Sunday, January 21, 2024

翻訳技術の向上と中国語学習

  期末試験の採点と今学期の成績報告が完了しました。駒場でのわたしの授業(1年生向けの必修授業)では、COVID-19パンデミックで授業がオンライン化されて以来、完全に音声重視の試験を課すことにしています。しかも、教科書やノートなど「すべて持ち込み可」の方式です。オンライン授業中は定期試験もオンラインでやらねばならず、参考資料の制限をすること自体がナンセンスな要求でしたので、いっそのことこの方式にしました。敢えて制限事項を挙げるとすれば、必ず本人が一人で受験してください、ということでしょうか。「中国人も持ち込み可ですか?」という素敵な質問をしてきた学生さんがかつていましたので、それ以来、このような制限があることを全員向けに知らせています。

 いまは対面授業にもどりましたので、本来あるべき試験会場での対面型試験となりました。ですから、制限事項ももう少し常識化して、外部との通信機能がある電子機器は持ち込み不可ということになっています。いまは優秀な機能を持つ機械翻訳アプリ(DeepLが筆頭でしょうが、Google翻訳もほぼ同等程度のすばらしい力をもっています)がありますので、それを使われると出題が難しいという懸念があるのも事実です。もちろん、わたしの実施する試験ではそのような技術の力を借りてもたぶんうまくいかないだろうと思います(実際オンライン試験の時にはそれなりの対策をして機械翻訳に頼ってもできそうもない問題を出していましたので)。

 さて、言語教育の現場を預かる教員としては、この機械翻訳技術の向上は脅威になると感じられることかもしれません。しかし、わたしはそれを脅威だと感じること自体が、言語教育のみならず大学における教養教育の発展を阻害することになりかねないという懸念を抱いています。

 まずシンプルな事実として、こうしたテクノロジーの発展は日進月歩であり、これによってわたしたちの生活は確実に便利になっているということが挙げられます。わたしたちは、この事実を前提として教育を構想べきであって、教室からこうしたツールを排除することがあってはならないとわたしは考えます。逆に、こうしたテクノロジー・ツールを適切に、かつよりよく使えるようになるための手助けをすることが言語教育の現場においても求められるはずです。

 ではどうするか?こうしたテクノロジーの発展を所与の事実とする以上、教室におけるわたしたちの言語体験のあり方を変えていかなければなりません。わたしが徹底して音声重視の評価方式を採っているのは、そこにこそテクノロジーが原理上永久に代替できないわたしたちの実存的意義が横たわっていると思うからです。それは端的に言えば、わたしたちが自らの身体器官を動かすことです。テクノロジーはサイボーグのように、わたしたちの身体能力を拡張することができます。これはすばらしいことです。しかしそのことは、わたしたちが身体を不要とすることを意味してはいません。見る、聞く、触れる、嗅ぐ、声を出す、などのような行為自体は、それらを司る身体器官が機能している限りなくなることはありません。ちなみに、わたしの授業ではこれまで「見る」「聞く」「話す」の能力のいずれかが何らかの原因で困難だという学生さんがいませんでした。そうした学生さんが履修してきた場合には、そのニーズに合わせた授業メニューを考えることになります。そのための工夫をするのもわたしにとってはワクワクするチャレンジです。その際、テクノロジーはたぶん大きな力を発揮するでしょう。ただそれにしても、身体を通じた言語体験をより重視し、それをより十全に機能させるための教育が必要であるという仮説はやはり揺らがないのではないかと思います。

 つまり、個々の身体的特徴にちがいがあったとしても、いや、あるからこそ、わたしたちは身体を通過させることによる言語体験を第二言語学習においてより徹底させるべきなのです。とりわけ、聞き、話す力を向上させることには大きな意味があります。それらがわたしたちの言語活動において、見る、書くよりもより直接的な体験であることは、文字がない社会の存在を思えば容易に理解できます。まして、現代テクノロジーは人工的に生産されたエネルギーに依拠せずには機能しない極めて脆弱な道具です。これを過剰に信頼することによって、わたしたちの実存が歴史的・社会的環境から阻害されてしまうことは必定です。ですから、わたしたちは聞く、話すという能力が人間であることの基本的条件であり尊厳の源泉であることを実践的に示していかなければなりません。身体的障碍が原因でこうした能力がうまく発揮できない人にとって、テクノロジーは大いに役に立つものですが、しかし、そういう方々にとってはなおのことテクノロジーへの過剰依存が生活の中での潜在的脅威になりかねません。ですので、誰に対しても平等に与えられているはずの権利と尊厳をどうやって守り豊かにしていくのかを想像するために、身体的体験——それが人によって千差万別であるという事実を知るためにも——はきわめて重要な出発点です。

 また少し話がそれました。機械翻訳の技術水準が向上すればするほど、わたしたちは便利に見知らぬ人と交わることができるようになるでしょうが、他方で身体的体験がもつ固有の価値が見直されていくことになってほしいものですし、たぶんそうなっていくことでしょう。その際、教養教育において目指されるべきは、近代社会が想定してきた標準的モデルに対する模倣的接近を目的とする訓練ではなく、一人一人がもつ固有性それ自体が価値として尊重され相互に認め合えるような教育です。

 わたしの試験のやり方は聞く能力だけに焦点を当てたものとして、まだまだ不十分なものです。話す能力をいかに評価に生かすかをもっと工夫しなければならないのですが、道のりは遙かに遠いです。

 それともう一点、機械翻訳全盛の時代においては、身体性と併せて読む力——いや、批評する力でしょうか——を徹底的に鍛えるべきだとわたしは考えているのですが、これについてはまた機会を改めて述べてみたいと思います。こちらの方は、教養教育における言語教育の根幹により大きく関わってくる重大な問題ですので。

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