Thursday, January 4, 2024

映画『小さき麦の花』(隐入尘烟)観賞記 兼ブログ再開報告

長らく休眠状態だったのですが、わたしがわたしだけを代表してものを書く場所が再び欲しくなりましたので、このブログを再開することにしました。

まずは、2023年1月12日に書いたままお蔵入りしていた映画の観賞記。中国では『隐入尘烟』というタイトルで評判を呼んだ『小さな麦の花』という映画です。かつて授業を担当したことのある学生さんから試写招待券をいただいて観賞がかないました。

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 見慣れた風景がほぼ全篇に続く映画だった。だが見慣れた風景とは違っていたところもある。違っていたのは、

小麦が主な作物であったこと(オルドスで小麦は採れない)、言葉がほとんど聞き取れなかったこと(音色の感じはオルドスの言葉と似た西北特有のものだったが…)、それに加えて、わたしが暮らした時代(四半世紀前)に比べて、カメラが捉えた世界がずいぶん近代的になっていたことだ。

 驚いたのは、灌漑水路だ。セメントで三方を固められた公路脇のその水路には滾々と水が流れている。公路にガードレールが設けられているのも新鮮だった。あの水はいったいどこから来るのだろうか。乾燥地帯の西北地域においても特に乾いているバタンジリン沙漠に近いこの場所にかくも多くの水が流れているのは、よほど深い機械井戸を掘っているのか、祁連山脈から雪解け水を引いてきたのか。理由はよくわからないが、現地の様子からしても、よほどの工夫をした結果なのだろう。麦が生育するのもその恩恵を得ているからなのかも知れない。

 だから、この映画が描く農業と農村のさまは、おそらく多くの観客の予想とは裏腹に、意外と近代的だ。またしたがって、この映画で描かれている「農」の暮らしぶりは、作者の意図とは離れて、さほど循環的ではないかもしれない。近代農業が収奪的であることを免れるのはそう簡単ではない。

 こういう風景の映画だったので、わたしには終始難解であった。だが、観賞後にすばらしいパンフレットを読んで、そもそもわたしの見方が誤っていたのだということに気がついた。わたしはこれが農村/農民を描いた映画だと思っていたが、そうではなかったのだ。これは農民が農村から描いた世界のものがたりであると理解するのが正しい。思えば、この映画に農民はほとんど出てこない、というよりも後景に退いている。主人公の二人は農民ではないのかと訝しく思われるかも知れないが、彼らは農村から排除されようとしている存在であり、限りなく周縁的である。敢えていうなら、彼ら二人は「農の人」として土、水、作物、家畜たちとリズムを合わせながら生きている。それでも彼らは農村コミュニティの周縁から外部へと追いやられた例外的存在であって、農民の典型例では決してない。この語りの位相を正しく理解してわたしは初めてこの映画が理解できるような気がした。

 なぜ、貴英があれほど簡単に命を落とさなければならなかったのか。それは監督の言うとおり、世界の偶然性ゆえであると言えばたしかにその通りであるだろうし、傍観するばかりで救おうとしなかったのはある意味で農村コミュニティの情の深さを表しているのだという説明も常識に照らせば納得できる。しかしやはりわたしはあの死に強い不条理を感じる。彼女は滾々たる水を湛える水路を築き上げた近代的テクノロジーの政治によって殺されたのではないのか。一方で、彼女を見殺しにすることがむしろ情の深さを表明するのだという理屈自体は、魯迅がたたかい、そして中国の革命(農村から都市を包囲した革命)がたたかおうとしてきたあの農村の陋習ではないのだろうか。

 したがって、この映画の語りが露わにしているのは、中国における近代革命(それは竹内好が言う「反近代としての近代」の革命である)の寂しい末路である。まるで貴英を押し流した水のように激しい流れを誇った革命も、またやがて水源の枯渇を憂えずにはいられないだろう。この映画は、水を枯らした水路のセメントが干上がってひび割れる未来を予示しているようにわたしには思えてならない。

 もう一つ、有鉄と「交換」の倫理について付言しておく。彼は頑ななまでに経済的交換の原則を守り続ける一方で、煙草のやり取りについては頑なに拒んでいる。これは農村コミュニティにおける互酬性の規範に照らして異質であると言えるだろう。経済的交換原則とは異なる互酬的関係(礼的関係)を媒介するツールとして煙草は不可欠であり、コミュニティ内部の関係性倫理を下支えしている。有鉄はそれを拒むことによって、コミュニティから距離を置こうとしている。あの勤勉さもまた同じ動機に支えられているにちがいない。その意味で有鉄はその生業と外見が醸すイメージとは反対に徹頭徹尾近代人なのだ。「同流合汚」を拒む道徳的な潔癖性を表しているのでもないし、有鉄の人としての正直さを示しているということではもっとない。コミュニティを拒もうとし、関係を経済的な価値交換のみに限定しようとすることによって、彼は市場的価値体系のなかに人格ごと呑み込まれており、しかもそうした市場を下支えしている非価値の人倫関係から自らを疎外している。だが、この自己疎外は機能していないどころか、彼をより深くその体系の中に埋め込む結果を招来している。その先に待ち受けているのが、貧困対策であてがわれたコンクリートの部屋であることが、何を意味しているのかは誰にもわからない(魯迅「吶喊自序」の鉄の部屋を思いうかべずにはいられない)。したがって、有鉄の新しい生活は、失われていく農村の挽歌などではなく、近代の挫折と閉塞を示すものであるにちがいない。その先にどのような風景がひらけるのか、わたしたちは知る由もないが、彼を救うのは、映画の語りがわたしたちに見せたような潔癖な勤勉性ではなく、隣人からの煙草を受け取ろうと手を差し伸べることではないだろうかとわたしは思う。

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