Saturday, May 14, 2011

怎么看正在发生的这些?(2)

3.11以来、状況を理解するためのアンテナを自分なりに張るようになりました。
自然、『世界』6月号に手が伸びましたが、意外なことに、重要な指摘を見つけたのは、脱原子力特集の記事ではなく、中東問題をめぐる板垣雄三「中東の新・市民革命を、いま日本から見、そして考える」の中ででした。

日本社会は、1945年のヒロシマおよびナガサキ、54年の第五福竜丸、という惨禍の経験ないし記憶をもって、「被害者」としてのナショナリズムの拠り所とし、その自己暗示でアジア侵略の歴史的責任を棚上げしてきた面があります。しかしこれからは、被爆の犠牲者(潜在的犠牲者も)はべつの立場をとることができるとしても、放射能を世界にまき散らす「加害」国民としての責任を回避することがむずかしくなりつつあります。

日本とパレスチナ-イスラエル問題は、資源と国防の問題上、地理的な距離を超えて重要な関係を持っているというのはすぐにわかることですが、同時に、「被害者」性を鼓吹することによって自らの加害性を糊塗したナショナリズムを鼓舞することができたという点で、なんとイスラエルに似ていることか。こうした心性のつながりが、関係の背景に作用していると板垣氏は示唆しています。そして、今回のフクシマをめぐっては、被害と加害の二重性という同じ構造が別のかたちでまた再生産されているということ、さらにそのプロセスは始まったばかりであるのかもしれないということに注意しなければなりません。

 『朝日新聞』2011年5月13日には、ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック氏へのインタヴューを掲載しています。ベック氏は、「そこに人間がいて社会があるから自然現象は災害に変わる」ともっともな指摘。これは原発震災の発生を「想定外」へと丸め込もうとすることへの批判として言われていることです。しかし、一方で、そこに生活がある限り、災害リスクはつねに不可避的に存在せざるを得ません。今回の震災で人びとの生活が破壊された地域をこれからどうするべきなのか。湯浅誠氏「復旧と復興」(『世界』6月号)は言います。

大災害という「事件」を時代の画期にするのは「事件」がもたらした生々しい切断そのものではない。時代の切断はわたしたちが「事件」をそれ以前から続く「生活」との連続性において捉え直す中で自ら作り出さないかぎり、生まれない。

「生活」がより大きな文明の論理(近代の論理、資本主義の論理、ナショナリズムの論理、などなど)の中に構造化されていることを十分に理解した上での主張であるからこそ、重たい課題を突きつけています。

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