撃や死者への哀悼、祈りであるのみならず、地震によって引き起こされた一連の社会問題について書くことをも含んでいるということを意味する。したがって、詩はただ抒情的なものであるだけではなく、深い省察や責任、表現そのものに対する反省でもあるのだ。(中略)したがって、わたしは南方のメディアが言うところの「地震が詩歌ブームを巻き起こしている」といった論評に与するものではない。

『天涯』は最近2期にわたって、地震をめぐって、冷めた語り口によるルポルタージュ調のノンフィクション作品を複数掲載していますが、それらもこうした見方に共通するものと思われます。いったい巨大な災厄の中で文学はなにができるのか、なにをすべきなのかという問いを自ら問いながらその答えを実践の中で探していこうという姿勢がこれらの中には一貫しています。

Thursday, September 18, 2008

冬学期・多民族交錯論Ⅰ

本课程冬学期根据已公布的教学大纲将研读康有为《实理公法全书》以及王国维《释理》等文章。晚清时期知识话语积极吸收来自西方的诸多观念和思想。我们要通过分析其中对“理”观念的独特运用和新阐释,对传统话语内涵变化和延续相交的复杂演变过程加深了解。我们带着这种问题意识来一起研读相关文章,以期提高同学们的阅读翻译能力。
具体事宜将于第一堂课进行详细介绍,欢迎研究近现代中国文史哲的同学们踊跃参加。教学大纲(冬学期部分)贴在下面,供参考。

冬学期は、清代以降の文言文に対する読解訓練を行なう。他者の言語文化との交錯という政治的現象が固有の知的ディスコースをどのように揺さぶっていったのかを分析する手がかりになるような、比較的短い文章を適宜選ぶ。参加者はそれを正しい現代中国語の発音で音読するとともに担当箇所の全文を日本語に翻訳することが求められる。また、議論参加の積極性が求められるのは夏学期と同様。教材は授業中に指定する。

Tuesday, September 16, 2008

中国哲学研究第23号目录

东京大学东亚思想文化研究(前中国哲学)专业博士生所办学术刊物《中国哲学研究》第23号现已刊行,欢迎选购。其目录为:
新田元規「君主継承の礼学的説明」
田中有紀「北宋雅楽における八音の思想-北宋楽器論と陳暘『楽書』、大晟楽」
倉本尚徳「南北朝時代における『大通方広経』の成立と受容-同経石刻仏名の新発見」

《中国哲学研究》网站请点击此处

Wednesday, August 20, 2008

《三峡好人》:变化的"静物”

贾樟柯《三峡好人》(『長江哀歌』。《任逍遥》の場合もそうでしたが、日本語訳タイトルにはやはり首をひねらずにはいられません。「好人」、つまり「いい人」ということばの意味深長さは作品を見ればひしひしと伝わってくるはずですが。)がすばらしい映画だということは以前から聞いていましたが、夏休みになってようやく念願がかないました。この映画にはStill Lifeという英題がつけられています。つまり「静物画」。賈氏自身はこれについて、

三峡を訪れたときに物質に対するある種の関心が再び呼びさまされたからです。三峡のふつうの住民たちのうち、多くの世帯はとても貧しいのです。

と解説しています。「物質に対する関心」は、ダムの底に沈むために取り壊されようとしている町の姿そのものが、饒舌なほどに存在感を示しているのですが、所々に、唐突にあらわれてくる小物たちが印象的です。それは、「たばこ」、「酒」、「茶」、「あめ玉」なのですが、それらがさりげなくあらわれてくるカットには、中国語でそれらを示す名詞「烟」、「酒」、「茶」、「糖」が英語のルビつきで浮き上がってきます。これらの「物質」は、現代中国の日常諸儀礼には欠くことのできないものばかりで、人と人との関係を媒介する重要なアイテムです。
ところで、上の引用は、『読書』2007年第2期の巻頭に掲載された座談会(《《三峡好人》:故里、变迁与贾樟柯的现实主义》)からのものですが、この中で、汪暉氏と崔衛平氏のやりとりがおもしろかったので摘録しておきます。

汪暉:わたしが述べたい二つめの問題は、変化とセレモニーについてです。韓三明が演じた人物は女房を買った、と言ってもそれは非合法の売買結婚で、女房に逃げられてしまう。16年後に彼はこの女房を探しだして、まだ会ったことのない娘に会いたいとやって来たのです。趙濤が演じた人物はひともうけしようと単身三峡にやってきた夫を探しにやってくる。彼らの場合は学歴があって自由恋愛の末結婚しています。この二つの「探す」物語はちょうど正反対ですね。愛情を保ち続けられたのは非合法な結婚で、自由恋愛から始まった方の婚姻は逆に何も残せなかった。賈樟柯の映画の中心的テーマは変化なのです。(中略)さまざまなナラティヴの要素は変化をめぐって展開しています。故郷はまさに喪失しようとしており、結婚、近隣、親戚友人などの関係も変わっていく。こうした変化というテーマ、もしくは不確実さというテーマには、変わらないもの、確実なものに対する追求が伴われています。しかし、結局のところ、見つけられたものもまた変質してしまっている。「見つかる」こと自身が自己否定になっている、言い換えれば「探す」ことは自己否定のあり方になっているのです。(中略)「たばこ」、「酒」、「茶」、「あめ玉」という四つのモチーフ、それらは儀式の道具であり、人々の関係を「物」のかたちで表現しているものですが、そうした人間関係の中で、「物」は物自身であることを超越してしまうのです。売買結婚は金銭を媒介として行われますが、韓三明の最終的な決断はと言えば、山西の炭鉱に帰って金を稼ぎ、16年前の女房を取り戻すことだったのです。金を稼ぐことは愛情を保つための努力になったわけです。こういうところに、わたしたちの時代のマジカルな性質が深く表現されています。
(中略)
崔衛平:わたしの考えは違います。直接的に描くという場合、それが具体的にどんな対象に対して行われているでしょうか。映画の中での「人」に対する表現と「物質的対象」に対する表現とは別物です。「物質的対象」を表現するには、わたしたちは直接的に描くことが必要です。まるで、対象が直接わたしたちの前に顕現してくるようなかたちで。ただし、「人」を表現する、つまり、人物の運命を表現する場合には、より深く、周到に理解した上で作り上げなければなりません。(中略)「物質的対象」、例えばさっき述べたような廃墟の光景を表現するには、「事実」に対する基本的な態度が必要ですが、人物を処理する場合、そこで処理されるのは人物間の関係であり、そこには社会関係も含まれてきます。この「関係」とは断片的な事実とは異なるのです。もちろん、売買結婚のあとそこにとどまり続けたいというような「事実」もあるでしょう。しかし、「関係」という点からいうと、社会全体の大きなコンテクストのなかにおいてみれば、つまり、解釈的にみるならば、売買結婚に未練を残すというのは正しくないのです。というのは、とにもかくにも、社会的関係からいえば、売買結婚は認めがたいものだからです。このような表現のしかたは、売買結婚における女性の気持ちを無視しています。(中略)映画の中の二つの結婚に関する処理は、女性の本当の気持ちを無視したものであり、女性が結婚生活の中で体験したものを比較的無視しています。彼女たちは長い間寂しい思いをしたり、絶望的に待ち続けたり、あるいは、「物」として売り買いされていっているのに、何ら苦痛を表に出すこともなく、男たちの前でつねに冷静で落ち着いた、決してトラブルメーカーにならない存在としてふるまっています。ここには問題があると思います。
(中略)
汪暉:婚姻関係と男女関係はトータルな社会変遷の深さをセンシティヴに反映しています。『三峡好人』の中では、売買結婚と自由恋愛が何とひっくり返っているのです。でもこれは売買結婚に対する肯定でしょうか。愛情を裏切ったことへの寛大なのでしょうか。わたしはそうではないと思います。これは社会変遷に対する問いかけなのです。賈樟柯の叙述の中で注意するべき点が二つあります。ひとつは彼の動機です。つまり、ふつうの人にとって、この変遷は、すでに始まっている三峡ダムの工事と同様、既定の現実であり、それを肯定しようと否定しようと、変遷はもうとどまることがない。しかし、生活はそれでも続けていかなくてはならないのです。こういう状況は中国の現実をめぐって知識界で行われている論争とは全く違っています。知識人たちはこの変遷に明確な方向性を与えたい、このプロセスの全体に介入していきたいと思っていますが、ふつうの人々にとっては、変遷の中で自分の態度や位置をはっきりさせて、自分に属する生活を探し求めなければならないのです。彼らは、変化は一人一人の生活の中にあるということがわかっています。彼らは自分の生活の中で決定を下すことしかできません。そうしなければ、変化の中で自分の未来を探し当てられないのです。
(中略)
崔衛平:現実の「既定性」が前提となるという話なら、わたしの心配はもっと深くなりますね。その危険性は、存在しているものこそは理にかなっているのだ、という方向に導かれていくということです。もちろん、中国の現実は何らかの段階にとどまっているはずがなく、前に進んでいかなければなりません。しかし、前に向かって進むと同時に、「批判」という次元を加える必要があります。すでに「現実」になってしまった何らかのものを継続的に批判していく、こうした「現実」が形成されてくる条件や前提を批判していかなければなりません。現実を受け入れると同時に、そうした現実を生み出した不条理な原因まで受け入れてしまうというのではないのです。

人は「物」を媒介にして生きているといっても、「物」を取りまく「関係」はつねに可変的、流動的であることが「たばこ」、「酒」、「茶」、「あめ玉」には象徴的に表現されています。そして、より大きな「物」としての都市や社会もまた、不変なものではあり得ず、歴史の中でつねに形を変えていく。それは、人為的な行為でありながら、人々はそれに翻弄されていかざるを得ません。汪暉氏が「知識人」と「ふつうの人」とは違うといっていますが、実は「知識人」すらもそのような変化の波の中では受け身たらざるを得ないということ、そして、そのような歴史の勢いの中で、「知識人」たるが故に深刻な苦痛を味わった時代があったことを知らない人はいません。「礼」は中国の儒家伝統の中では、「法」に近い実践的規範であったという議論があります。しかし、本当にそうなのでしょうか。さまざまに形を変えていく諸々の複雑な「関係」の中でしか、「物」はあり得ないのだとしたら、そうした「物」に関係を象徴させる「礼」の普遍的な規範性はいったいどうやって担保されるというのでしょう?これは、崔氏の汪氏に対する批判の要点をなすアポリアにつながっていると思われます。もちろん、汪氏はこの点で崔氏の批判を否定しないでしょう。「現実が形成されてくる条件や前提に対する批判」は『現代中国思想的興起』の主題に直接つながってくると思われるからです。

