Thursday, March 20, 2008

李零《重归古典》

『読書』2008年第3期に、李零《重归古典:兼说冯、胡异同》が掲載されています。作者の李零氏は北京大学中文系教授。于丹氏のテレビ『論語』講義が反響を呼んで社会現象となって以来、孔子と『論語』をめぐるさまざまな議論が中国の主要メディアをにぎわわせているようですが、そのような中で『喪家狗』(山西人民出版社、2007年)という『論語』注釈本を出版して物議を醸した人でもあります。『家をなくしたのいぬ』という揶揄のことばを孔子がよろこんで受け入れたというエピソードは『史記』孔子世家に見えるものですが、李零氏はこのことばを取り出して、現代の儒学復興熱の中で一人祭り上げられる孔子をもう一度等身大の人間に引き戻そうとします。

『論語』を読んでわたしが感じるのは、「孤独」という二文字だ。孔子はとても孤独だった。いまでは孔子にセラピストになってもらおうとする人もいるが、実際のところ、彼自身の心の病は誰にも治すことができなかっただろう。

『読書』掲載のこの文章の中では、中国哲学史を確立した胡適と馮友蘭の哲学史論を比較しながら、先秦諸子を平等に並べた胡適の「文化的立場」を再評価しています。馮友蘭は胡適の方法に従って諸子に関する歴史叙述から出発しているにもかかわらず、儒家の中国思想史における地位を「君主立憲制下の君主」のように扱っているといいます。それに対して、胡適は諸子を平等に扱おうとしていたと李零氏は述べます。つまり、「馮友蘭は諸子学を経学にし、経学を理学にし、理学を新儒学にした」のに対して、胡適は「諸子学を拡大して思想史にした」というのです。

胡適の出現が引き起こしたのはパラダイムの転換だった。彼の書は馮氏の書とは方向が正反対だ。一方は一家から百家へ戻ろうとするものであり、もう一方は百家からもう一度一家へと返るものだ。馮氏は「順に似るも逆」であり、胡適は「逆に似るも順」なのだ。今日この歴史を振り返る際には、胡適先生に特に感謝しなければならない。なぜなら彼がいなければ、わたしたちは百家争鳴ということばの意味を知ることはなかったのだから。彼が示した方向性こそは、中国文化の新たな方向性を示すものだった。

そして李零氏はこう結論します。

諸子学の復興、それこそが古典へ返るということだ。その古典とは真正なる古典なのだ。

わたし自身、博士論文の中では、胡適の哲学史論に「漢学的哲学」の特徴を見いだして、現代新儒学につながる「宋学的哲学」と区別しようと試みたものですから、この李零氏の主張には十分共感するところがあります。ただ、もう少しいうならば、胡適のこうした哲学史ナラティヴを思想史的に準備したのは章炳麟でした。
このブログではわたし自身の専門には言及しないことがわたしの中でのルールになっているので、これ以上は述べません。ただ、近年来の儒家ブームを相対化する李零氏のこのような視点は、実は学術史研究内部のアカデミックな議論にとどまらない問題を提供しているものと思われます。

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