Wednesday, August 20, 2008

《三峡好人》:变化的"静物”

贾樟柯《三峡好人》(『長江哀歌』。《任逍遥》の場合もそうでしたが、日本語訳タイトルにはやはり首をひねらずにはいられません。「好人」、つまり「いい人」ということばの意味深長さは作品を見ればひしひしと伝わってくるはずですが。)がすばらしい映画だということは以前から聞いていましたが、夏休みになってようやく念願がかないました。この映画にはStill Lifeという英題がつけられています。つまり「静物画」。賈氏自身はこれについて、

三峡を訪れたときに物質に対するある種の関心が再び呼びさまされたからです。三峡のふつうの住民たちのうち、多くの世帯はとても貧しいのです。

と解説しています。「物質に対する関心」は、ダムの底に沈むために取り壊されようとしている町の姿そのものが、饒舌なほどに存在感を示しているのですが、所々に、唐突にあらわれてくる小物たちが印象的です。それは、「たばこ」、「酒」、「茶」、「あめ玉」なのですが、それらがさりげなくあらわれてくるカットには、中国語でそれらを示す名詞「烟」、「酒」、「茶」、「糖」が英語のルビつきで浮き上がってきます。これらの「物質」は、現代中国の日常諸儀礼には欠くことのできないものばかりで、人と人との関係を媒介する重要なアイテムです。
ところで、上の引用は、『読書』2007年第2期の巻頭に掲載された座談会(《《三峡好人》:故里、变迁与贾樟柯的现实主义》)からのものですが、この中で、汪暉氏と崔衛平氏のやりとりがおもしろかったので摘録しておきます。