Saturday, August 9, 2008

贾樟柯《任逍遥》

前不久,我才看到了贾樟柯的《任逍遥》。在日本,以《青の稲妻》为题于2002年早已公映的这部影片,我以前却不知道,想来有点惭愧。我虽不知道为什么译为如此题目,但其与源自《庄子》第一篇《逍遥游》的原题毫无联系,总让人觉得很遗憾。剧中人物都夹在产生于改革开放之后的巨大体系性缝隙之中活着,其生存看上去似乎很“逍遥自在”,他们也希望活得更“逍遥自在”,但实际上,都被牢牢地镶嵌在特定的境况之中,而沉淀于绝望之中。毋庸讳言,全球资本主义的进程给中国社会带来了剧变,而其最为凸出的表现便是城乡分化问题(或曰三农问题),这已经是广为人知的事情了。然而,这部影片描绘出一些城市青年人的生活。他们在长途汽车站的周围茫无目的地过着得过且过的颓废日子。她们当中,也有为企业宣传其商品的舞女,也有几个男青年,其中有一个小伙子,他的单身母亲正面临着下岗危机(事实上后来真的被迫下岗),连起码的生活费都挣不到。如我以前所谈,这些生活在城市边缘的年轻一代人亲眼目睹了既存的价值体系因社会的急剧变化而全盘崩溃的过程,他们在经济上、精神上的危机应该是相当深刻的。故事的舞台-山西大同这一典型的中小城市以前都在社会主义工业化模式的主导下建设起来,而我想,恰好在这些城市里,年轻人的此种危机应该最为凸出。毫无疑义,影片中的世界肯定遍布在整个中国,尤其在西部地区(和东北地区)。这部作品赤裸裸地表现了他们的深刻困惑,仅在这点上,已经可以说是一部杰作了。也在这个意义上,不能够将日本经济高度增长时期常见的以产煤城镇为舞台的青春故事片与这部影片相提并论。除了这部片子和《世界》之外,我尚未看过贾樟柯的作品。其实,这次我看《任逍遥》纯属偶然,本来想借一盘《三峡好人》看看,可惜,已被借走了,不得已借了这盘而已。不料,观后却受到了看《世界》的时候没有受到的强烈震撼。不知道以前的中国电影界中有没有一个作者能像他那样直盯着此时此刻的现实而将它升华为电影叙事?

Wednesday, August 6, 2008

贾樟柯《任逍遥》

遅ればせながら、賈樟柯の《任逍遙》を見ました。日本では『青の稲妻』という題で2002年に上映されていますが、わたしは恥ずかしいことにそのことを知りませんでした。邦題がこのようになった経緯は知るよしもありませんが、『荘子』第一篇の「逍遙遊」から得られた原題を生かすことがなかったのはもったいないことです。劇中に登場する人物たちの生は、改革開放路線の結果生じた、巨大なシステムの空隙の中で、一見「逍遥自在」であるかのように見えつつ、そして、「逍遥自在」に生きていきたいという願いを持ちつつ、実際には、絶望的なまでに状況の中にはめ込まれてしまっています。グローバル資本主義の進み行きの中で中国社会が激変していることはもはやいうまでもなく、都市と農村の格差(三農問題)として、それがもっとも深刻なかたちで表面化していることは、すでに広く知られているところです。ところがこの作品が描き出したのは、長距離バスターミナルの周辺で、あてもなくその日暮らしの頽廃的な生活をしている都市の青年たちです。彼らは商品宣伝のキャンペーンガールであったり、レイオフの不安にさらされながら(事実その後それが現実になってしまうのですが)、満足な生活費すらも得られないシングルマザーの息子であったりするわけですが、以前にもここで書いたことがあるように、急速な社会変化の中で既存の価値体系がことごとく崩壊していくのを目の当たりにしてきた彼ら都市周縁の若者層の経済的・精神的危機は、おそらく相当深刻なはずです。そして、それがもっとも突出しているのは、この作品の舞台になっている山西省大同市のような、これまで社会主義工業化モデルの中で建設が進められてきた典型的な地方の中小都市なのではないでしょうか。この作品に描かれた世界は、中国に、とりわけ西部地区(それと東北地区)にまちがいなく遍在しています。そして、この作品は、それを赤裸々に描ききったという点で、見事というほかありません。この意味で、日本の高度成長期によくあったような炭鉱町での青春物語(大同が有名な石炭の町であることは中国に関心のある人なら当然ご存じでしょう)とこの作品を同列に並べることは不適切です。わたしは贾樟柯の作品はまだ『世界』を見ただけです。今回も『三峡好人』を見たかったのですが、レンタル中でしたので仕方なく《任逍遥》を借りたつもりでした。ところが、『世界』からは受けることのなかった強烈な衝撃を思いがけず受けることになりました。彼のように、今ここにある現実を淡々と、目を背けることなく物語化し得た映画作家は、これまで中国映画界にいたでしょうか?

Sunday, July 20, 2008

李昌平“我向日本朋友说实话”

《我向总理说实话》以来、三農問題の代表的論客として内外に名を知らしめた李昌平氏の講演があったので、聞いてきました。李氏は郷鎮レヴェルの党指導者として湖北省の農村行政の第一線に立ち続けてきたということで、農民の代表という風に取り上げられることが多いのですが、実際には大学(大専?)の学歴を持って農村に赴任し、その後学士、修士の学位を取得しています。したがって、在野エリート、もしくは「草の根」エリートといったほうがふさわしいでしょう。李氏のブログを見つけましたのでリンクしておきます。
李昌平的博客
さて、講演の骨子は次のようにまとめられるでしょう。
1 1980年代の農村経営は比較的成功していた。その原因は大きく二つ:第一に、生産責任制のもとで農民の積極性が解放された。第二に、郷鎮企業の発展により、農村/都市間を有機的に連結する市場が自発的に形成された。
2 1980年代末から始まった農村経営に対する中央の政策変化が1990年代に「三農」の深刻な疲弊をもたらした。それは、郷鎮企業に対する租税徴収の強化、さまざまな税や負担金の増加、グローバル経済への対応、などの側面に起因している。
3 2000年代に入って、三農問題対策が国家的課題となり、1990年代までの問題には緩和の傾向が現れたが、新たな問題が生じている。それは、国際的な原油価格・食糧価格の急上昇、ドル高元安といった情勢の中で、国内食糧価格が政策的に抑制されていることだ。
4 三農問題に対する抜本的な解決案として、農民(農村戸籍)を持つ人々に適正な「国民的待遇」を賦与すること、食糧価格を引き上げることによって農民の収入状況を改善することが必要。
5 グローバル経済は米ドルベースのアメリカ一極主義であり、アジア域内経済関係を強化することによってその衝撃を緩和しなければならない。
6 実はある意味で中国の政治体制改革は、経済体制改革よりももっと徹底している。今日の人民代表は資本家が中心となり、かつての主役だった労働者・農民はほとんどいなくなってしまった。


さて、これらの主張は基本的にはどれも肯けるものばかりです。とくに、1950年代以降の、工業建設中心に経済建設を進めるという「近代化」基本政策の習慣思考が今日もなお強固な支配力を持っているという指摘(はさみ状価格差“剪刀差”)は、中国的モダニティに対する評価としても重要でしょう。
しかし、今回の講演のメッセージとしていちばん重要なのは、中国の三農問題を国内問題ではなく、グローバル市場のもとでの資本主義の問題として再整理しようとしていることです。グローバル市場の中で輸出依存型経済発展を強いられている今日的状況の下では、労働力価格の不当な抑制の代価の上で、商品輸入国が最大の受益者となっている。この構造は中国の近代化路線と同様のものだ。しかし、三農問題のこれほどまでの深刻化が示しているように、中国ではこの路線はすでに破綻している。したがって、今日のグローバル化の末路はすでに見えているのだ、と李氏は主張するのです。

Tuesday, July 15, 2008

西藏·全球化·资本主义

『現代思想』7月臨時増刊「総特集:チベット騒乱」には、「三・一四事件」と呼ばれるチベットでの暴動を冷静に分析する文章が数多く掲載されています。巻頭に寄せられたパンカジ・ミシュラ「モダニティというユートピアとの戦争」(福田将之訳)は次のような問いかけから始まっています。

ラサで反乱を起こしたひとびとが中国政府ではなく、漢民族系の移入者に襲いかかったということは、どうでもいいことなのだろうか。中国当局はどちらかといえばそれまで抑制的な姿勢をとってきていたということは、度外視してもいいのだろうか。中国の中産階層のチベット人少数民族に対する反感は、わたしが先週中国にはいったときにも感じたように非常に大きなものとなっているが、その陰で、中国政府の反応は慎重なものだという点は、考慮しなくてもいいのだろうか。

わたし自身、このたびの騒動はテレビや新聞で報じられているのとはまったく異なった背景のもとで分析されるべきだと考えていますので、彼らの文章には肯ける点が多々含まれています。ミシュラ氏は言います。

中国にとっては、自分が消費資本主義とファウストのような契約を結んで魂を売ってしまったために、根っこを失うことになった数億の不運な中国人のほうが、チベット人たちよりも政治的には重要であった。

漢民族の移入者を襲うチベット人、というテレビで放映される映像は、中国沿岸部の富裕な都市に住む中産階層のナショナリズムに火をつけた。「恩知らず」のチベットに対する強硬な弾圧を支持している裕福な中国人の姿は、デリーやムンバイで、警察に向かって、立ち退きに抵抗するひとびとを「叩きつぶせ」とけしかける中産階級のテレビコメンテーターとよく似ている。この声からも明らかなように、今日ほどに市場原理によるグローバリゼーションが、富裕で教育程度の高い受益者に、貪欲で獰猛な文化を教え込むことに成功している時代もないのである。

このたびの問題を冷戦時代のイデオロギー対立構図の延長と見ることは、とりもなおさず、ポスト冷戦時代のグローバル資本主義と脱政治化の趨勢を側面から支援・強化するものではないでしょうか。ラカン主義のカルチュラル・スタディーズ批評家ジジェクが次のような警句を発しているとおりです。

おそらく、われわれが中国の活仏転生についての法案をかくも突飛に感じるのは、彼らがわれわれの感受性に対する異物であるからではない。そうではなく、われわれが長いあいだ行ってきたことの秘密を、彼らが吐き出しているからだ。自分があまり真剣に受け取らないものには敬意を払って寛容に接し、その政治的諸帰結に関しては、法を持って抑えつけようとするという秘密を。(「中国はいかにして宗教を獲得したか」、松本潤一郎訳)

敢えて言うならば、これらの論者たちは相変わらず漢-チベットの二元論的構図から解放されていません。それでは問題は彼らの意図を離れて、ほかの言説に絡め取られる恐れがあります。そして、そこにはデモクラシーの名を借りたポピュリズムも潜んでいることでしょう。マルクス主義を標榜する政党が国家を支配しているということは、単なる看板の掛け替え忘れなのではなく、多民族共存原則のような価値理想を自らの正統性言説の中から引き出し得る可能性をたとえわずかでもつなぎ止めているという点は無視できないものと思われます。

Friday, July 4, 2008

期末办公时间

7月授業終了後のオフィスアワーを以下のように設定しました。来訪される前に電子メイルでご一報くださればなお確実です。
7月11日(金) 14:40~16:10
7月17日(木) 10:40~12:10
7月18日(金) 10:40~12:10
7月24日(木) 10:40~12:10
7月25日(金) 10:40~12:10

