Friday, June 17, 2011

中国文学的拉美情结

来週、昨年のノーベル文学賞受賞者、バルガス・リョサが東大文学部で講演を行うそうです。このたびの来日の前に、リョサは中国を訪れているようで、ネット上ではリョサを囲む対談や座談会、インタヴューなどの記事があふれています。
ここでは、『南方週末』6月16日の記事をリンクしておきます。なんと『ラ・カテドラルでの対話』の本人による朗読会なのだそうで、聴衆は果たして聞き取れていたのだろうかと不思議ですが、おもしろいものです。
ラテンアメリカ文学は1980年代にたいへん広く読まれていたようで、とくに日本でも有名な作家莫言がガルシア・マルケスから多大な影響を受けていたことはよく知られています。最近ラジオで耳にした情報では、その代表作『百年の孤独』の中国語版がこのほどようやく正式出版に至ったとのこと(加西亚·马尔克斯《百年孤独》,南海出版社,2011年6月)。愚妻が学生時代に夢中になって読んでいたのを知っているわたしには(そして彼女にはもっと)不思議なニュースです。あれほど80年代に読まれていたはずなのに、いまになって初めて正式出版とはどういうことなのかと。(左岸文化の記事をリンクしておきます。)
種明かしはさておき(おおよそ皆さん察しはつくでしょうから)、いくら強調してもしすぎではないとわたしが思うのは、どのような形にせよ、広く深く存在する強靱な知的欲求のほうです。まだいまほど開けていなかった1980年代の初めごろには、たくさんの詩や文学作品が手書きで写し取られながら大学生や高校生の間で流通していったという話を聞きます。ほんの数年前でも、書店に座り込んで、読みたいが買えない本を一心に書き写している大学生の姿を見るのは珍しいことではありませんでした。
バブル経済の恩恵にどっぷり浸かっていたせいか、まったく文学音痴で、知的好奇心も淡泊なわたしは、そのような姿に神々しさすら覚えます。体制とかイデオロギー云々といった外在要素では説明できない主観的な渇望のちからがそこに見えると思うからです。デモクラシーとは何らかの制度によって測られるものなのではなく、本質的には態度の問題であるに違いないというわたしの信念はこのあたりにも由来しています。
中国知識界の海外に対するまなざしについては、前々回紹介した王前さんの本がすばらしい解説をしてくれています。そのなかでもアイザィア・バーリンに対する中国での関心の強さについて触れられていました。ロシア出身のユダヤ人というバーリンの出自が中国でのバーリン受容において、直接間接に作用しているという指摘がありました。それは中国における西洋文化受容の一つの「型」であるかも知れません。つまり、西洋の中心ではなく、周縁にある思想や芸術に対する一貫した関心、いや、シンパシーのようなものが、早くは魯迅のころからずっとあるとわたしは思います。バーリンだけではありません。ミラン・クンデラの根強い人気もその典型でしょう。そして、ラテンアメリカの文学。非ヨーロッパ世界の文学が中国にも入ってきたのは、スペイン語という国際言語の普遍性もあるでしょうが、英語の媒介力が大きいでしょう。西洋を通してラテンアメリカに出会っている、という点では、中国のラテンアメリカ文学も、広い意味では西洋文化のマージナルな一部分であると言ってよいかも知れません。
こうした意味でも、中国における西洋の受容という視点は、日本での西洋思想・文化認識を相対化するよい参照項になるはずです。

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