Thursday, February 4, 2010

夏目漱石文本中的帝国和中国的缺席(日文版)

夏目漱石の有名な小説『門』は、小森陽一『ポストコロニアル』(岩波書店、2001年)以来、日本の植民地拡張の歴史を反映したテクストとして、ポストコロニアル文学批評の注目を集めるようになりました。斉金英「夏目漱石『門』論-女性・領土・帝国主義-」(『国文』112号、2009年12月)は、紙幅の小さい論文とはいえ、小森氏が言及していない問題に対して、明晰で過不足のない分析を行っており、日本帝国主義に関する歴史叙述における中国の不在もしくはその潜在意識化とでもいうべき、興味深い視点を提供しています。
彼女は、ジェンダー理論を応用して、『門』というテクストに示される錯綜した人物関係を整理しつつ、それらを日露戦争後の東アジア国際関係と結びつけており、立論には説得力があります。
この投稿の標題でわたしは“中国的缺席”(中国の不在)という表現を使いました。ここでわたしが言いたかったのは、日本の近代史叙述が20世紀前半における中国自らの近代化プロセスを見落としてきたのではないか、そして、それを見落としてきたのは戦前における日本の知的言説だけが持つ特徴なのではなく、日本の近代性を省察する言説ですらも、まだ完全にそうした慣性的思考から抜け切れてはいないのではないか、ということです。溝口雄三氏の中国史叙述が今なお中国で人気を保っている理由もその辺にありそうです。というのも、一見したところ、溝口氏の叙述はなるほど、中国の近代化プロセスにおけるその主体性を高く評価しているからです。しかし、溝口氏の問題は、「中国」というナラティヴの前提に対する本質化という点にあります。それは、かえって中国思想史の豊かさを発掘する可能性を阻害するものとなっているからです。これは小森氏が指摘しているとおり、竹内好の欠点でもありました。

問題なのは、何がいったい「東洋的」であり、何が「ヨオロッパ的」なのかということであり、「日本イデオロギー」とはどのような思想なのか、ということである。少なくとも、西洋の侵略に「抵抗」するのが「東洋的」であり、「自己保持の欲求」すなわち強い自我を持つことが「ヨオロッパ的」であるという二分法は、それが通俗化されれば、たちどころに植民地主義的な二項対立主義と、その裏返しのアジア的帝国主義の二項対立主義に足下をすくわれてしまうことになる。(『ポストコロニアル』,p.117)

竹内好のことはさておき、溝口氏に関していうなら、彼のナラティヴには、強力な本質化傾向があり、それが彼の中国思想史フレームワークを支配しています。総じて言えば、、「中国」は、日本の知的言説においてはたいていの場合、受け身の客体として叙述されてきたのであり、その点では、溝口氏と帝国主義時代の「東洋史」との間には大きなちがいがありません。ジェンダー批評の理論を用いてテクストを解釈するという試みは、こうした「ナラティヴの解けない結び目」をじゅうぶんにかいま見せてくれます。

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