汪暉:わたしが述べたい二つめの問題は、変化とセレモニーについてです。韓三明が演じた人物は女房を買った、と言ってもそれは非合法の売買結婚で、女房に逃げられてしまう。16年後に彼はこの女房を探しだして、まだ会ったことのない娘に会いたいとやって来たのです。趙濤が演じた人物はひともうけしようと単身三峡にやってきた夫を探しにやってくる。彼らの場合は学歴があって自由恋愛の末結婚しています。この二つの「探す」物語はちょうど正反対ですね。愛情を保ち続けられたのは非合法な結婚で、自由恋愛から始まった方の婚姻は逆に何も残せなかった。賈樟柯の映画の中心的テーマは変化なのです。(中略)さまざまなナラティヴの要素は変化をめぐって展開しています。故郷はまさに喪失しようとしており、結婚、近隣、親戚友人などの関係も変わっていく。こうした変化というテーマ、もしくは不確実さというテーマには、変わらないもの、確実なものに対する追求が伴われています。しかし、結局のところ、見つけられたものもまた変質してしまっている。「見つかる」こと自身が自己否定になっている、言い換えれば「探す」ことは自己否定のあり方になっているのです。(中略)「たばこ」、「酒」、「茶」、「あめ玉」という四つのモチーフ、それらは儀式の道具であり、人々の関係を「物」のかたちで表現しているものですが、そうした人間関係の中で、「物」は物自身であることを超越してしまうのです。売買結婚は金銭を媒介として行われますが、韓三明の最終的な決断はと言えば、山西の炭鉱に帰って金を稼ぎ、16年前の女房を取り戻すことだったのです。金を稼ぐことは愛情を保つための努力になったわけです。こういうところに、わたしたちの時代のマジカルな性質が深く表現されています。
(中略)
崔衛平:わたしの考えは違います。直接的に描くという場合、それが具体的にどんな対象に対して行われているでしょうか。映画の中での「人」に対する表現と「物質的対象」に対する表現とは別物です。「物質的対象」を表現するには、わたしたちは直接的に描くことが必要です。まるで、対象が直接わたしたちの前に顕現してくるようなかたちで。ただし、「人」を表現する、つまり、人物の運命を表現する場合には、より深く、周到に理解した上で作り上げなければなりません。(中略)「物質的対象」、例えばさっき述べたような廃墟の光景を表現するには、「事実」に対する基本的な態度が必要ですが、人物を処理する場合、そこで処理されるのは人物間の関係であり、そこには社会関係も含まれてきます。この「関係」とは断片的な事実とは異なるのです。もちろん、売買結婚のあとそこにとどまり続けたいというような「事実」もあるでしょう。しかし、「関係」という点からいうと、社会全体の大きなコンテクストのなかにおいてみれば、つまり、解釈的にみるならば、売買結婚に未練を残すというのは正しくないのです。というのは、とにもかくにも、社会的関係からいえば、売買結婚は認めがたいものだからです。このような表現のしかたは、売買結婚における女性の気持ちを無視しています。(中略)映画の中の二つの結婚に関する処理は、女性の本当の気持ちを無視したものであり、女性が結婚生活の中で体験したものを比較的無視しています。彼女たちは長い間寂しい思いをしたり、絶望的に待ち続けたり、あるいは、「物」として売り買いされていっているのに、何ら苦痛を表に出すこともなく、男たちの前でつねに冷静で落ち着いた、決してトラブルメーカーにならない存在としてふるまっています。ここには問題があると思います。
(中略)
汪暉:婚姻関係と男女関係はトータルな社会変遷の深さをセンシティヴに反映しています。『三峡好人』の中では、売買結婚と自由恋愛が何とひっくり返っているのです。でもこれは売買結婚に対する肯定でしょうか。愛情を裏切ったことへの寛大なのでしょうか。わたしはそうではないと思います。これは社会変遷に対する問いかけなのです。賈樟柯の叙述の中で注意するべき点が二つあります。ひとつは彼の動機です。つまり、ふつうの人にとって、この変遷は、すでに始まっている三峡ダムの工事と同様、既定の現実であり、それを肯定しようと否定しようと、変遷はもうとどまることがない。しかし、生活はそれでも続けていかなくてはならないのです。こういう状況は中国の現実をめぐって知識界で行われている論争とは全く違っています。知識人たちはこの変遷に明確な方向性を与えたい、このプロセスの全体に介入していきたいと思っていますが、ふつうの人々にとっては、変遷の中で自分の態度や位置をはっきりさせて、自分に属する生活を探し求めなければならないのです。彼らは、変化は一人一人の生活の中にあるということがわかっています。彼らは自分の生活の中で決定を下すことしかできません。そうしなければ、変化の中で自分の未来を探し当てられないのです。
(中略)
崔衛平:現実の「既定性」が前提となるという話なら、わたしの心配はもっと深くなりますね。その危険性は、存在しているものこそは理にかなっているのだ、という方向に導かれていくということです。もちろん、中国の現実は何らかの段階にとどまっているはずがなく、前に進んでいかなければなりません。しかし、前に向かって進むと同時に、「批判」という次元を加える必要があります。すでに「現実」になってしまった何らかのものを継続的に批判していく、こうした「現実」が形成されてくる条件や前提を批判していかなければなりません。現実を受け入れると同時に、そうした現実を生み出した不条理な原因まで受け入れてしまうというのではないのです。

人は「物」を媒介にして生きているといっても、「物」を取りまく「関係」はつねに可変的、流動的であることが「たばこ」、「酒」、「茶」、「あめ玉」には象徴的に表現されています。そして、より大きな「物」としての都市や社会もまた、不変なものではあり得ず、歴史の中でつねに形を変えていく。それは、人為的な行為でありながら、人々はそれに翻弄されていかざるを得ません。汪暉氏が「知識人」と「ふつうの人」とは違うといっていますが、実は「知識人」すらもそのような変化の波の中では受け身たらざるを得ないということ、そして、そのような歴史の勢いの中で、「知識人」たるが故に深刻な苦痛を味わった時代があったことを知らない人はいません。「礼」は中国の儒家伝統の中では、「法」に近い実践的規範であったという議論があります。しかし、本当にそうなのでしょうか。さまざまに形を変えていく諸々の複雑な「関係」の中でしか、「物」はあり得ないのだとしたら、そうした「物」に関係を象徴させる「礼」の普遍的な規範性はいったいどうやって担保されるというのでしょう?これは、崔氏の汪氏に対する批判の要点をなすアポリアにつながっていると思われます。もちろん、汪氏はこの点で崔氏の批判を否定しないでしょう。「現実が形成されてくる条件や前提に対する批判」は『現代中国思想的興起』の主題に直接つながってくると思われるからです。

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