Thursday, February 1, 2024

大学で学ぶということ

  大学に入ってきたばかりの学生さんにとって、大学で学ぶことが高校までの教育のあり方とは大きく違うことはカルチャー・ショックかも知れません。例えば、入学後最初の授業の時に、わたしから「なぜ授業に出るのか?」と問われると、学生さんはそれが学生にとっての義務であるからと答えます。実はそうではないということはキャンパスで過ごす時間が長くなるにつれてわかってくるはずだとわたしは思っていたのですが、最近はそうでもないようです。

 世相の移り変わりと言えばそれまでなのですが、結果的にこの傾向は学生さんの人間としての成長にとって必ずしも好ましくないばかりか、学問のよりよき発展にとっても憂慮すべきではないかとよく思います。ここで注意しておきたいのは、わたしが言う「学問」は『論語』学而篇の冒頭にある「學而時習之,不亦說乎;有朋自遠方來,不亦樂乎」を念頭に置いていますので、人と交わりながら人として学びの習慣を悦び楽しむ生活のあり方を指しているということです。大学のキャンパスはさまざまな高度な専門性を有する人たちと、やがて大学の外に向かって育っていき、それぞれの職域で専門家として高い能力を発揮することが嘱望される人たちによって成り立っています。高度な専門性に向かって開かれた豊かな教養の育つ場として大学のキャンパスは、社会の中でも稀有な場であるとわたしは信じているのですが、そういうところで行われる学問は、やはり教養としての幅の広がりを指すものであるべきです。専門に秀でた研究者にとってもそうした場を確保しておくことは、とりもなおさず専門領域においてより重要なブレークスルーを得るためにも有益であるはずです。

 さて、では学生さんたちにとって大学で学ぶとはどのような営みなのでしょうか。かつて北京大学で学長を務めた林建華さんが「大学の国家属性」という講演録の中でたいへん興味深い発言をしています。

学生の積極性を引き出し、学生が多くの本を読み、多くの議論をし、先生と多くの交流をするようになるために、わたしは学部段階の必修単位数を180単位から130単位に減らしてみました。ところが結果は期待とは違っていたのです。学生たちはそこでできた時間をさらなる研究や勉強に向けるのではなく、2つ目の学位(訳注:ダブルメジャー、サブメジャーなどのことです)を目指すようになったのです。彼らは相変わらず教室の間を駆け回るばかりで深く考えることがないままでした。あるいはある特定の課題についてだけより深く研究するだけでした。学生たちが長きにわたって浸ってきた試験対策の習慣を前にして、いったいどうやって学生たちの学習や思考の習慣を変えればいいのでしょうか?

 たいへんおもしろいと思いませんか。林さんは履修単位数の多さが学生さんにとってよりよく学ぶための障害になっていると認識しているのです。そこで、北京大学の学長として、単位数削減に取り組んだというのです。ところが、林さんは単位数を減らしても学生が研究や勉強をするようになったわけではなく、より一層教室と教室の間を駆け巡るようになったと言っています。「勉強」は原文では「読書」ですが、中国語で「読書」は本を趣味のように読むことよりもむしろ学習全般のことを指す場合が多いのです。それにしても、林さんは授業に出れば出るほど研究や勉強をしなくなると嘆いているに等しい。

 一方、北京大学のある友人(複数)は、授業で出席を取るのは恥ずかしい、なぜならそれは自分の教える内容に魅力がないことを示すばかりだから、と言います。もっとも、教授の講義内容の魅力が必ずしもその学問に内在するものとは限らず、むしろ競争社会における功利的な用途に合致しているかどうかに関係がありそうなのは林さんのことばからも窺えます。それにしても、学問を教室で講じることの意味に関する理解は、東京大学に入ったばかりの学生さんたちとはだいぶちがっているのではないでしょうか。いったい、わたしたちは何のために授業に出席するのでしょうか?

 学ぶことは人間として生きていく際の悦びと楽しみであります。ですので、学ぶことは権利であっても義務ではないはずなのです。


*ちょっとだけ内容を補足しました。ブルーのところが補足箇所です。(2024年4月3日)


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