Sunday, February 20, 2011

“情本位”的中国哲学(日文版)

年末からずっと、次から次へと大量の論文審査に追われていましたが、それもようやく一段落つきました。新年度までの間には、まだ上海でのワークショップに向けた原稿を書いたり、わりと大きめの訳著の校正をしたりという仕事があります。
容赦なく押し寄せる仕事を前にして、思わずため息をつくときもありますが、さまざまな仕事のどの場面でも必ず何らかの収穫があり、そういう意味では、ずいぶん勉強させてもらっています。疲れないといえば嘘になりますが、それ以上の喜びが確かにそこにはあります。
さて、『読書』2011年第1期に、李沢厚と劉緒源の対談、《“情本体”是一种世界性视角》が掲載されています。近刊予定の《该中国哲学登场了?》(上海译文出版社)に向けたおもしろい紹介となっています。
李沢厚といえば、雄弁な筆致で、鋭くかつ新鮮な問いを発して、これまでずっと多くの読者を獲得してきました。外国語に翻訳された著作の量は、現代の中国哲学研究者のなかで最も多いはずです。
「情本体」とは何でしょうか。彼は次のように説明しています。


1985年に書いた第三綱領のなかで、こう言いました。「だから、相対的に独立した心理本体そのものに注意を振り向けるしかないのです。常にこの偶然なる生の一瞬に注意を払いつつ、それを真なる自己へと変えていく。自由で直観的な認識からの創造、自由意志による選択と決定、美的愉悦に対する自由な享受、そうしたあり方において、この本体の構築に関わっていく。こうして、無数の偶然的な個によって追求されているものが、歴史性と必然性を構成していくのです。」このことばの中には「情本体」が表現されています。


「第三綱領」というのは、《实用理性与乐感文化》に収録されている《关于主体性的第三个提纲》のことでしょうか。いずれにせよ、彼は、主体性の側から「真なる自己」を求める自由なる精神にアプローチしようとしています。こういう手つきは、20世紀以降にモダニティに対峙しつつ生まれてきた多くの哲学思考につながっています。日本のことはいうまでもなく、香港や台湾の現代新儒家にも共通点があるでしょう。彼らは、多かれ少なかれ、実存主義を参照しながら、ある意味での主体性を追求するのですが、最終的には個の主体性をそれを取り巻く歴史的、文化的バックグラウンドに結びつけて、意識的にか無意識にか、国民国家の想像を強化していきます。李沢厚の思想にもそのような傾向が見られるのは間違いありません。彼は一貫して自らをマルクス主義であると規定していますが、そのカント理解や、「文化-心理構造」、「歴史の蓄積」といった概念をマルクス主義との間でどううまく結びつくのかは決してわかりやすいものではありません。
賀照田が社会主義的主体の喪失状況に困惑を感じるのも無理はないということなのでしょう。わたしは李沢厚を否定するつもりはありません。むしろ、李沢厚の哲学がたどってきた跡は、今日のグローバル化時代においてこそ、ちがった角度から再度読み直される必要があると感じます。彼の思想は確かにそのような読解に耐えるものであるに違いありません。もちろん、そこで必要なのは、高度にクリティカルな眼差しです。

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