Saturday, March 15, 2008

图雅的婚事(日文版)

ベルリン映画祭金熊賞を受賞した、『トゥヤーの結婚』を見ました。この映画は内蒙古西部のゴビ砂漠に暮らすモンゴル族を題材にしていますので、マスメディアも「モンゴル」という文化的記号を強調してこれを紹介しています。この映画の監督と女性主人公を演じた俳優がいずれも漢族であったことを知らなかったわけではないのですが、見る前にはモンゴル族の遊牧生活を描いたものだということを疑っていませんでした。しかし、観賞してみてそうではないことをはじめて知りました。つまりこれもまた、「水を渇望する物語」だったのです。
「水を渇望する物語」といえば、すぐに思いつくのが80年代に公開された代表的な二つの映画、『古井戸』と『黄色い大地』です。これらの作品の中では、長らく続いてきた農耕文化は、閉鎖性、貧困、停滞、愚昧を象徴するものでした。物語の登場人物たちは、それぞれ異なった形で、水に対する渇望を表現していました。『古井戸』では、水は自由と意志を象徴しており、『黄色い大地』では、黄河の水が、啓蒙的理想へと続いているのでした。『黄色い大地』に比べると、『古井戸』のほうはより楽観的であるようです。つまり、それは、知の力によって人々は立ち後れた生活を克服し、自らの運命を把握できるということを伝えていました。これは、ちょうど当時の新啓蒙運動における楽観的な雰囲気と重なり合うものだったでしょう。一方の『黄色い大地』は、比喩的な語り方で深い省察をメッセージ化していました。すなわち、革命思想を主とする啓蒙運動が結局は挫折せざるを得ず、黄土高原に生きる人々は、黄河が海に流れ込む壮大な光景を目の当たりにすることはできないであろうと。『河殤』というテレビシリーズが描いていたとおり、大海に流れ込む黄河のイメージは、農耕文明の商工業文明への流入を予示していたのでした。80年代には「球籍」ということばで、資本主義的グローバル化のプロセスに参与していかんとする中国の欲望が主張されていました。この二つの映画の、水に対する共通するアレゴリーとはすなわち近代化のことであったといってよいでしょう。『黄色い大地』は中国革命の道に疑問を投げかけていたわけですが、それでもなお、近代的啓蒙の可能性をあきらめていたわけではありませんでした。
21世紀に入り、近代化神話には隠すことのできない欠陥が見られるようになりました。『トゥヤーの結婚』には、80年代における二つの水の物語とははっきり異なる前提が存在しています。つまり、近代的な工業社会の実現は必ずしも人々の幸福の実現ではないということです。「先に豊かになった」一部分の人々は、心の空虚にさいなまれています。したがって、水を掌握するということも、ここでは近代的な物質文明の招来であるとはとらえられていません。かたくなに井戸を掘り続けるという誠実さによってトゥヤーを勝ち取ったセンゲーは、『古井戸』の主人公や『黄色い大地』の八路軍兵士のような、教養を備えた英雄的人物像ではありません。彼は自分の妻に何度も振られ続ける甲斐性のない男性でした。彼の妻は金銭に対する誘惑を断ち切ることができず、彼が妻の好意を引き寄せるために無理をして買ったトラックすらも、すぐに妻によって売り払われてしまいます。センゲーの井戸掘りは結局成功するのでしょうか。物語はその結末を教えてはくれません。しかし、センゲーとトゥヤーにとって、それは最も重要なことではないでしょう。彼ら、それにトゥヤーの前夫バートルは、皆生活の中でそれぞれ異なった傷を受けています。それでもなお彼らが生き続けようとする理由があるとすれば、それは、彼らを結びつけている愛情に他なりません。愛情は一方通行のものではありません。トゥヤーのかつての同級生は石油で一儲けし、アラシャン盟のゴビに帰ってきて、トゥヤーにプロポーズしますが、結局振られてしまいます。つまりこの二人の間に愛情は成立しようがなかったのです。センゲーの井戸掘りは失敗に終わるかもしれません。しかし、そのことによって彼らの愛情が破滅することはないでしょう。この物語の中では、トゥヤーやバートル、センゲーら三人は皆、生活の無情さを実感し、心身共に傷ついています。そして、そのような痛みを経た上でこそ、彼らはともに寄り添い合うことを決めるのです。彼らを救うのはもはや近代化や啓蒙思想ではありません。この点は、80年代の水の物語と大きく異なるところです。
実は、このような物語はモンゴル族の習俗と必然的なつながりがあるわけではありません。全編で漢語が使われているという簡単な事実がそれを伝えているだけではありません。井戸を掘るという行為自体、定住生活、つまり農耕文化の生活においてはじめて必要となる作業であり、遊牧生活を送るモンゴル族の伝統的な生活スタイルは、井戸水によって生活水を確保する必然性はありませんでした。したがって、これをご覧になる人が、この映画が専らモンゴルの物語を語っていると理解するとすれば、それは誤解でしょう。この物語が語っているテーマを民族の範囲に狭めるべきではないと思います。それは、中国の近代化過程において今日まで続いているテーマに関する深刻な物語なのです。ただそのモンゴル的な記号のみに目を奪われていると、作品の持つ普遍的な意義を見失いかねません。

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