Wednesday, January 23, 2008

福柯和哈耶克

『読書』2008年第1期に、《友爱、哲学和政治:关于福柯的访谈》(「友愛、哲学、そして政治:フーコーをめぐるインタヴュー」)という文章が掲載されています。汪民安(北京外国語大学)氏がダニエル・ドフェール(Daniel Defert)氏に対して行ったインタヴューです。ドフェール氏は『ミシェル・フーコー思考集成』の編者として知られている人です。汪氏によれば、彼は「フーコーと共同生活をし」、「フーコーの生活の中で最も重要な人物」であり、「フーコーの重要な政治活動に密接に関わっていた」人物であり、ドフェール氏自身のことばによれば、「フランスのマオイスト」であり、フーコーとの関係を「最初から平等の基礎の上に」、「権力がまったく介在することなく」構築してきたのだそうです。インタヴューは彼らのプライヴェイトな交友関係を中心に展開し、ドゥルーズやロラン・バルトとの関係が語られます。また、バタイユとフーコー、ブランショとフーコー、さらにそこから遡るようにニーチェとフーコーといった、フーコーの思想や表現の形成に深く関わっている作者についても簡単に触れられています。よくわかりませんが、バタイユブランショは、たぶんまだ中国ではあまり広く読まれてはいないのでしょうか?(リンクはバタイユとブランショの中訳本です。)
汪氏の質問で、おもしろいなと思ったのが、フーコーがハイエクに対してどうだったのかという問いです。汪氏は「過去十年間で中国で最も大きな反響を呼んだ西洋の思想家はおそらくフーコーとハイエクでした。彼らは中国の知識界で激しい論争を巻き起こしましたし、それぞれまったく異なった追随者を獲得しています。一般的に、彼らは左派と右派の代表であるとみなされています。」と言います。中国のフーコーが「左派の代表」と言えるのかどうかはわかりませんが、良くも悪くも「右派の代表」ハイエクの影響の大きさがよく表れています。ドフェール氏の答えを以下に抄訳しておきます。

フーコーがハイエクに注目したのは彼自身の研究の移り変わりに関係しています。彼は当時、統治術(中国語に従ってこう訳しましたが、gevernmentalityのことだと思います。日本語では一般に「統治性」と訳されているようです。)について研究していました。フーコーは研究の中で、18世紀末における統治術の変化を意識するようになりました。18世紀、統治術は人口、寿命、健康といった生命に関わる問題の方に向いていきました。フーコーにとって、自由主義は一見、新しい統治術を探す経済的な方法でしたが、ある方面から見れば、新自由主義もしくは経済的自由主義は政治的手段であって、単なる経済思想ではありませんでした。それは生命や人口を管理するだけでなく、国家を制限しようとするものでした。フーコーは統治術という角度から新自由主義を考えました。どうやってか?例を挙げましょう。例えば、フランスで世帯補助金をめぐる政治的論争があり、世帯補助金は国家が児童による違法な犯罪を監視するものではないかという議論があります。つまり、ここには監視と懲罰という司法手段が存在すると同時に、それは生命を監視する経済的手段でもあるわけです。新自由主義の経済思想とハイエクに対するフーコーの関心は、彼が新自由主義の生命を管理する手段を政治哲学的問題として考えた点にあります。
しかし、フーコーはまた新自由主義の問題点を分析してもいます。(中略)フーコーはアナキストでしたから、新自由主義のハイエクには反対でしたし、自由経済の政治にも反対でした。彼はただそれを政治術の問題として分析しました。しかし、フーコーとハイエクの国家に対する批判には似ているところがあります。フーコーには彼なりの自由主義的/無政府主義的な一面があります。しかし、フーコーとハイエクの政府に対する批判のしかたは同じではありません。新自由主義者の批判対象は主に、国家による介入的な経済政策ですが、無政府主義は国家に対して純粋な政治的批判を行います。自由主義者は個人が生命を管理し、国家ではなく、市場や自然法が管理者の役を演ずるべきだと考えます。モラリストとしてのアナキストは国家によってではなくモラルによって管理されるべきだと考えます。この点で、フーコーは国家を拒否していました。

むしろ、楊念群氏の『再造病人』が示していたように、フーコーが提出した問題系を議論の枠に据えながら、そこに収まらないような中国近代の生成プロセスを明らかにしていくような仕事が「右」「左」にかかわらず、中国語圏の学術思想の価値を高めていくものであるように感じられます。現代中国における批判思想の対象が、フーコーが批判した近代性と同様の近代性であるのかどうかといえば、必ずしもそうとばかりはいえないでしょう。

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