《启蒙的自我瓦解》

大学院の授業で一学期間講読してきた许纪霖/罗岗等著《启蒙的自我瓦解:1990年代以来中国思想文化界重大论争研究》(吉林出版集团有限责任公司,2007年)は、1990年代の中国知識界で争われてきた諸問題を論争史という枠組みで俯瞰しようとした力作です。「知識界」という言い方は日本語として馴染まないものであるかもしれません。この本のテーマ(啓蒙の自己崩壊)自体、編著者たちの「知識人」たる自負がいかに強いものであるかを示しているとも言えるものです。おそらく、これは中国の知的土壌のなかで、士大夫意識がいまだに作用し続けているということを示しているのでしょう。
この本の最も優れた点は、巻末附録として、詳細な文献リストを載せているところです。これらを追っていけば、1990年代の中国で自他共に知識人と見なされている人々がどのような発言をしてきたのかがほぼ全体的に把握できそうで、たいへん貴重な同時代史資料集になっています。幸い、中国語のネット空間では学術資料のデータベース化がたいへん進んでおり、ことにこの本が言及する論文はここ20年来の新しいものばかりですので、簡単に入手できます。卒論や修論で今日の中国における思想状況をテーマにする場合には、恰好の手引き書になるはずです。
もちろん、いわゆる「新左派対新自由主義」に最も端的に代表されるように、論争の複雑な多元性を無理矢理二元論に還元してしまうこと自体の暴力性や政治性、そしてその結果もたらされるであろう議論自体の不毛化のおそれをこの書物が完全に逃れているとは言えません。しかし、議論の明確化のために、いったんこの使い古された(政治的な)図式を受け入れつつ、内部の複雑さと多様さを、論争の内包する豊かさと可能性の方向において論じきろうとする姿勢が顕著に見えている点は評価すべきだと思われます。

Wednesday, June 18, 2008

汪晖的“去政治化”论文

在偶然的机会浏览到了去年我所翻译的汪晖论文《去政治化的政治、霸权的多重构成与六十年代的消逝》(日文版称作《中国における1960年代の消失:脱政治化の政治をめぐって》,《思想》第998、999号)网络版,是转由《开放时代》2007年第2期的。另外,新近出版的《去政治化的政治:短20世纪的终结与90年代》(三联书店)收入了他近十年来所撰的多篇文章,集中反映着作者对相关问题的一贯探索和思考。顺便发贴告知。敬请参阅。

偶然、昨年翻訳した汪暉氏の《去政治化的政治、霸权的多重构成与六十年代的消逝》(日本語版「中国における1960年代の消失:脱政治化の政治をめぐって」、『思想』第998、999号)をネット上で見つけました。『開放時代』2007年第2期から転載されたものです。また、新しく出版された『去政治化的政治:短20世纪的终结与90年代』(三聯書店)は、ここ十年来に書かれた汪暉氏の論文を多く収録しており、関連する問題に対する氏の一貫した思考が集中的に反映されています。リンクを貼り付けておきます。ご覧ください。

以共生为目标的中国哲学

冠以《以共生为目标的中国哲学:与台湾学者进行对话》为题的学术研讨会于7月21日在东京大学召开。我将主持第一分会。详情请点击链接。

「共生のための中国哲学:台湾研究者との対話」と題するシンポジウムが7月21日に東京大学で開かれます。わたしも第一セッションのモデレーターを務めることになりました。詳しくは上の中国語のリンクをご覧ください。

Tuesday, May 27, 2008

王元化先生逝世

華東師範大学が誇る著名知識人王元化氏が上海にて逝去されたそうです。享年88歳。大御所的存在として上海リベラリズムを精神的に支えてきた王氏は、日本では『文心彫龍』研究がよく知られているようです(『王元化著作集第1巻 文心彫龍講疏』)。知識人としての王氏像として最もよく知られているのが、「思想のある学術、学術のある思想(有思想的学术和有学术的思想)」という標語で、上海を中心とする啓蒙思想に大きな影響を与えていると言われています。ネット上では多くの追悼文がアップロードされていますが、劉夢渓氏の《挽元化》をリンクしておきます。追悼特集は、この「思与文」のほか、「学术中国」でもみられます。

《犹太与以色列之间》

刚看完一本叫做《犹太与以色列之间》的书(早尾貴紀『ユダヤとイスラエルの間』、青土社、2008年)。作者对于马丁·布伯(Martin Buber)、汉娜·阿伦特、朱蒂斯·巴特勒(Judith Butler)、以塞亚·柏林(Isaiah Berlin)、以及艾德华·萨义德(Edward W. Said)等人有关犹太复国运动(也叫“锡安主义”,即zionism)的哲思和立场进行了大胆且细致的分析,由此试图揭示现代国民-国家框架的内在困境。所分析的对象都是20世纪以后很重要的哲学家和思想家,而且除了萨义德之外的人都是犹太人。有一种说法称:20世纪的哲学思想归根结底都在犹太思想的问题意识上展开的。但是,比如阿伦特,人们一般有意无意地淡化她思想中锡安主义的性质或着对之避而不谈。作者却勇敢地面对锡安主义这一尤其在英美世界极其敏感的问题,很低调地分疏了她们对锡安主义表现出来的理论与实践之复杂内涵。依我不充分的阅读,作者的心声体现在对萨义德的如下概括中。他说:

萨义德在其《弗洛伊德和非-欧洲人》的结尾自问道:“对于能照顾到离散族群(diaspora)式人生的政治所产生的条件,我们有无可能抱有希望?它能否为犹太人和巴勒斯坦人这两个民族在她们共同的土地上建立一个国家提供一个不甚脆弱的基础?”萨义德在批评1993年奥斯陆协议以建立两个国家解决问题的方案时,积极提出了“以一个国家解决”的替代方案。他也在《弗洛伊德和非-欧洲人》中称:“1993年以来的奥斯陆和平方案进程所描绘出来的分割并没有消弭相互对立的民族叙事之间的抗争。反而它却凸出了两全其美的不可能性。”因为她们本来就不可能各自自我封闭在坚实的民族认同和民族叙事之中。
萨义德第一次将binationalism(或曰“一个国家两个民族”)的思想作为他的主题明确表达出来的是在1999年的论文《以一个国家解决One State Solution》中。他并不是要说只能通过这种办法来求得解决,他所要表明的不是这种消极思想。相反,他的方案包涵着对历史多样性的承认以及对双方民族自决权的同时性尊重,它是作为一种面向未来的、富有魅力的思路被提出来的。我相信,萨义德一直到他生命的最后之最后将它作为一个现实政治构想来坚持下来,与此同时,他也一定在寻找从思想史的角度对之进一步深化的可能。他自问“能照顾到离散族群式人生的政治”和“binationalism”是否能兼顾,而他以这样一个回答来结束他的讲演:“我本人是相信的。”

Friday, May 23, 2008

多语言交流平台上的中国学术话语

5月20日に、オランダ・ライデン大学で中国近代思想史を研究しているアクセル・シュナイダー(Axel Schneider)氏の講演を聴いてきました。東京大学UTCP主催のこの講演は、「Chinese Conservatism: History, National Identity and the Human Condition」というテーマでした。シュナイダー氏は中国清末民初期の伝統重視派の学者たちの中には、timeless ethicsに対する想像に基づきながら主に歴史学としての近代的学術言説を構築していったといい、そのような潮流を「保守主義」と呼びました。timeless ethicsというのは、時代の変化によって変わることのない、ある種アプリオリな倫理構造のことを指しています。彼は柳詒徵らの歴史学著作を読解しながら、彼らの史的ナラティヴの中には、歴史の中にそれが存在しているという一貫した信念がみられることに注目しました。
講演そのものももちろん非常に啓発的でしたが、この日最も考えさせられたのは、それではなく、講演会とその後の食事会を成り立たせていた言語的環境のほうでした。講演会での公用語は英語でした。シュナイダー氏はドイツ人ですが、非常に流暢な英語と中国語を操り、英語が大変苦手な私にとってはずいぶん助かりました。食事会では、メンバーのほとんどが中国語を解さないので、英語がここでもまた唯一の交流言語になったわけです。メンバーの母語の背景も多様で、日本語の人もあれば、フランス語、ドイツ語、英語などといった状況でした。したがってちゃんとした意志疎通のためには英語を話せることが不可欠となります。こうした場面は何も初めて遭遇したわけではなく、私はここで英語を話すことの重要性を言いたいのではありません。そうではなく問題は、中国学の言葉をどうやって言語の多様性という基盤の上に置き直すかということです。そのためには、これまでの語りの構造を根本的に組み替えていく必要があるはずです。伝統的な言説空間の中にとどまってただそれを守り続けるだけでは先が見えています。かといって、こうしたグローバル化の時代の流れにやみくもにしたがう結果、斯学の伝統が遺してくれた貴重な遺産を無視することになるというのはなおさらまずいことでしょう。言語の多様化という基盤を利用しつつ、そこからもう一度中国学の歴史的蓄積の中に潜在力と価値を見いだすことが必要でしょうし、それは可能なのだろうと私は思います。

5月20日去听荷兰莱顿大学中国近代思想史专家施耐德(Axel Schneider)先生的学术讲演。由东京大学UTCP主办的该讲演题目叫做“Chinese Conservatism: History, National Identity and the Human Condition”。他认为中国晚清民初的一批传统主义学者依据timeless ethics的想像试图建构以史学话语为主的现代学术话语,而他将这种思想潮流称作“保守主义 conservatism”。Timeless ethics是不随时代的变化而变的一种先验伦理体系。他通过阅读柳诒征等人的史学著作发现他们的历史叙事中可看到对它在历史中存在的一贯信念。
讲演的内容本身固然很富启发性,但这天最给人以深思的却不在此,而更在于讲演会以及会后聚餐所赖以成立的语言环境。会议的公用语言为英语,施耐德先生身为德国人操纵非常娴熟的英语和汉语,对很不擅长说英语的我帮助很大。而聚餐会的成员大多都不会汉语,所以英语在这里再次成为了唯一的交流语言,成员的母语背景又不单一,有日语的,也有法语的、德语的、英语的,要想充分地得到互相沟通,你不得不会运用英语。这种场面我并不是第一次遇到,我不是想说英语有多重要,而问题是如何将有关中国的学术话语放到语言多样化的知识平台上?这里无疑存在着一种从根本上转变以往的话语结构的需要,沉浸在传统的话语场域只知道墨守成规是不会有前途的。当然,一味地要跟随这种全球化的历史潮流的结果忽视学术传统赋予我们的宝贵遗产更不是个办法。我想,通过利用语言多样化的知识平台重新挖掘埋在中国学历史积淀中的潜能和价值才是有必要的,而且是可能的。

Wednesday, May 21, 2008

中国早期启蒙思想的兴起

陳来《历史自觉和文化主体》(《读书》2008年第5期)は、武漢大学の著名な哲学史研究者蕭萐父氏の文集《吹沙集》《吹沙二集》《吹沙三集》(いずれも巴蜀书社,2007年)に対する簡潔な書評となっています。蕭氏には李錦全氏との共著になる『中国哲学史』(人民出版社、1982年)があり、大学の哲学教科書として広く読まれていたようで、かくいうわたしも初めて読んだ中国哲学通史の著作がこれでした。私が当時読んだのは19世紀以降の近代部分だけでしたが、経学史や宋学史のフレームワークとはやや毛色の異なる叙述のしかたが特徴的で、最近ももう一度読み直してみたいと思っていたところでした。陳来氏はこの中で、蕭氏の主要な関心が「中国初期啓蒙思想」の系譜をさぐることにあることを指摘し、侯外廬の流れに連なるものであると述べていますが、その通りなのでしょう。
ほかに、《思史纵横(上)》(武汉大学出版社,2007年)には、陳文でも言及されている《中国哲学启蒙的坎坷道路》、《文化反思答客问》などの80年代の著作が収められています。

