Wednesday, January 30, 2008

书写底层

近年来、中国では「底層文学」がジャンルとして定着してきたようです。これについて、尾崎文昭先生(東京大学東洋文化研究所)が紹介していたことは以前にも触れたとおりです(その後尾崎論文は中国語に翻訳され、左岸文化にアップロードされました)。「底層」ということばの起源はsubalternの翻訳語の一つだと思われます。subalternという概念は、「庶民」とか「従属階級」とか「属下」などいくつかの訳し方があり、統一されていません。しかし「底層」ということばは、中国の社会経済体制の階層構造が示す顕著な二分化傾向のうちの一端を示すことばとして、明確なリアリティを持っているのでしょう、すっかり定着した観があります。強烈なメッセージ性を以て文芸界に衝撃をもたらした曹征路『那儿』の登場によって、「底層文学」が新たな左翼文学として確立したのでした。しかし、それがジャンルとして確立したあと、どのような展開を見せていったのか、どのような可能性を開示しているのか、ということについてはさまざまな意見があるようです。
例えば、『天涯』2008年第1期は、二人の識者の相対立する批評を並べて掲載しています。李云雷《“底层文学“在新世纪的崛起》(李雲雷「新世紀における「底層文学」の台頭」)と洪治纲《底层写作与苦难焦虑症》(洪治綱「底層を書くことと苦しみの不安障害」)です。李氏の文章は、もともと「乌有之乡」で行われた講演で、それを録音整理したものが左岸文化にアップされています。李氏が、その題名が示すとおり、「底層文学」の可能性を最大級に評価しているのに対し、以前にも紹介した洪氏は、この文章の中でも、叙述対象としての「底層」が、読者という消費者に向かって、その欲望をあおるような存在として描かれていることに強い危惧感を示しています。
おそらく、洪氏の指摘が正しいのだと思います。香港の『二十一世紀』2007年10月号は、摩罗《五四新文学与底层文化的隔膜》(摩羅「五四新文学と底層文化を隔てる壁」)という評論を掲載しています。摩羅氏は「底層」と名指される社会階層に固有の文化があり、それは五四新文化運動のなかで活躍したエリートたちの啓蒙主義的世界観とは相容れないものであったと批判しています。その批判のしかたは、平板なものであり、魯迅文学の批判的意義を著しく狭隘化、ひいては歪曲すらしてしまうおそれがあり、その限りでは取るに足らないものだと思われます。しかし、今日の「底層文学」が、その消費者たちの優越性を再確認させる機能を一面で果たしているとするならば、摩羅氏のエリート主義批判は決しておろそかにできないものとなるでしょう。洪氏が「苦しみの不安障害」と揶揄するのは、そのような消費者の心理を満たさんがために、「底層」の生を一層悲惨で反道徳的なものへと誇張していかざるを得ないような作者の心理に対してなのです。
こうした傾向に対して、杨光祖《底层叙事如何超越》(楊光祖「底層ナラティヴはいかに乗り越えるか」)は、もう一度、魯迅、沈従文、老舎など近代小説のよき伝統に立ち返って、「底層文学」というレッテルにとらわれることにない底層ナラティヴを構築する可能性を探るべきだと主張しています。
中国近現代思想史につきまとうエリート主義的な啓蒙主義の呪縛--実は魯迅はそれを批判していたわけですが--をいかに逃れるかという問題は、ポスト社会主義(=ポストモダン)の中国において益々重みを増しているということでしょうか。

No comments: