Tuesday, July 15, 2008

西藏·全球化·资本主义

『現代思想』7月臨時増刊「総特集:チベット騒乱」には、「三・一四事件」と呼ばれるチベットでの暴動を冷静に分析する文章が数多く掲載されています。巻頭に寄せられたパンカジ・ミシュラ「モダニティというユートピアとの戦争」(福田将之訳)は次のような問いかけから始まっています。

ラサで反乱を起こしたひとびとが中国政府ではなく、漢民族系の移入者に襲いかかったということは、どうでもいいことなのだろうか。中国当局はどちらかといえばそれまで抑制的な姿勢をとってきていたということは、度外視してもいいのだろうか。中国の中産階層のチベット人少数民族に対する反感は、わたしが先週中国にはいったときにも感じたように非常に大きなものとなっているが、その陰で、中国政府の反応は慎重なものだという点は、考慮しなくてもいいのだろうか。

わたし自身、このたびの騒動はテレビや新聞で報じられているのとはまったく異なった背景のもとで分析されるべきだと考えていますので、彼らの文章には肯ける点が多々含まれています。ミシュラ氏は言います。

中国にとっては、自分が消費資本主義とファウストのような契約を結んで魂を売ってしまったために、根っこを失うことになった数億の不運な中国人のほうが、チベット人たちよりも政治的には重要であった。

漢民族の移入者を襲うチベット人、というテレビで放映される映像は、中国沿岸部の富裕な都市に住む中産階層のナショナリズムに火をつけた。「恩知らず」のチベットに対する強硬な弾圧を支持している裕福な中国人の姿は、デリーやムンバイで、警察に向かって、立ち退きに抵抗するひとびとを「叩きつぶせ」とけしかける中産階級のテレビコメンテーターとよく似ている。この声からも明らかなように、今日ほどに市場原理によるグローバリゼーションが、富裕で教育程度の高い受益者に、貪欲で獰猛な文化を教え込むことに成功している時代もないのである。

このたびの問題を冷戦時代のイデオロギー対立構図の延長と見ることは、とりもなおさず、ポスト冷戦時代のグローバル資本主義と脱政治化の趨勢を側面から支援・強化するものではないでしょうか。ラカン主義のカルチュラル・スタディーズ批評家ジジェクが次のような警句を発しているとおりです。

おそらく、われわれが中国の活仏転生についての法案をかくも突飛に感じるのは、彼らがわれわれの感受性に対する異物であるからではない。そうではなく、われわれが長いあいだ行ってきたことの秘密を、彼らが吐き出しているからだ。自分があまり真剣に受け取らないものには敬意を払って寛容に接し、その政治的諸帰結に関しては、法を持って抑えつけようとするという秘密を。(「中国はいかにして宗教を獲得したか」、松本潤一郎訳)

敢えて言うならば、これらの論者たちは相変わらず漢-チベットの二元論的構図から解放されていません。それでは問題は彼らの意図を離れて、ほかの言説に絡め取られる恐れがあります。そして、そこにはデモクラシーの名を借りたポピュリズムも潜んでいることでしょう。マルクス主義を標榜する政党が国家を支配しているということは、単なる看板の掛け替え忘れなのではなく、多民族共存原則のような価値理想を自らの正統性言説の中から引き出し得る可能性をたとえわずかでもつなぎ止めているという点は無視できないものと思われます。

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