Saturday, March 19, 2011

中国和日本的“哲学”

来学期の授業で扱うテクストを探しているところです。
「国家・個人・啓蒙-中国知識人の明治」というタイトルで、1900年前後のテクストを中国語と日本語から数篇選び出して講読するという趣旨です。中国語のテクストは概ね腹案がすでにあるのですが、日本語のものをどうするか。わたしの狙いとしては、「国家・個人・啓蒙」をめぐる論理を基礎づけたものよりも、むしろ、それを内部から相対化し、問題化していくようなクリティカルなディスコースを読みたいと思っています。だから、啓蒙思想家のテクストへとストレートに進むのではなく、それに呼応しつつ、そうではないものへと迂回的なアプローチをしようかなというのが、最初の構想でした。ここ数日は高山樗牛を読み進めているのですが、難しい。彼の「日本主義」と「個人」観の結びつき方をいったいどう理解すればいいのか、そして、宗教学者姉崎正治との思想的なつながり、ひいては、当時の宗教学と、章炳麟、梁啓超らの思想の関係など、これらは重要な連環を持っているはずで、いくつか並べて読みながら、それらを考えてみたいと思っています。

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