Tuesday, May 20, 2008

认识中国

中国四川省汶川地震の惨状が日本のメディアでも終日伝えられています。災害を起こした自然のエネルギーに対する衝撃の大きさは言うまでもなく、今なお必死の救出作業が続けられ、しかもこれから長期にわたって継続されるであろう困難な被災地での生活再建活動、など一連の現状と課題を思うと痛心の念に堪えません。
しかし一歩下がって冷静にこの度の事態を日本の側から眺めてみると、特筆すべき重大な要素は、いわゆる「国際救助隊」よりもはるかに規模の大きい人の群れが被災直後から第一線に入っているという事実でしょう。おそらく、これほど多くのメディア関係者が同時期に中国社会の広汎な生の現場に入り込むという事態は、空前のことではないでしょうか。近くにはSARS危機や1998年の洪水のときにも、さらには、1989年の「六四」事件の時にも、このような大量かつ同時的な現場報道はなかったはずです。つまり、少なくとも国交正常化後としては最大で、さらに遡って、今回と同規模以上の経験があるとすれば、侵略戦争時代まで遡ってしまうのではないでしょうか。あらゆる他者のことばを介在することなく、直に現状に触れ、それをオリジナルソースとして報道するという体験の中には、これまでになかった中国理解が生まれてくる契機がきっとあるはずです。既成の知識や先入観にとらわれることなく、今眼前で繰り広げられていることを適確に表現する視点とことばをどうやって鍛え上げていくのか、日本のメディア関係者は今試されているといって過言ではないと思います。

知ることから理解し、感じることへ、その逆に、感じることから理解し、知ることへの移行。民衆分子は「感じる」けれども、必ずしも理解あるいは知るというわけではない。知識人分子は「知る」けれども、必ずしも理解するとは限らないし、とりわけ「感じる」とは限らない……。知識人の誤りは、理解することなしにとりわけ感じたり、情熱的であることなしに、知ることができると信じている点にある……。

アントニオ・グラムシは、「有機的知識人」の条件について、このように語っています(片桐薫編訳『グラムシ・セレクション』、p.175)。日本のジャーナリストたちは中国で暮らす人々の集団の中から有機的に形成されてきたわけではありませんから、この引用をここで持ち出すのは必ずしも適切ではないでしょう。(グラムシは有機的知識人を語る際に、それが有機的に形成されてくる場を階級性として理解していました。)ましてわたしは、「連帯」の可能性に賭けるべきたと考えているわけではもっとありません。ただ、個々の状況に向き合うことを原動力として、そこから普遍を経由し、そしてもう一度、別の個体の生存状況に寄り添い直すという知的営みの力が問われているとするならば、もとの定義を乗り越えつつ、グラムシの省察に共感していくことは可能なのではないでしょうか。

Thursday, May 15, 2008

一方有难,八方支援

日本赤十字社の中国四川省地震救援募金のページへのリンクを右に設けました。6月10日まで受付だそうです。

Wednesday, May 14, 2008

“现代中国”与儒学普遍主义

汪暉氏が《帝国的自我转化与儒学普遍主义》(帝国の自己転化と儒学的普遍主義)という長編の論文をネット上に公開しています。基本的には、4巻本『現代中国思想的興起』の中で論じてきた、経今文学の解釈学に基づくmodern Chinaの体制構想に関する彼の主張の延長上にあるもののようですね。わたし自身まだ読んでいませんが、とりあえずダウンロードしておきました。上のハイパーリンクからお入りください。『読書』の編集を下りた後に行われたはずの思索がどれほど形になっているのでしょうか?
それにしても、「グローバリゼーションと脱政治化」という氏の問題提起は、チベット問題があのような形でクローズアップされるようになってから益々重要であると思われてきました。
そして、今回の巨大地震。報道の中には政治的な思惑をさぐらんとするむきも少なからずあります。そのような観察と推測の当否を判断する力はわたしにはとてもありません。ただ、災害大国でもある中国で、このような巨大災害が起こるたびに展開される迅速かつ献身的な各方面の救済活動や、市民レヴェルでの互助活動、そしてそれらを支える強力なリーダーシップの姿から学ぶべきものがきっとあるとわたしはいつも思います。

Monday, April 28, 2008

几何原本、徐光启、中国当代社会

東方書店の情報誌『東方』2008年4月号の巻頭に掲載された李梁氏の学会レポート「東海西海、心同理同:「紀念徐光啟暨『幾何原本』翻譯四百周年國際研討會」速記」は、1607年(万暦三十五年)にイエズス会士マテオ・リッチが徐光啓とともにユークリッドの『原論』を中国語訳して出版した年から400年たったことを記念して、上海で開催されたシンポジウムの様子を生き生きと紹介しています。この漢訳版『原論』をめぐる卓抜な研究として、安大玉氏の『明末西洋科学東伝史』(知泉書館、2007年)があることは以前にも紹介したことがあります。明末清初に伝えられた西洋科学のインパクトをより重大なものとして考えるべきではないかというのは、安氏の研究が鋭く指摘しており、かくいう私の博士論文もそのような見方の影響を大いに受けつつ書かれたものです。
そういうわけで、このようなシンポジウムが開かれ、上海の徐家匯には徐光啓の記念館を始め、教会や蔵書楼など、徐光啓の偉大さを今にしのばせるモニュメントが残されているということは、恥ずかしながら知りませんでした。昨夏は近くまでいっていたはずなのですが。
この中で紹介されていた書物に
安国风《欧几里得在中国:汉译〈几何原本〉的源流与影响》(江苏人民出版社,2007年)
Peter M. Engelfriet, Euclid in China: The Genesis of the First Chinese Translation of Euclid's Elements, Books I-VI (Jihe Yuanben, Beijing, 1607) and Its Reception Up to 1723 , Brill Academic Pub, 1998
がありました。検索しても出てこないのは実際にはまだ出版されていないということでしょうか。
また、李氏が最後に触れていた朱維錚氏の発言も確かに李氏のいうとおり、「刺激的で興味深い」ものです。朱氏については、以前「儒学第三期」に関する記事を載せたときに紹介したとおりです。このシンポジウムでは、「今の経済的豊かさと政治的腐敗は晩明と驚くほど似ている」と発言したのだとか。

东方书店的通讯《东方》2008年4月号在其卷首刊登了李梁的学会纪录《东海西海,心同理同:“纪念徐光启暨《几何原本》翻译四百周年国际研讨会”速记》。该文生动地介绍了为了纪念自1607年(万历三十五年)耶稣会传教士利玛窦与徐光启合作翻译出版欧几里得《几何原本》四百周年在沪举办的国际研讨会的情况。如我曾经介绍,关于此汉译版《几何原本》,安大玉《明末西洋科学东传史》做过极富价值的研究。正如他的研究所表明,明末清初传入的西方科学对中国知识话语的影响应该受到更大的重视,我的博士论文也深受这种观点的启发而成的。但很惭愧,之前我不知道有过这样一次学术研讨会,也不知道上海的徐家汇还有诸如徐光启纪念馆、教堂、以及藏书楼等等足以让今人缅怀徐光启的名胜古迹。可惜去年夏天去上海我都擦肩而过了。李文介绍一本书叫《欧几里得在中国:汉译〈几何原本〉的源流与影响》(安国风著,江苏人民出版社,2007年),我怎么也搜索不到,或许还没有正式出版?另外,该文在结尾处提及的朱维铮先生的发言确如李氏所说“带有刺激性,很有趣”。我也在这里曾经介绍过朱维铮,就在谈及“儒学第三期的三十年”的时候。据李文介绍,他在这次研讨会的发言中说:“现在的经济繁荣和政治腐败与晚明时期的情况惊人地相似”。可谓盛世危言。

Saturday, April 26, 2008

欧洲人眼中的中国(书讯)

许明龙《欧洲十八世纪“中国热”》,外语教学与研究出版社,2007年
1999年に山西教育出版社から出版されたものが「国際漢学叢書」シリーズとして復刊。
孟德卫《1500-1800中西方的伟大相遇》,江文君、姚霏译,新星出版社,2007年
Devid E. Mungello, The Great Encounter of China and the West, 1500-1800, Rowman & Littlefield Pub Inc, 2005、の中国語訳。 同一作者には他に《莱布尼茨和儒学》(江苏人民出版社,1998年)、《神奇的土地:耶稣会士的适应性和早期汉学的起源》(Curious Land: Jesuit Accommodation and the Origins of Sinology, Univ of Hawaii Pr, 1989) などの中訳著作がある。
许明龙《黄嘉略与早期法国汉学》,中华书局,2004年

信息来源:黄敏兰《看两百年前欧洲人如何“颂华”》(《中华读书报》2007年11月28日〈书评周刊〉栏目)

Monday, April 21, 2008

“大柱子”?

前回紹介した、张晴滟《〈悲惨世界〉与〈九三年〉:舞台上的雨果》(「『レ・ミゼラブル』と『九十三年』:舞台のユーゴー)では、訳さなかった言葉があります。ランボーの言葉にあった「耶和华和大柱子」の「大柱子」です。 何のことだかわかりませんでした。どなたかごらんになった方でご存じでしたらご教示ください。

上次翻译了一段关于雨果话剧的文章,我故意落下一个单词没有翻译出来。那就是“大柱子”。如果有访客知道它的意思,请不吝赐教!

Tuesday, April 15, 2008

雨果·人性·现代

『中華読書報』2007年12月5日「国際文化」欄から。話題は2004年に中国で舞台化されたビクトル・ユーゴーの小説『九十三年』についてです。

张晴滟《〈悲惨世界〉与〈九三年〉:舞台上的雨果》
(略)監督は『九十三年』を演じることの現実的な意義について語った時に、それは彼自身ですらまだはっきりわかってはいない「モダニティの危機」についてもう一度考えることだと述べている。モダニティとは何か?そしてどんな危機だというのか?「文学への回帰、人間性への回帰、人間の魂への回帰」とつけられたインタヴューの副題がヒントになっているだろう。ここで問われてくるのは、「人間性」とはいったい何を指しているのか、ということだ。舞台版の答えは、何らかの宗教性であるという。それはユーゴーの作品の中に間違いなくはじめから存在しているものだろう。天才詩人ランボーはこの老人の作品の中に、「ヤハヴェの強烈なにおいがする」ことを敏感に感じ取っていた。フローベールやボードレールは異口同音に、ユーゴーの小説に登場する「人々は人ではない」と言っていた。ラマルティーヌは『九十三年』の宗教的ヒューマニズム哲学を批判して、「それは最も危険なものだ……大衆を惑わす最も致命的で、最も恐ろしいものは、これら実現しようのないものなのだ」と述べる。
1980年代以来、いわゆるリアリズムといわれる作品が数多く舞台を支配してきた。それらは人物関係を浅薄に図式化し、真の問題を避け、偽の答えを偽造してきた。『九十三年』の階級を超えた「人間性」に対するうったえは、あまり有力とも言えない反抗だと見ることができるだろう。だが、かつての古びた神事をもう一度持ち上げることは果たして最終的な終着点になるのだろうか?

