Thursday, January 6, 2011

“潘晓讨论”的反思

前回も紹介した賀照田氏の論文、《从“潘晓讨论”看当代中国大陆虚无主义的历史与观念成因》(《开放时代》2010年第7期)の全篇を初めて通読しました。

賀照田氏は言います。

冗長になるのを避けずに現代中国で個人が身を置いている歴史的条件や文化的、観念的雰囲気について論じてきたのは、現代中国のニヒリスティックな気分や意味の危機が、中国最初の三十年間の社会主義実践の挫折に根ざしていることを歴史的に明らかにするためだった。そして、この三十年がもたらした中国の伝統的な精神や倫理の多方面における深刻な打撃のせいで、社会的メカニズムの自然な運行によってそうした気分や心理を吸収する力が大きく損なわれたのであった。こうした状況の下では、中国革命と社会主義の歴史の遺産としての理想主義をどのように処置または転化し、さらには、その上で、発揚していくのか、そして、この理想主義によって、ニヒリスティックな気分や心理を克服し吸収していくのかということがきわめて重要となる。(中略)だが、こうした中国革命と社会主義実践の遺産としての理想主義は、1980年代には相変わらず、大文字の歴史に対する責任を目指し、それを支えとしていた最初の三十年の社会主義建設時代に形成されたモデルの慣性に寄りかかっていた。したがって、1989年に中国が歴史的な挫折を経る中で、それは致命的な打撃を被ったのである。

宗教への関心が高まり、いわゆる儒家伝統への回帰を求める声が高まっていることは、よく見聞きする現象ですし、昨年の長春フィールドワークでは、党=国が提唱する精神文明建設のスローガンと儒家的信仰(まさにConfucian piety)との奇妙な結合のすがたを垣間見ることができました。しかし、よくわからないことは、なぜ、意義や価値、道徳の根拠を国家が代表するのかということ、そして、国家的目標(社会主義建設の理想)が失われたことがなぜ、全社会的なニヒリズムにつながるのかということです。この共存関係を自明視することをストップしない限り、理想主義と虚無主義の転化の歴史は途絶えることがないのでは、と疑問に感じてしまうのですが、どうなのでしょう。もちろん、20世紀の中国革命が根本的な自己否定を通じた主体獲得のドラスティックなプロセスであり、そこでは確かに国家による理想の具現化が目指されたという重たい事実がそこには横たわっているだけに、賀照田氏の指摘は深刻な問題を含んでいるわけでしょう。

寺山修司の名作にこんなものがありました。(細部が間違っているかもしれません。あしからず。)

マッチするつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや

個人主義と消費主義・商業論理の節操なき結託を憂い、そこから社会主義的主体の省察へと向かう賀氏の思索は貴重なものであると思いますが、「個人主義」の分析にはまだ余地が残されているのではないでしょうか。
啓蒙・宗教・20世紀について考えなさいという宿題を与えられているこの2011年の年頭にあたって、「潘暁討論」をめぐる粘り強い省察はよいきっかけとなりそうです。

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