Friday, January 28, 2011

全球化时代的文化认同与文化政治

『天涯』2011年第1期は張旭東(ニューヨーク大学)に対する長編インタヴュー《全球化时代的文化认同与文化政治》を掲載しています。
張旭東氏についてはこれまでにも何度か紹介してきました。マルクス主義批評で知られるフレデリック・ジェイムソンの影響を受けながら、カント、ヘーゲル、ルカーチ、ベンヤミン、アドルノ=ホルクハイマーらの理論を縦横無尽に応用しつつ展開される批評理論は、今日の中国における文芸批評や比較文化の分野で広範な影響力を持っています。“全球化时代的文化人同(グローバル化時代の文化アイデンティティ)”は彼の北京大学における連続講義をもとに編集された著作のタイトルにもなっています。この著作は内容の難解さにもかかわらず再版されるなど、その影響の大きさが伺われます。インタヴューは彼の思想のエッセンスがわかりやすく紹介された格好の入門になっています。例えば、英文の著作Postsocialism and Cultural Politics: China in the Last Decade of the Twentieth Centuryにある「ポスト社会主義」について、彼はこう解説しています。

1979年以降、中国人は社会主義の改革開放に入ったのだと思っています。今日までの改革のあいだに、モダニズム、ポストモダニズム、グローバリゼーション、ナショナリズム、個人主義、官僚主義など、さまざまなイデオロギーが生まれました。そこでは、「中国はいまでも社会主義なのだろうか、まだ社会主義的なものは残っているのだろうか」と多くの人々が問うています。最も簡単な結論は社会主義以外の何であってもよいのであって、たぶん「官僚資本主義」ということばがしっくりと、またわかりやすく中国の現実を説明しているのではないかというものですが、わたしはそうは思いません。わたしの出発点は、社会主義が中国でどのような新しいかたちを生み出したのかという問いです。マルキシズムであれモダニズムであれ、中国に入ってくると中国の現実と結びついて奇妙なものへと変貌していきます。そこではいったいどのようなものが継承され、どのようなものがかたちを変え、そしてどのようなものが捨てられたのでしょうか。

また、張旭東氏は中国の改革開放をポストモダンであると考えています。

中国のモダニズムが何らかの実質的なものであるとすれば、それは先天的に「ポストモダン」でしかあり得ません。なぜなら、その基礎には資本主義ではなく、社会主義があるからです。それは大衆的なものであってエリート的なものではなく、同時にまた後発のものであってオリジナルではありません。だから、中国のモダニズムというものが成り立つなら、それはポストモダンでしかないのです。もちろん、「ポストモダン」なることばを守り抜く必要は別にないのですが、このことばは、「モダニティ」とはもはや異なったものに違いないのです。

彼の著作は多くが英文で発表されており、中国語で読めるのはその一部であると言うべきでしょう。1980年代の新啓蒙主義の高ぶった知的雰囲気を浴びてアメリカに渡った多くの若者たちの代表が張旭東氏であるとすれば、今日では、彼らのもとから更に多くの研究者たちが、アメリカで、ヨーロッパで、そして中国本土で活躍の場を広げています。彼らとの間で知的なコミュニーケーションを遂行していくために必要な知識は、もはや十数年前にそうであったような、「中国」に特化された閉鎖された言説に収まりきるものではありません。いや、というよりも、そのような「中国」すらももはや存在していないと言うべきでしょう。

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