Monday, April 14, 2008

书讯一则(摘自《中华读书报》)

『中華読書報』2007年12月5日「書評週刊」の記事をひとつ(抄訳)。

马俊峰《中国价值论领域的奠基之作》-评李德顺《价值论》第二版,中国人民大学出版社,2007年9月
20年前、すなわち、1987年、李徳順氏の『価値論』が出版された。李徳順氏は大学入試再開後の最初の修士、最初の博士だ。本書はその博士論文をもとに書かれている。(中略)20年を経て、作者は修訂を施し、第二版として当時と同じ人民大学出版社が出版し、さらに座談会を開催している。
(中略)
李徳順氏の『価値論』における最大の貢献、同時に中国マルクス主義哲学に対する重要な貢献は、主観性と主体性の違いを明らかにし、「主体性」という哲学概念を確立し、価値を主体性を有する客観的事実であると見なしたことだ。価値は人によって異なり、主体のニーズの変化にしたがって変化するが、同時にそれは客観的なものであって、主観的なものではなく、人々の評価や願望によって転化するものではない。ここでの主体は個人でもいいし、集団でも、人類全体でもよい。どのレヴェルの主体においても、そのニーズは客観性を有する現象であり、一定の客体がもつ属性や機能が主体のニーズを満足できるかどうか、そしてその満足の程度はどうかということもまた、客観的な事体である。したがって、価値の問題についても、科学的な理論研究は可能なのだ。『価値論』の第一篇「価値に関する本体論的研究」は、本書全体の半分近くを占めているが、それは主にこの問題を解決しようとするもので、価値の本質と特徴を議論している。わたしたち今日の研究者たちが「価値は主体的な現象である」ということを基本的な常識であるかのように気軽に述べてしまうとき、当時の開拓者がいかにたいへんであったか、その功績はいかなるものであったかを決して忘れるべきではないだろう。

Friday, April 11, 2008

中国“国家”的构架

『開放時代』第2期の巻頭テーマ《中国国家的性质:中西方学者对话(一)》は、登場する論者の知名度の高さもさることながら、マクロな視点から主にポスト社会主義時代の中国が示す「国家」のかたちをどう認識すればよいのかということを論じた、内容的にも読み応えのある論文集となっています。上に示したリンクからは、収録論文の梗概を見ることができます。また、紹介によると、この特集は、"Modern China"2008年1月号に掲載された"The Nature of the Chinese State: Dialogues among Western and Chinese Scholars"の中国語版だということです。目録を下に掲げます。

黄宗智(Philip C. C. Huang) 集権的ミニマリズム:中国における準官僚と紛争解決を主とするクアジ・オフィシャルな基層行政(黄宗智《集权的简约治理:中国以准官员和纠纷解决为主的半正式基层行政)
康暁光・韓恒 類別コントロール:今日の中国大陸における国家社会関係に関する研究(康晓光/韩恒《分类控制:当前中国大陆国家与社会关系研究》)
王紹光 中国におけ公共政策アジェンダ設定モデル(王绍光《中国公共政策议程设置的模式)
孫立平 ソーシャル・トランスフォーメーション:発展社会学の新たな課題(孙立平《社会转型:发展社会学的新议题)
汪暉 対象の解放とモダンに対する問い-『現代中国思想的興起』に関するささやかな再考(汪晖《对象的解放与对现代的质询:关于《现代中国思想的兴起》的一点再思考》)
許慧文(Vivienne Shue) 統治プログラムと権威の混合的本質(许慧文《统治的节目单和权威的混合本质》)
プラゼンジット・デュアラ(Prasenjit Duara) 中国における長い20世紀の歴史とグローバリゼーション(杜赞奇《中国漫长的二十世纪的历史和全球化》)
イヴァン・セレニイ(Ivan Szelenyi) ひとつのトランスフォーメーション・セオリー(《一种转型理论》)

フィリップ・ホアン氏はアメリカの中国近代史・近代思想史研究を代表する研究者で、ここ最近は清代以降の農村社会に対する研究を意欲的に行って、大陸の知識界で少なからぬ反響を与え続けています。個人でサイトを運営しているようですのでリンクを貼っておきます。今回の特集でもコーディネーターになっているようで、巻頭にイントロダクションを寄せて、厖大な論文集の見取り図を示してくれています。中国の基層行政は清代以降、中央官制に組み込まれていない地方コミュニティの自治的システムに支えられており、そうした状態は文革期まで継続していたといいます。こうした主張はたびたび取り上げている楊念群氏の『再造病人』にも如実に表れているものです。孫立平氏が中国の国家/社会関係を分析するための社会学の理論モデルを構築する際に、政治過程の多様性と柔軟性に配慮した実践的アプローチが必要だと主張するのも、こうしたホアン氏の認識に通じるものでしょう。もちろん、こうした「第三領域」の存在を、中国における市民社会生成論などとどのような距離感をもって認識するのかということについては意見が分かれるでしょう。康・韓論文は、市民社会論モデルの中で中心的に取り上げられる非政府アクターに対する政府権力の浸透性を等級的(graduated)に分類したものです。これは一面においては、汪暉氏がしばしば批判するハイエクモデルの市場社会論に対する別の角度からの批判としても機能するものかもしれません。王紹光氏は公共政策の決定に影響を及ぼす圧力が民間から政策決定者の間のどのレヴェルで生起しているのかに応じて、政治過程における民衆参加形式をモデル化しています。これは、中国における政策決定プログラムを類型化しようとするおもしろい試みと言えるでしょう。改良-革命に代表される二元論モデルとは別の可能性に対する模索の試みです。汪暉氏は、『現代中国思想的興起』を、その後のさまざまな評論に鑑みながら、再度総括的に自己解説したものです。社会学的視座から中国の国家/社会構造に対するマクロな把握を試みた他の論文とは明らかに異質なものですが、「中国」というひとつの文明体のかたちを考える上で、汪暉氏の帝国-国家を中心とする分析の視点が非常に重要であることはいうまでもないことです。彼の論述の規模が大きすぎて、その全体に対する適切な批評が困難であるのは、残念なことです。
 全篇を貫く共通の前提は、中国の社会構造のトランスフォーメーションをポスト社会主義的現象であることだと思われます。その意味で、東欧の新家父長制、中欧の新自由主義と中国の制度転換を比較的視座のもとに類型化してみせるイェール大学のセレニイ氏の論文は、中国研究者にとってはありがたい研究です。 

Wednesday, April 2, 2008

博士论文提要

请点击下列网址:
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/thesis.cgi?mode=2&id=558

课程介绍

东京大学大学院地域文化研究专业《多民族文化交错论》课程的大纲如下:

夏学期は、1990年代の中国大陸における知的状況を理解するのを目的として関連する著作の輪読を行なう。参加者に対する要求は以下の3点:①関連する中国語現代文の汎読、②担当箇所に関する口頭発表、③議論への積極的な参加。授業は基本的に日本語で行なうが、議論を活発にするための中国語使用を妨げない。使用教材は《启蒙的自我瓦解》(许纪霖、罗岗等著,吉林出版集团有限责任公司,2007年)を予定。冬学期は、清代以降の文言文に対する読解訓練を行なう。他者の言語文化との交錯という政治的現象が固有の知的ディスコースをどのように揺さぶっていったのかを分析する手がかりになるような、比較的短い文章を適宜選ぶ。参加者はそれを正しい現代中国語の発音で音読するとともに担当箇所の全文を日本語に翻訳することが求められる。また、議論参加の積極性が求められるのは夏学期と同様。教材は授業中に指定する。

开课日期为4月18日(周五)。上课地点以及时间请看《履修案内》。

Saturday, March 22, 2008

公共教育与“国退民进”

1990年代後半から顕著になった「国退民進」を基調とする国有企業改革が何をもたらしているのかをめぐっては、中国国内でも激烈な論争が繰り広げられています。『読書』2008年第3期の巻頭に掲載された「品书录」中の周国平《为今天的教育把脉》は、杨东平《中国教育公平的理想与现实》を紹介しながら、「国退民進」の教育現場に対する浸透の現状を深い憂慮とともに伝えています。楊東平氏は北京理工大学教授、90年代のころからメディアにもしばしば登場し、「自然の友」という中国最初の環境NGOの副会長としても知られる著名知識人です。そう、それと忘れてはならないのは、CCTVのあの伝説的番組、崔永元が司会を務めていた《实话实说》の制作にも彼は関わっていたのでした。
さて、中国の教育の現場、とりわけ大都市圏の状況をこの短文はよく伝えていると思われます。例えば、

政策と実践という点から見た場合、「教育の産業化」の具体的なやり方は、中等教育段階においては主に、公立学校の転制(非公有化)となる。「名門校が民間校を経営する」ということだが、例えば、名門中学(中国で「中学」といえば、中高六年間の中等教育機関)の初等中学部を、高い学費を取る「改制学校」とする。高等教育段階での主なやり方は、高い学費を取る「二級学院」や「独立学院」を経営することだが、近年来、数や規模への一辺倒ぶりが一層高まっており、不動産開発モデルによって新しいキャンパスや「大学都市」が開発されたりしている。大学募集定員の拡大の結果、普通制高校がボトルネックとなり、高校入試競争が大学入試よりも厳しくなるという新たな状況の下で、中等教育には一層大規模な二極分化が生じている。

こうした状況は、中国をとうに離れているわたしから見ても十分に察せられる状況というべきですが、たぶんこうした教育産業の過熱現象の影でより深刻なのは、自主的・強制的にこうした教育システムからはじかれていく人々が構成するであろう社会的インパクトのほうではないだろうか、という危惧をおぼえます。『論語』のことばに「朽木不可雕也」というのがありますけれども、経済資源と社会資源の極端な格差のもとで形成される教育という名の資源収奪競争を前にして朽ちていかざるを得ない子どもたちは、はたして救われる道がないのでしょうか?

