Thursday, March 24, 2011

“桃太郎”的文化

芥川龍之介の「桃太郎」が章炳麟からの啓発のもとで創作されたらしい、というのはどうも有名な話のようです。
上海で章炳麟と会見した芥川龍之介は、1924年の「僻見」の中で、これを回顧して「予の最も嫌悪する日本人は鬼ヶ島を征伐した桃太郎である。桃太郎を愛する日本国民にも多少の反感を抱かざるを得ない。」という章炳麟の談話を紹介しています。前から桃太郎の物語に腑に落ちぬのを感じていたわたしにとって、かの太炎先生がこう言っていたことを知って心なしかうれしく思ったものです。そうは言っても、章炳麟が桃太郎のどこを、なぜ嫌っていたのかは、はっきりとはわかりません。芥川の作品が帝国主義日本の侵略戦争に対する強烈な批判となっていたことからすると、章炳麟も同様の桃太郎観だったのだろうかと推測されますが、あくまでも推測です。
むしろわたしにとって、桃太郎がどうしても好きになれないのは、この物語が徹頭徹尾、偶然や超越性にたよった他力本願による危機克服の物語だからです。これは現代のヒーローものの子ども番組にまで通じています。桃太郎の中で、人が(桃太郎は「人」ではない超人的な存在と仮定しておきます)能動性を発揮するのは、唯一、吉備団子を作って渡したことだけ。しかも、その吉備団子は具体的に桃太郎の鬼征伐に益する道具としてではなく、新たな超越的な力(犬、猿、キジ)を呼び寄せるために用意されたものです。この物語には、理性に裏打ちされた、人間の主体性と能動力を育てようとする文化が微塵も感じられないのです。
太炎先生は、「依自不依他」を核とする新たな宗教的理念の構築を目指していました。そういうことからすると、彼もまた、このような理由で桃太郎を嫌悪した可能性もあるのではないでしょうか。

1 comment:

石井剛 ISHII Tsuyoshi said...

ここ数日この記事を見てくださる方が増えているようです。この記事は2011年3月24日、つまり、フクイチ事故の成り行きを固唾を飲んで見守っていたときに書いたものです。人間の技術ではコントロールできない巨大なエネルギーを所有する試みがいかに無謀であったか、技術力過信の反面で「徹頭徹尾他力本願」のメンタリティがいかに根強くこの技術を司る政治システムを支配していたか、それをまざまざと見せつけられたのでした。