Wednesday, March 9, 2011

安东尼奥尼的中国

イタリアのアントニオーニ監督が文革中の1972年に撮影したドキュメンタリー『中国(Chung kuo Cina)』は、1974年から翌年にかけて中国で厳しい批判にさらされ上映されず、2004年になって初めて北京で上映されたとか。
『開放時代』2010年第9期《电影语言与“文革”中国-安东尼奥尼的《中国》》には、次のようにあります。

一本の映画がいったいなぜ1974年の中国でこれほどの攻撃を受けたのだろう?作品の冒頭の映像からもその一端はうかがい知れる。天安門広場で一群の若者たちが並んでいる。広場での記念写真サービスを待っているのだ。天安門広場は、60年代70年代の国産映画ではつねに秩序だった儀仗兵に満たされた空間であったが、アントニオーニの冒頭フィルムでは、広場の人々は組織されない散漫な姿である。これらの若者は、カーキ色の上着を身につけてはいるものの、些かの疑いをはさむ余地もなく、それぞれの個性を表現している。彼らは仕事をしているのでもなければ、デモに参加しているのでもない。彼らの身体は、組織化された規律正しい行動を行ってはいない。それどころか、この瞬間、彼らは、静かに「息抜き」をしている。だらだらと、気ままに。(中略)アントニオーニは、人の表情や身体言語に対するカメラワークの秀でた感受性を存分に活かしつつ、微妙かつ複雑な変化を把捉するカメラの力を借りて、「人の群れ」を「個人」に還元したのである。

当時、『人民日報』を舞台に行われた作品に対する批判は、アントニオーニが故意に中国の醜い部分、古い部分を伝えようとしているというものでした。しかし、この評語が示しているように、彼のカメラは、文革と言えば思い出される、「個人」圧迫と表裏になった、一糸乱れぬ集団的高揚感にあふれた映像とは異なる、「人の気配」であり、その日常でした。振り返ってみると、今日の文革イメージは、当時のプロパガンダ・イメージからどれほど自由になっているでしょうか。そこにあったはずの日常をとらえることによってしか届き得ない生活の機微のようなもの、作品はそれをよみがえらせてくれるものかもしれません。
文章は、ほかに、アントニオーニに同情を寄せるウンベルト・エーコのコメントも紹介しています。

アントニオーニは、緊張して落ち着きを失っていた。彼の人生の矛盾に満ちたドラマはまたしても彼を苦しめていた。反ファシズムの芸術家として、彼は好意と敬意をもって中国に行ったというのに、そこではファシストだと決めつけられ、ソ連修正主義とアメリカ帝国主義に雇われた反動派として、8億人の恨みを買ったのである。

1 comment:

石井剛 ISHII Tsuyoshi said...

当初、この記事には「日本で2009年に上映されているようだ」という旨のことを書きましたが、間違っていました。専修大学で2011年12月10日に上映会が行われますが、これが日本では最初のチャンスになるようです。ご指摘を受けましたので、もとの文言は削除し、ここにお詫びと共に訂正いたします。関係者の方にはたいへんご迷惑をおかけしました。
(2011年12月7日 石井剛)