Thursday, March 20, 2008

李零《重归古典》

『読書』2008年第3期に、李零《重归古典:兼说冯、胡异同》が掲載されています。作者の李零氏は北京大学中文系教授。于丹氏のテレビ『論語』講義が反響を呼んで社会現象となって以来、孔子と『論語』をめぐるさまざまな議論が中国の主要メディアをにぎわわせているようですが、そのような中で『喪家狗』(山西人民出版社、2007年)という『論語』注釈本を出版して物議を醸した人でもあります。『家をなくしたのいぬ』という揶揄のことばを孔子がよろこんで受け入れたというエピソードは『史記』孔子世家に見えるものですが、李零氏はこのことばを取り出して、現代の儒学復興熱の中で一人祭り上げられる孔子をもう一度等身大の人間に引き戻そうとします。

『論語』を読んでわたしが感じるのは、「孤独」という二文字だ。孔子はとても孤独だった。いまでは孔子にセラピストになってもらおうとする人もいるが、実際のところ、彼自身の心の病は誰にも治すことができなかっただろう。

『読書』掲載のこの文章の中では、中国哲学史を確立した胡適と馮友蘭の哲学史論を比較しながら、先秦諸子を平等に並べた胡適の「文化的立場」を再評価しています。馮友蘭は胡適の方法に従って諸子に関する歴史叙述から出発しているにもかかわらず、儒家の中国思想史における地位を「君主立憲制下の君主」のように扱っているといいます。それに対して、胡適は諸子を平等に扱おうとしていたと李零氏は述べます。つまり、「馮友蘭は諸子学を経学にし、経学を理学にし、理学を新儒学にした」のに対して、胡適は「諸子学を拡大して思想史にした」というのです。

胡適の出現が引き起こしたのはパラダイムの転換だった。彼の書は馮氏の書とは方向が正反対だ。一方は一家から百家へ戻ろうとするものであり、もう一方は百家からもう一度一家へと返るものだ。馮氏は「順に似るも逆」であり、胡適は「逆に似るも順」なのだ。今日この歴史を振り返る際には、胡適先生に特に感謝しなければならない。なぜなら彼がいなければ、わたしたちは百家争鳴ということばの意味を知ることはなかったのだから。彼が示した方向性こそは、中国文化の新たな方向性を示すものだった。

そして李零氏はこう結論します。

諸子学の復興、それこそが古典へ返るということだ。その古典とは真正なる古典なのだ。

わたし自身、博士論文の中では、胡適の哲学史論に「漢学的哲学」の特徴を見いだして、現代新儒学につながる「宋学的哲学」と区別しようと試みたものですから、この李零氏の主張には十分共感するところがあります。ただ、もう少しいうならば、胡適のこうした哲学史ナラティヴを思想史的に準備したのは章炳麟でした。
このブログではわたし自身の専門には言及しないことがわたしの中でのルールになっているので、これ以上は述べません。ただ、近年来の儒家ブームを相対化する李零氏のこのような視点は、実は学術史研究内部のアカデミックな議論にとどまらない問題を提供しているものと思われます。

Saturday, March 15, 2008

图雅的婚事(日文版)

ベルリン映画祭金熊賞を受賞した、『トゥヤーの結婚』を見ました。この映画は内蒙古西部のゴビ砂漠に暮らすモンゴル族を題材にしていますので、マスメディアも「モンゴル」という文化的記号を強調してこれを紹介しています。この映画の監督と女性主人公を演じた俳優がいずれも漢族であったことを知らなかったわけではないのですが、見る前にはモンゴル族の遊牧生活を描いたものだということを疑っていませんでした。しかし、観賞してみてそうではないことをはじめて知りました。つまりこれもまた、「水を渇望する物語」だったのです。
「水を渇望する物語」といえば、すぐに思いつくのが80年代に公開された代表的な二つの映画、『古井戸』と『黄色い大地』です。これらの作品の中では、長らく続いてきた農耕文化は、閉鎖性、貧困、停滞、愚昧を象徴するものでした。物語の登場人物たちは、それぞれ異なった形で、水に対する渇望を表現していました。『古井戸』では、水は自由と意志を象徴しており、『黄色い大地』では、黄河の水が、啓蒙的理想へと続いているのでした。『黄色い大地』に比べると、『古井戸』のほうはより楽観的であるようです。つまり、それは、知の力によって人々は立ち後れた生活を克服し、自らの運命を把握できるということを伝えていました。これは、ちょうど当時の新啓蒙運動における楽観的な雰囲気と重なり合うものだったでしょう。一方の『黄色い大地』は、比喩的な語り方で深い省察をメッセージ化していました。すなわち、革命思想を主とする啓蒙運動が結局は挫折せざるを得ず、黄土高原に生きる人々は、黄河が海に流れ込む壮大な光景を目の当たりにすることはできないであろうと。『河殤』というテレビシリーズが描いていたとおり、大海に流れ込む黄河のイメージは、農耕文明の商工業文明への流入を予示していたのでした。80年代には「球籍」ということばで、資本主義的グローバル化のプロセスに参与していかんとする中国の欲望が主張されていました。この二つの映画の、水に対する共通するアレゴリーとはすなわち近代化のことであったといってよいでしょう。『黄色い大地』は中国革命の道に疑問を投げかけていたわけですが、それでもなお、近代的啓蒙の可能性をあきらめていたわけではありませんでした。
21世紀に入り、近代化神話には隠すことのできない欠陥が見られるようになりました。『トゥヤーの結婚』には、80年代における二つの水の物語とははっきり異なる前提が存在しています。つまり、近代的な工業社会の実現は必ずしも人々の幸福の実現ではないということです。「先に豊かになった」一部分の人々は、心の空虚にさいなまれています。したがって、水を掌握するということも、ここでは近代的な物質文明の招来であるとはとらえられていません。かたくなに井戸を掘り続けるという誠実さによってトゥヤーを勝ち取ったセンゲーは、『古井戸』の主人公や『黄色い大地』の八路軍兵士のような、教養を備えた英雄的人物像ではありません。彼は自分の妻に何度も振られ続ける甲斐性のない男性でした。彼の妻は金銭に対する誘惑を断ち切ることができず、彼が妻の好意を引き寄せるために無理をして買ったトラックすらも、すぐに妻によって売り払われてしまいます。センゲーの井戸掘りは結局成功するのでしょうか。物語はその結末を教えてはくれません。しかし、センゲーとトゥヤーにとって、それは最も重要なことではないでしょう。彼ら、それにトゥヤーの前夫バートルは、皆生活の中でそれぞれ異なった傷を受けています。それでもなお彼らが生き続けようとする理由があるとすれば、それは、彼らを結びつけている愛情に他なりません。愛情は一方通行のものではありません。トゥヤーのかつての同級生は石油で一儲けし、アラシャン盟のゴビに帰ってきて、トゥヤーにプロポーズしますが、結局振られてしまいます。つまりこの二人の間に愛情は成立しようがなかったのです。センゲーの井戸掘りは失敗に終わるかもしれません。しかし、そのことによって彼らの愛情が破滅することはないでしょう。この物語の中では、トゥヤーやバートル、センゲーら三人は皆、生活の無情さを実感し、心身共に傷ついています。そして、そのような痛みを経た上でこそ、彼らはともに寄り添い合うことを決めるのです。彼らを救うのはもはや近代化や啓蒙思想ではありません。この点は、80年代の水の物語と大きく異なるところです。
実は、このような物語はモンゴル族の習俗と必然的なつながりがあるわけではありません。全編で漢語が使われているという簡単な事実がそれを伝えているだけではありません。井戸を掘るという行為自体、定住生活、つまり農耕文化の生活においてはじめて必要となる作業であり、遊牧生活を送るモンゴル族の伝統的な生活スタイルは、井戸水によって生活水を確保する必然性はありませんでした。したがって、これをご覧になる人が、この映画が専らモンゴルの物語を語っていると理解するとすれば、それは誤解でしょう。この物語が語っているテーマを民族の範囲に狭めるべきではないと思います。それは、中国の近代化過程において今日まで続いているテーマに関する深刻な物語なのです。ただそのモンゴル的な記号のみに目を奪われていると、作品の持つ普遍的な意義を見失いかねません。

图雅的婚事

看了一部柏林电影节金熊奖获奖片子:《图雅的婚事》。这部影片以生活在内蒙古西部戈壁地区的蒙古族为题材,所以媒体对她的宣传定位总离不开“蒙古”这一文化符号。之前我并不是不知道她的导演和扮演女主角的演员都是汉族人,但很直观地相信这肯定是一部描述蒙古族以游牧为主的生活当中所遇到的种种故事。观后才知道并非如此,原来这是又一部“缺水的故事”。
说到“缺水的故事”,马上让人联想到的无非是八十年代的两部具有代表性的影片:《老井》和《黄土地》。在那里,悠久的农耕文化代表着封闭、贫穷、停滞和愚昧,故事中的人们以不同的方式表现出了对水的渴望。《老井》里面,水象征着自由和意志;《黄土地》中,黄河水通向启蒙的理想。比起后者,《老井》似乎显得更乐观一些。她告诉观众:人类可以依靠知识的力量摆脱落后的生活,能掌握自己的命运。这正好符合于当时在新启蒙运动下弥漫的乐观氛围。而《黄土地》以隐喻的方式传达了一个很深刻的反思:以革命思想为主导的启蒙运动终究会遭到挫折,黄土高原上的人们最终看不到黄河入海的宏大场面。电视节目《河殇》所告诉的那样,流入大海的黄河预示着农耕文明融入到工商业文明。八十年代的“球籍”诉求所代表的便是中国要参与到资本主义全球化进程的强烈欲望。可以说,这两部片子对水的共同隐喻就是现代化。即使《黄土地》质疑了中国革命道路,但仍然没有放弃现代化启蒙的可能性。
到了21世纪,现代化的神话出现了很多难以掩盖的罅漏,《图雅的婚事》和八十年代的两个缺水故事之间有一个截然不同的前提:现代工业化社会的实现并不等于人们幸福生活的实现,“先富起来”的一部分人因心灵的空虚而陷入了另外一种困境。所以,对水的控制在这里不一定给人们带来现代化的物质文明。通过坚持打井的赤诚心来赢得图雅的森格不像《老井》中的男主人公和《黄土地》里的八路军战士那样是有文化的英雄形象,他是被妻子反复抛弃的一个很不出息的男人。他的妻子禁不住金钱的诱惑,他为了挽回妻子的感情好不容易购得的一辆卡车也没过多久就被妻子倒卖掉。森格的打井能否成功?故事不告诉其结局如何,但对森格和图雅他们来说,这并不是最重要的,他们再加上图雅的原配丈夫巴特尔都在生活当中受到不同性质的伤害,他们活下去的理由只是联接他们的一颗感情。感情绝不是单方面的,图雅的同学成了石油大王,再回到阿拉善戈壁向图雅求婚遭到拒绝,就是因为两个人之间无法建立起感情。也许森格的打井以失败为告终,但这不会导致他们之间感情的破灭,在这个故事里面,图雅、巴特尔和森格三个人都体会过生活的无奈,也都有身心两方面的创伤,就因为这一切疼痛的经历,才使他们相依为命。救活他们的已经不是现代化或者启蒙思想,这一点和八十年代的水故事有很大的区别。
其实,这样的故事和蒙古族的风俗习惯之间没有必然的联系。通篇采用的语言都是汉语这一很简单的事实就告诉这个道理。不但如此,打井本身也是定居生活方式亦即农耕文化生活才需要做的工作,以游牧为主的蒙古族传统生活方式并不需要依靠井水来解决吃水问题。所以,请观众别以为这个影片专门叙述着蒙古的故事。她所叙述的主题不能缩小到民族范围,而她是在中国现代化道路上延续至今的主题中的一个深刻叙事。只看她的蒙古符号反而会迷失影片的普遍意义。

Saturday, March 1, 2008

中国传统文化在当代中国所扮演的角色

東京大学のCOEプログラムの一つであるUTCPが主催するワークショップが3月6日、7日に開催されます。「中国伝統文化が現代中国で果たす役割」というタイトルで、近年来の儒学復興ブームを哲学的な視座のもとで論ずるということのようです。

