Friday, March 5, 2010

“失重”文学

「無重力」文学-ここ数年に芥川賞を取った若手作家(青山七恵、金原ひとみ、綿矢りさ、川上未映子ら。なぜかすべて女性)に対する中国の批評家評です。その中で羅崗氏は次のように述べています。


作品の主人公-往々にして一人称の語り手-には「家族的類似(family resemblance)」性がある。それは、孤独で敏感で、何もやることがない若者たちであり、男女であるかは重要でなく、どんな性癖があるかも大事ではない。いちばん重要なのは、これらの若者のバックグラウンドがあいまいであるということだ。家族、経歴、社会関係などなど、これらすべてには説明もなく、あってもひと言だけであり、一体どうやって生計を立てているのか、どのような責任を担っているのかなどはなおのこと語られない。要するに、主人公たる彼または彼女は、ある種の「脱社会」的で「脱歴史」的なかたちで存在しているのだ。このような生のあり方ゆえに、これらの小説は、本来文学が背負っているはずの「歴史」や「社会」の「重さ」を完全に振り払い、「軽装」で打って出ているのだ。(中略)このような「無重力」文学の流行は、個人的なことに原因があるのではもちろんないし、単純に若者の頽廃ということに帰すべきものでもない。日本の評論家の中では「ゼロ年代の想像力」ということが言われている。例えば、雨宮処凜はいう。「00年代の若者は予め「喪失」を予定されている。しかし一体自分がいつ何を失うのかはわからない。ただあり得べき選択が間違いなく減ってしまっていることだけははっきりと感じ取っている。つまり、なぜ生きていくのかがわからないという苦しい皮膚感覚である。」「喪失」感が「皮膚」という表面の部分にとどまっていても別にかまわないのだが、しかし「喪失感」の源は実際には、戦後日本社会の普遍的な「脱歴史化」プロセスに根ざしている。この社会では、すべてが固定され、与えられ、型にはめられるのだ。

雨宮処凜の引用は出処不明なのでご本人の趣旨をちゃんと伝えているのかどうか判断がつきません。ところで、ここまで読むと、「無重力」文学という命名は実は、強力な磁場に支配された重力構造ゆえの表象なのではないかとすら思われます。
ちなみに、このような評論が登場してきた背景には、これらの作家の作品がいち早く中国語に翻訳されているという背景があります。例えば、
绵矢莉沙《梦女孩》(上海译文出版社,2009年)
青山七惠《窗灯》(上海译文出版社,2009年)《一个人的好天气》(上海译文出版社、2007年)
金原瞳《裂舌》(上海译文出版社,2009年)
川上未映子《乳与卵》(上海译文出版社,2009年)

『中華読書報』2009年10月14日の書評欄からの抜粋ですので、すべて同じ出版社のものになっていますが、あしからず。

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