Monday, November 24, 2008

《和我们的女儿谈话》

王朔といえば、1980年代以降、最もよく知られよく読まれている小説家です。市井の人物像が生き生きと描かれ、その中に時代に対するかなり冷徹な観察や風刺が織り込まれている点がその人気の秘訣でしょう。とりわけ彼が紡ぎ出す諧謔を含んだ軽妙なことば-「调侃」(ことばによるあざけり、からかい)は、彼独特の文体を構成していると言われます。実はわたしは、まだきちんと彼の作品を読んだことはないのですが、彼の作品を改編してつくられた映画、名作『太陽の少年』(《阳光灿烂的日子》)からも、十分にその魅力と才気がうかがわれるのではないでしょうか。これは《动物凶猛》という中編小説からの改編です。
その王朔の近作が標題の『和我们的女儿谈话』(我らの娘たちと語る)です。『読書』2008年第11期の行超《写给失意的得意之作:走进王朔《和我们的女儿谈话》》によれば、語り手の「北京老王」が2034年の北京や中国、ひいては世界のようすを語るという物語。

王朔が描く2034年には、人間が物質的生活の中で突き当たるあらゆる問題は高度に成熟した科学技術によって完全に解決され、人間は「科学技術」が何たるかということすらわからなくなってしまっている。一針の注射で免疫力が改善され、スペースシャトルはエレベーターとして使われるようになる……しかし、科学技術とは反対に、人々の精神生活は極端に混乱した状態を呈している。「憤青」は非物質文化遺産として重点保護を加えられ、紙媒体の書籍を研究することが人類学研究分野における重要課題になり、名声を博した北京映画学院はアジアゲーム大学に変身している、などなど。人間性の危機はますます募り、人と人の関係は想像しがたいほどに疎遠になって、「利用する」ことすら覚束なくなってしまっている。

もちろん、筆者が指摘しているように、これは未来の空想物語と言うよりも、変化する人と社会のありように対する一種の「発掘と遠近法」としての観察と思考であることは言うまでもありません。

王朔は言う、これは「失意の中の人々のために書いた」本であると。しかし、思い通りになっている人々こそなおさら読むべきものだ。なぜならそれは生の本来の姿をはっきりと見せつけてくれるからだ。生活の中には楽しみもあれば、傷つくこともあり、希望もあれば、失望もある。だがより重要なことは、失意の人であれ、思い通りになっている人であれ、皆生きていかなければならないということ、力強く生きていかなければならないということだ。

最後のひとことの背後にある空虚さ、ドライさがわたしにはどうも気になります。筆者が特に言いたいのは、「思い通りになっている人々(得意中的人们)」のほうなのでしょうか。彼らこそが「生きていかなければならない」ことを知らなければならないというのは一体どのような背景と意図のもとで発せられることばなのでしょう?

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