Wednesday, February 6, 2008

过年

明日は旧正月、すなわち「春節」にあたります。中国では今日でも正月といえば旧正月で、全国各地に散らばった家族親戚が皆故郷に集まってにぎやかな年越しを楽しみます。ところが今年の正月は、歴史的にもまれとすらいわれる大雪が中国南部を中心に深刻かつ甚大な被害をもたらし、年に一度のこの心温まる団らんがかき乱される事態に陥っています。最初のころは鉄道や道路網が降雪によって麻痺し、故郷へ帰る人々の足が断たれ、流通に障害が生じるという問題が主だったようです。広州や北京のような農民工を多数抱える大都市のターミナル駅は、帰省の列車を待つ乗客であふれかえり(それは数十万人という想像を絶する数です)、各地の幹線道路で帰省者を乗せたバスや流通関連車輌が立ち往生しているというニュースが連日メディアを通じて広く伝えられました。身を粉にして働いて得た給料を年に一度の団らんに合わせて故郷に持って帰る多数の人々の喜びの大きさと、それがかなわなくなった場合の落胆の深さはいかほどのものなのでしょうか。駅周辺では病人も相次いでいると伝えられます。寒風と人いきれの中で押し合いながら数時間、いや時によっては何日も切符や列車を待つということがどれだけ苦しいことか、中国で留学中に体験したことがある人も少なくないでしょう。
しかし、事態はこれだけにとどまりませんでした。相次ぐ降雪は次第に被害を深刻化させ、ついには南方各省で電力供給網が破壊されるという最悪の事態を迎えます。ここ数日来、温家宝総理は広州駅などの旅客ターミナルを慰問するだけでなく、電力供給の確保のための復旧作業を陣頭指揮するべく被災地を飛び回っているようです。
温家宝総理といえば、1997年の大水害の時にも政府を代表して災害対策にあたり、連日洪水の最前線で指揮していた印象が強烈ですが、国土面積が大きく、複雑な地理を有し、厖大な人口を抱える中国では、自然災害の発生は単なる社会問題ではなく、重大な政治的課題にならざるを得ません。特に、今回は春節直前の超大規模災害ということで、国民全体の心理に及ぼす影響はかなり大きいのではないかと思われます。
内モンゴルの砂漠地帯に行くと、地平線まで続く荒漠地帯を貫くように一本の電線が延々とはるか彼方の村落まで続いているのを見ることができます。あれだけ幅員が大きく、地理的環境が複雑多様な国土で、末端まで電力が整備されているということ自体が並大抵のことではないのだと気づかされるには、それは極めて十分な光景でした。今回、電力供給で最も深刻な事態が生じている貴州省は、山がちの地方で、もともとインフラの整備が困難なところだと聞いています。そういうところでいったん送電線に問題が生じれば復旧に相当の困難が伴うであろうことは想像に難くありません。しかも、電力供給網はあちこちの省で破壊されているのです。
幸い立春を過ぎて、状況は緩和しているというニュースも聞かれます。季節的にはもうそろそろ出口が見えてきてもいい時期に入ってきてはいるのでしょう。しかし、混乱はまだまだ続くものと思われます。

Saturday, February 2, 2008

儒学第三期的三十年

ハーヴァード大学付属の燕京学社(Harvard-Yenching Institute)が主催して、北京大学で2007年10月29日に行なわれたという標題のシンポジウムの発言録が、『開放時代』2008年第1期に掲載されています。実はこれダイジェスト版で、完全版は紙媒体でなくウェブ上にあるようです。後者のほうをわたしはほとんどまともに読んでいませんが、なかなか熱い議論が交わされているようです。参加者は燕京学社から黄万盛氏が来ているほか、李沢厚氏や朱維錚氏のような1980年代知識界の牽引者の名前があるところが非常に注目されます。ほかにも陳来氏(北京大学)、陳少明氏(中山大学)、趙汀陽氏(中国社会科学院)、江宜樺氏(台湾大学)、陳祖為氏(香港大学)などのビッグネームが名を連ねています。NIEs勃興以来、現代新儒学を運動としてリードしてきた杜維明氏が間もなくハーヴァードを定年退職し北京大学で「高等人文学センター」を立ち上げる計画を持っているそうで、この会議もそういう動きにリンクしているのでしょう。
実際、発言の内容も面白いものばかりでした。その中からごく一部を訳しておきます。

陳来:儒学第三期ということについてですが、杜維明氏には二通りの言い方があります。一つは牟宗三に沿った言い方で、先秦、宋明から現代という言い方、もう一つは中国から、ひがしアジア、そして世界へという言い方です。しかし「新儒学」という概念について、「新儒学」とか「新儒家」という場合には、杜氏はやはり熊十力や牟宗三の系統の中で論じており、その範囲内での概念です。したがって杜氏の新儒学概念、新儒家概念は儒学第三期という概念ほど広いものではありません。たぶんこれはわりと重要な問題だと思うのです。例えば、李沢厚氏は荀子とかマルクスについても論じていますけれど、そのように新儒学、新儒家という概念そのものは非常に豊かなものなのです。したがって、香港や台湾の側から中国儒学全体の今日と未来の発展を展望するということから脱することができれば、それはきっと非常に豊かであると思うのです。
朱維錚:いわゆる儒学第三期とかいうことについてですが、わたしは根本的に、清代末期以来儒学はすっかりなくなってしまっていると思っています。(中略)最近、上海で講演を行った時にわたしはこう尋ねました。「あなたが述べる国学というのはどの国のことですか?」なぜなら、歴史的には1912年に中華民国が成立して以来、初めて中国と言えるようになったからです。今日、「宋学」のことを言う人がいますが、そういう人にわたしがいつも聞くのは、北宋は中国の領域の四分の一の土地しか支配していなかったということを知らないのか、南宋は中国の領域の五分の一の土地しか支配していなかったということを知らないのかということです。それならそれらの領域以外のところは中国ではないというのでしょうか?もし国学ということを特に強調するのなら、国学は漢人の学問ということになりますし、儒学、しかも宋代以降のものということに過ぎません。そうであれば、そのような主張は陳水扁の「脱中国化」と同じではないでしょうか。
李沢厚:中国ではなぜキリスト教、ユダヤ教、イスラム教のような宗教が生まれなかったのか?これは大きな問題です。アメリカで授業をしているときにあるアメリカ人学生がこう聞いてきました。「あなた方中国人には神がいないのに、どうしてこれほど長く生存してくることができたのですか?」これはいい質問でした。もうあれから十数年たっていますが、かたときも忘れたことがありません。中国はなぜずっと多神的なのでしょうか。中国の礼教が代わりにあったからだと私は思うのです。だから礼教というのはたいしたものです。それは世俗生活の規範なのです。それにはその神聖さというものがあります。その神聖さはどこから来るのでしょうか。だから、中国で孔教をやるというのは儒家の精神に反するのです。儒家の精神は祖先や天地を拝することで、どの宗教を信じたっていいのです。これが儒家のすごいところです。キリスト教を信じてもいいし、仏教を信じたっていい。これは考えるに値する問題です。「儒学第三期」は一つの学派として、宗教性の問題についてさらに探求を深めていっていいと思いますが、「儒教」になってはいけません。
趙汀陽:儒学にとって最大の挑戦は、それが「見知らぬ人」を解釈することができないという問題です。儒学は家族や友人を解釈できますが、「見知らぬ人」を解釈できません。「見知らぬ人」を解釈できないというのは完全な失敗です。なぜならわたしたちのあらゆる倫理原則、社会原則は、いずれも他者の問題を扱おうとしているからです。自分と争ったって何の意味もありません。あらゆる問題は他者の存在があり、他者が面倒をもたらすか、自分が他者に面倒をもたらしているのです。問題を処理するということはすべていかに他者に向き合うかということで、いかに他者を明らかにするかということです。「見知らぬ人」こそは本当の他者であり最大多数の他者なのです。どういうふうに自分の家族を処遇するかを論じても無意味なのです。それでは社会的問題は解決できませんから。しかし儒学はこの点が弱い。儒学はどうやって「見知らぬ人」と付き合うかについてはっきりと述べたことがありません。
黄万盛:韓国のある学者、咸在鶴といいますが、彼はハーバードロースクールのドクターですが、「中国的憲法としての礼」という博士論文を書きました。彼はritualという言葉を使っていません。「礼」を翻訳する場合、ふつうはritualと訳しますが、ritualは礼儀の礼で、品格とか教養といった問題になります。こういう角度から中国の礼制を理解しようとするのは限界があります。中国の礼制は政治制度の基本的な枠組みとして理解できます。彼はこの点から、「礼」をChinese consititutionと呼んでいます。根本的な法、憲法、という意味から「礼」を再解釈しようというのです。

「儒学」とか「儒家」という言い方が自覚的に使われるようになったことこそは、ポスト儒学時代の特徴ではないでしょうか。経学の時代が近代になって崩れてしまってから以降は、既に儒学がなくなってしまっているという朱維錚氏の主張は正しいと思います。第三期説というのは牟宗三が提唱した、いわば、宋明理学に続く現代新儒家の誕生宣言であろうと思われます。このシンポジウムでは、杜維明が提唱したことになっていますが、たぶん牟宗三のほうが少し早いのではないでしょうか。李沢厚はこれに反対して、儒学第4期説を称えています。両者の違いは、上の引用にも現われているように、牟宗三/杜維明が心性の学を中心にした、李沢厚の言葉を使えば宗教的な側面を強調しているのに対し、李沢厚は、漢代の董仲舒を中心にした、陰陽思想と天人相関思想を第2期とし、荀子の再評価やマルクス主義の遺産なども取り入れつつ、新たな第4期が展開されるべきだとするものです。そうすると、牟宗三/杜維明の第3期は、李沢厚においては、第4期の中に吸収されてしまうものであるということになります。
いずれにしても、これらの中で言われている「儒学」とはいったい何者なのか、そして、なぜ「儒学」でなければならないのか、という疑問は常についてまわらざるを得ません。
なお、議論の中でしばしば、蒋慶という名前が(主に批判の対象として)挙げられていました。その著作、『政治儒学』(三聯書店、2003年)という著作が物議をかもしているようです。そのうち読んでみましょうか。

