Wednesday, May 18, 2011

孙歌《东京停电》

中国の人文学論壇は時事的な関心がたいへん強いのが特徴ですが、3.11については、これといった議論も乏しく、物足りない感じがしていました。
『天涯』2011年第3期は孫歌氏の《东京停电》を掲載していますが、ようやく奥行きのある考察にめぐり合えたというのがわたしの実感です。
日本の戦後社会思想史に精通している孫歌氏らしく、エッセイは良質な省察となっています。東京の計画停電を入口にして、現代資本主義文明の危機という観点から、わたしたちひとりひとりの「生き方」そのものが問われているという論旨は、日本では目新しいものではないかもしれません。しかし、そこには重要なシグナルがかくれているとわたしは思います。
中国の人文系知識人が3.11に対してあまり発言しないことにはたぶんそれなりの理由づけが可能かと勝手に想像しています。その想像が正しければ、孫歌氏の発言の意義は、日本では目新しくはないという理由で薄まってしまうべきものではなく、重たいものとして受けとめられているはずなのです。なぜかと言えば、今回のことは、日本というネイション・ステイトの内部で完結する問題では到底なく、不可避的にグローバルな、少なくとも地域的な問題として広く共有されざるを得ないからです。
以下にそのごく一部だけを抜粋しておきましょう。

東北アジア一体化の問題は、今日のクリティカルモメントにおいて新しい意味を担うようになった。国境やネイションを超えるということは、利益極大化のためだけではなく、人道的な理想のためでもあるし、民衆の生そのもののためでもあるのだ。エネルギーの開発と消耗は、もはや政府や企業だけの課題ではない。ひとりひとりの中国人にとって、これはわたしたちの「生き方」の問題でもある。エネルギーが足りていさえすれば、衝突や流血が避けられるはずだなどと言うことはできないが、エネルギーの不足は、いま先進国のいくつかがリビアに対して行っているようなことを必ずまたもたらすに違いない--たとえそれが正義を旗印にしていたとしても。東日本では相変わらず計画停電が行われているが、東京で停電がなかったとしても、人類にとって「東京の停電」は、やはり共有すべき象徴的な事件なのだ。「文明」を最定義しなければならないし、わたしたちの生活感の側から、今日的な生活スタイルが「文明」的であるのかどうかを問い直さなければならない。

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