Wednesday, June 17, 2009

启蒙和enlightenment

『読書』2009年6月号の巻頭記事、邓晓芒《启蒙的进化》は、中国的「啓蒙」と主にカントに代表される西洋近代的「啓蒙」とのちがいを明確に指摘したものですが、内発的近代化論の(不)可能性を冷静かつ客観的に分析している点で、示唆的です。例えば、

実際、李贄の気解放論は、人々がみずからの悟性を用いて自らの独立した人格をコントロールすることを保証するものでないことを顧炎武は見抜いていた。だから彼が示したことは、李贄が理想化したり美化したりした人間性のもう一方の側面、つまり、中国人が理解しているところの束縛のない自由とか個性といったものが実は恐ろしいものであるということなのだった。彼の李贄に対する省察は、わたしたちが今日「文革」に対して行う省察と軌を一にしている。顧炎武のことばにはなんら「間違い」はなく、それはまったく正しいものだったのだ。

中国の近代的啓蒙と西洋の啓蒙思想の大きなちがいはというと、中国の啓蒙思想ははじめから「啓蒙と救亡の二重変奏」(李沢厚)の色合いを有していたこと、つまり、伝統的士大夫の政治的道具論の色合いを有していたことである。啓蒙によって救亡し、中国を振興し、治国平天下をなしとげる。これはそもそも間違ってはいないし悪いことではない。しかし、この視点だけに立脚するというのは、逆に言うと「救亡が啓蒙を圧倒する」ことは必然だということであり、ひいては、「圧倒する」とすら言えず、ただ「啓蒙が救厖に転化した」というにすぎないことにもなる。こうした転化は、啓蒙そのものからすれば、間違いなく退化なのである。

鄧暁芒氏(1948年-)は武漢大学哲学系教授。カントやヘーゲルの研究者。近著に《思辨的张力:黑格尔辩证法新探》(商务印书馆,2008年)。『読書』の文章は、主に彼の師萧萐父に対するオマージュであり、同時に強烈な批判でもあります。いずれにしても、『読書』が最近好んで取り上げる、この「蕭学」哲学は、なかなか気になるところです。
他にも、『読書』2008年12月号には、许苏民《为“启蒙”正名》があります。

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