Wednesday, January 30, 2008

书写底层

近年来、中国では「底層文学」がジャンルとして定着してきたようです。これについて、尾崎文昭先生(東京大学東洋文化研究所)が紹介していたことは以前にも触れたとおりです(その後尾崎論文は中国語に翻訳され、左岸文化にアップロードされました)。「底層」ということばの起源はsubalternの翻訳語の一つだと思われます。subalternという概念は、「庶民」とか「従属階級」とか「属下」などいくつかの訳し方があり、統一されていません。しかし「底層」ということばは、中国の社会経済体制の階層構造が示す顕著な二分化傾向のうちの一端を示すことばとして、明確なリアリティを持っているのでしょう、すっかり定着した観があります。強烈なメッセージ性を以て文芸界に衝撃をもたらした曹征路『那儿』の登場によって、「底層文学」が新たな左翼文学として確立したのでした。しかし、それがジャンルとして確立したあと、どのような展開を見せていったのか、どのような可能性を開示しているのか、ということについてはさまざまな意見があるようです。
例えば、『天涯』2008年第1期は、二人の識者の相対立する批評を並べて掲載しています。李云雷《“底层文学“在新世纪的崛起》(李雲雷「新世紀における「底層文学」の台頭」)と洪治纲《底层写作与苦难焦虑症》(洪治綱「底層を書くことと苦しみの不安障害」)です。李氏の文章は、もともと「乌有之乡」で行われた講演で、それを録音整理したものが左岸文化にアップされています。李氏が、その題名が示すとおり、「底層文学」の可能性を最大級に評価しているのに対し、以前にも紹介した洪氏は、この文章の中でも、叙述対象としての「底層」が、読者という消費者に向かって、その欲望をあおるような存在として描かれていることに強い危惧感を示しています。
おそらく、洪氏の指摘が正しいのだと思います。香港の『二十一世紀』2007年10月号は、摩罗《五四新文学与底层文化的隔膜》(摩羅「五四新文学と底層文化を隔てる壁」)という評論を掲載しています。摩羅氏は「底層」と名指される社会階層に固有の文化があり、それは五四新文化運動のなかで活躍したエリートたちの啓蒙主義的世界観とは相容れないものであったと批判しています。その批判のしかたは、平板なものであり、魯迅文学の批判的意義を著しく狭隘化、ひいては歪曲すらしてしまうおそれがあり、その限りでは取るに足らないものだと思われます。しかし、今日の「底層文学」が、その消費者たちの優越性を再確認させる機能を一面で果たしているとするならば、摩羅氏のエリート主義批判は決しておろそかにできないものとなるでしょう。洪氏が「苦しみの不安障害」と揶揄するのは、そのような消費者の心理を満たさんがために、「底層」の生を一層悲惨で反道徳的なものへと誇張していかざるを得ないような作者の心理に対してなのです。
こうした傾向に対して、杨光祖《底层叙事如何超越》(楊光祖「底層ナラティヴはいかに乗り越えるか」)は、もう一度、魯迅、沈従文、老舎など近代小説のよき伝統に立ち返って、「底層文学」というレッテルにとらわれることにない底層ナラティヴを構築する可能性を探るべきだと主張しています。
中国近現代思想史につきまとうエリート主義的な啓蒙主義の呪縛--実は魯迅はそれを批判していたわけですが--をいかに逃れるかという問題は、ポスト社会主義(=ポストモダン)の中国において益々重みを増しているということでしょうか。

Wednesday, January 23, 2008

福柯和哈耶克

『読書』2008年第1期に、《友爱、哲学和政治:关于福柯的访谈》(「友愛、哲学、そして政治:フーコーをめぐるインタヴュー」)という文章が掲載されています。汪民安(北京外国語大学)氏がダニエル・ドフェール(Daniel Defert)氏に対して行ったインタヴューです。ドフェール氏は『ミシェル・フーコー思考集成』の編者として知られている人です。汪氏によれば、彼は「フーコーと共同生活をし」、「フーコーの生活の中で最も重要な人物」であり、「フーコーの重要な政治活動に密接に関わっていた」人物であり、ドフェール氏自身のことばによれば、「フランスのマオイスト」であり、フーコーとの関係を「最初から平等の基礎の上に」、「権力がまったく介在することなく」構築してきたのだそうです。インタヴューは彼らのプライヴェイトな交友関係を中心に展開し、ドゥルーズやロラン・バルトとの関係が語られます。また、バタイユとフーコー、ブランショとフーコー、さらにそこから遡るようにニーチェとフーコーといった、フーコーの思想や表現の形成に深く関わっている作者についても簡単に触れられています。よくわかりませんが、バタイユブランショは、たぶんまだ中国ではあまり広く読まれてはいないのでしょうか?(リンクはバタイユとブランショの中訳本です。)
汪氏の質問で、おもしろいなと思ったのが、フーコーがハイエクに対してどうだったのかという問いです。汪氏は「過去十年間で中国で最も大きな反響を呼んだ西洋の思想家はおそらくフーコーとハイエクでした。彼らは中国の知識界で激しい論争を巻き起こしましたし、それぞれまったく異なった追随者を獲得しています。一般的に、彼らは左派と右派の代表であるとみなされています。」と言います。中国のフーコーが「左派の代表」と言えるのかどうかはわかりませんが、良くも悪くも「右派の代表」ハイエクの影響の大きさがよく表れています。ドフェール氏の答えを以下に抄訳しておきます。

フーコーがハイエクに注目したのは彼自身の研究の移り変わりに関係しています。彼は当時、統治術(中国語に従ってこう訳しましたが、gevernmentalityのことだと思います。日本語では一般に「統治性」と訳されているようです。)について研究していました。フーコーは研究の中で、18世紀末における統治術の変化を意識するようになりました。18世紀、統治術は人口、寿命、健康といった生命に関わる問題の方に向いていきました。フーコーにとって、自由主義は一見、新しい統治術を探す経済的な方法でしたが、ある方面から見れば、新自由主義もしくは経済的自由主義は政治的手段であって、単なる経済思想ではありませんでした。それは生命や人口を管理するだけでなく、国家を制限しようとするものでした。フーコーは統治術という角度から新自由主義を考えました。どうやってか?例を挙げましょう。例えば、フランスで世帯補助金をめぐる政治的論争があり、世帯補助金は国家が児童による違法な犯罪を監視するものではないかという議論があります。つまり、ここには監視と懲罰という司法手段が存在すると同時に、それは生命を監視する経済的手段でもあるわけです。新自由主義の経済思想とハイエクに対するフーコーの関心は、彼が新自由主義の生命を管理する手段を政治哲学的問題として考えた点にあります。
しかし、フーコーはまた新自由主義の問題点を分析してもいます。(中略)フーコーはアナキストでしたから、新自由主義のハイエクには反対でしたし、自由経済の政治にも反対でした。彼はただそれを政治術の問題として分析しました。しかし、フーコーとハイエクの国家に対する批判には似ているところがあります。フーコーには彼なりの自由主義的/無政府主義的な一面があります。しかし、フーコーとハイエクの政府に対する批判のしかたは同じではありません。新自由主義者の批判対象は主に、国家による介入的な経済政策ですが、無政府主義は国家に対して純粋な政治的批判を行います。自由主義者は個人が生命を管理し、国家ではなく、市場や自然法が管理者の役を演ずるべきだと考えます。モラリストとしてのアナキストは国家によってではなくモラルによって管理されるべきだと考えます。この点で、フーコーは国家を拒否していました。

むしろ、楊念群氏の『再造病人』が示していたように、フーコーが提出した問題系を議論の枠に据えながら、そこに収まらないような中国近代の生成プロセスを明らかにしていくような仕事が「右」「左」にかかわらず、中国語圏の学術思想の価値を高めていくものであるように感じられます。現代中国における批判思想の対象が、フーコーが批判した近代性と同様の近代性であるのかどうかといえば、必ずしもそうとばかりはいえないでしょう。

Tuesday, January 22, 2008

走进八十年代

このブログをはじめたばかりのころ、80年代回顧録について書いたことがあります。生産部門の国有管理という社会主義体制の根幹を堅持しながら、文革否定の上に成り立つ思想解放が進んだこの時代は、今にして思えば、特殊な十年だったのではないでしょうか。このようなもの言いは極めてあいまいでよろしくないのですが、その特殊性は、かつてなくもう二度と返ってこないようなものという意味で真の特殊なのではないかと思います。NGO活動などの広がりというかたちで、学生を中心に青年層の社会・政治意識が昂じているのを伝え聞けば、そこに80年代に見られたような啓蒙主義的熱狂に似たものを感じることもあります。しかし賑々しい言論の背後にある社会経済の基本構造はすっかり様変わりしており、その結果、希望のありかが絶望的なまでに見えにくくなっているような状況がそこにはないでしょうか。拙訳による汪暉氏の「脱政治化」をめぐる論文は、そうした状況の中で、高度な緊張感を読者に引き起こさずにはおかない問題作であったと思います(残念ながら、日本国内での反響をあまり聞かないのですが)。
同時に、中国におけるポストモダニズムが始まったのも80年代でした。しかし、中国の知識界にポストモダニズムを伝えたのが、マルクス主義思想家フレドリック・ジェイムソン(Fredric Jameson)であったことは、ポストモダンとは何かを考える際に無視できない要素ではないでしょうか。中国ではジェイムソン文集が出版されており、その影響の大きさがうかがわれます。北京大学での有名な連続講演(《后现代与文化理论》)を当時聞いていた学生、張旭東氏は、その後ジェイムソンのもとに留学し、今日では、中国語世界におけるポストモダン批評家として、重要な著作を多く発表しています。例えば、英文の文集Postmodernism and China(Arif Dirlikとの共編)に彼が記した長いエピローグは、やや古くさくなった観もありますが、示唆に富むものだと思います。ポストモダンという境位から批判的省察を行う場合に、召還されてくる中国的モダンをどのように認識するのか、という問題は、直接今日的問題に跳ね返ってこざるを得ません。
中国語圏の批判思想を理解するためにも、もう一度80年代の思想状況を復習しなければならないと思うこのごろです。

Monday, January 14, 2008

《思通博客》开博一周年(日文版)

ブログ開設以来のアクセス数は延べ千近くになりました。ここに掲載してきた情報はそのほとんどが個人的な興味の赴くままのもので、もともとたいした価値もないものばかりです。閲覧者のほとんどは私のことを知らない人であることは間違いありません。周囲にわたしがブログをやっていることを知っている人はほとんどいませんし、わたしもそのことを特にアナウンスはしてきませんでしたから(残念なのは、授業に出てくださっている学生の皆さんの興味を引くような話題を提供できていないことです)。ですから、わずか一年のことは言え、インターネットの意義について再認識することができたと思います。このブログ自体はごくごく小さなものに過ぎませんが、969もの足跡は、人間の思考活動が実は孤独なものではないのだという、極めて単純な、かつ重要な道理を気づかせてくれるには十分なものです。閲覧してくださった方々には心から感謝したく存じます。このとろ個人的な理由で更新回数が激減していますが、そのうちまた増やせると思います。また関心ある事柄についてアップロードしていきますので、閲覧とご批評をお願いします。

Saturday, January 12, 2008

《思通博客》开博一周年

开博以来的访客数量已经快到一千人次了,我在这里发布的信息大多都属于我个人随感而写的东西,本来没有多大价值。访客中的绝大多数应该都不认识我,这个我可以肯定。因为我周围知道本博客的人几乎没有,我也从来不告诉他们我在撰写博客(遗憾的是,我未能给上我的课的同学们发布过能引起他们兴趣的信息)。所以,这短短一年的经历让我重新认识到了网络交流的意义。虽然本博客只是在网络的汪洋大海中几乎渺不可见的小站而已,但这969个足迹使我再次知道一个极简单而又很重要的道理:人的思考活动其实并不是那么孤独的。我在此向所有的访客朋友们表示由衷的感谢。
最近由于个人原因,发贴次数明显减少,但这只是暂时的。我还会即时上传我所感兴趣的话题,敬请各位访客朋友阅读并提出宝贵意见。