Friday, July 23, 2010

缄默和历史

王际兵《反思与缄默》(《读书》2010年第7期)は、文化大革命という同時代史をどのように記憶するのかについて、批判的な考察を行ったエッセイです。
文革の記憶をめぐる考察としては、许子东《为了忘却的集体记忆》が代表的でしょう。文革における迫害と苦難の記憶を文学によって記録した、いわゆる「傷痕文学」はあまた存在し、その他にも王氏が列挙するような、季羡林《牛棚杂忆》杨绛《干校六记》のような知識人の回顧録なども、文革の様子を伝える当事者の記憶の物語として広く読まれています。
しかし、王氏はこれらのすべてに満足してはいないようです。なぜなら、

文学を含めて、これらの文章はその内容においてあまりにも浅すぎる。「文革」に関するディスコースは、現象の記録-とりわけ、ただ自らの立場から表面的な現象を記録したものにすぎない-が多く、思想的に問いを行っているものが少ないのだ。

ここで「自らの立場」として含意されているのは、被害の立場からということで、文革への「参加史」の角度からの声がそこには欠落している、と王氏は言います。

参加史の欠落は、ディスコースの背後に沈黙を守る若い世代が隠れているということを意味してもいる。例えば、向陽湖幹部学校の記憶をめぐる作品のなかで、当時青年や中年だった知識人たちは、だいたい1920年代初めから40年代初めに生まれた幹部学校生であり、つまり、「革命」運動に参加した主力たちであったが、みな、集団的失語状況にある。歴史に関する反省はここで巨大な空白を生じているのだ。

彼らは、巴金(《随想录》)や季羨林、楊絳らよりも一世代若く、より当事者性が高かったにちがいないと王氏は言います。その彼らの沈黙は何をもたらすのか。

かつての若い世代ももう若くはない。彼らが反省という道徳の泥沼から抜け出すことを期待することは可能だろうか。これまでの作品から判断する限りでは、その可能性は小さいようだ。自ら参加したことによって、どのようにしてその結果自らが追い込まれることになったのかを書き記すというのは、非常に興味深いトピックである。「文革」の災難はそこにこそ思想的に豊かなものを孕んでいる。だが、他人を解剖するのは簡単でも、自分を解剖するのは難しすぎる。それは時として現実的な代価を伴わずにはいない。ナルシスティックな心理的な感情を克服しなければならないし、ましてや道徳的思考も慣性化している。運動の長期にわたる無味乾燥な徒労感の末、ディスコースの世界に嫌悪感を持つようになった人が、沈黙の地位に甘んじていたとして、それに対してどうこう言うことはできないだろう。悲しむべきなのは、集団的にそのような生き方が選択されてしまったということなのだ。こうして、反省はつづけられ、沈黙もまたつづけられていく。「文革」の災難の一部は居心地の悪さを伴わない遺産となり、また一部は、かしこさゆえの害毒となっている。魯迅は沈黙のなかには爆発も滅亡もあるだろうと述べているが、そのあいまいな言い方のなかに何がひそんでいるのか、彼は言及しなかったのである。

記憶が欠落しているのでも、反省が欠落しているのでもなく、そうした主観的な感情や思惟を表出することばが欠落しているということなのでしょう。

ほかにも、韦君宜《思痛录》杨静远《咸宁干校一千天》など。

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