Wednesday, August 6, 2008

贾樟柯《任逍遥》

遅ればせながら、賈樟柯の《任逍遙》を見ました。日本では『青の稲妻』という題で2002年に上映されていますが、わたしは恥ずかしいことにそのことを知りませんでした。邦題がこのようになった経緯は知るよしもありませんが、『荘子』第一篇の「逍遙遊」から得られた原題を生かすことがなかったのはもったいないことです。劇中に登場する人物たちの生は、改革開放路線の結果生じた、巨大なシステムの空隙の中で、一見「逍遥自在」であるかのように見えつつ、そして、「逍遥自在」に生きていきたいという願いを持ちつつ、実際には、絶望的なまでに状況の中にはめ込まれてしまっています。グローバル資本主義の進み行きの中で中国社会が激変していることはもはやいうまでもなく、都市と農村の格差(三農問題)として、それがもっとも深刻なかたちで表面化していることは、すでに広く知られているところです。ところがこの作品が描き出したのは、長距離バスターミナルの周辺で、あてもなくその日暮らしの頽廃的な生活をしている都市の青年たちです。彼らは商品宣伝のキャンペーンガールであったり、レイオフの不安にさらされながら(事実その後それが現実になってしまうのですが)、満足な生活費すらも得られないシングルマザーの息子であったりするわけですが、以前にもここで書いたことがあるように、急速な社会変化の中で既存の価値体系がことごとく崩壊していくのを目の当たりにしてきた彼ら都市周縁の若者層の経済的・精神的危機は、おそらく相当深刻なはずです。そして、それがもっとも突出しているのは、この作品の舞台になっている山西省大同市のような、これまで社会主義工業化モデルの中で建設が進められてきた典型的な地方の中小都市なのではないでしょうか。この作品に描かれた世界は、中国に、とりわけ西部地区(それと東北地区)にまちがいなく遍在しています。そして、この作品は、それを赤裸々に描ききったという点で、見事というほかありません。この意味で、日本の高度成長期によくあったような炭鉱町での青春物語(大同が有名な石炭の町であることは中国に関心のある人なら当然ご存じでしょう)とこの作品を同列に並べることは不適切です。わたしは贾樟柯の作品はまだ『世界』を見ただけです。今回も『三峡好人』を見たかったのですが、レンタル中でしたので仕方なく《任逍遥》を借りたつもりでした。ところが、『世界』からは受けることのなかった強烈な衝撃を思いがけず受けることになりました。彼のように、今ここにある現実を淡々と、目を背けることなく物語化し得た映画作家は、これまで中国映画界にいたでしょうか?

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