先ほどアップロードしたばかりのポストでは、日本語のオリジナルが失われてしまったと書いたばかりなのですが、思いがけないことにふだんほとんど使うことがないために忘れられていたクラウド上に保存されていました!以下の通りです。
「四川-福島ワークショップ」報告
日時:2014年11月22日(土)~11月25日(火)
場所:福島県郡山市、福島県川内村、福島県富岡町、福島県浪江町、福島県いわき市、東京大学駒場キャンパス
主催:東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」
2014年12月5日
石井剛
郡山での国際力動的心理療法研究会(IADP)参加、川内村での宿泊を経て、富岡町、浪江町、いわき市をめぐる1泊2日の原発被災地フィールドワーク、そして、その翌日の駒場でのシンポジウム。合計3泊4日のあまりにも濃密な体験について、語るべきこと、記録しておくべきことは山ほどあるように感じる。だが、津波にうちひしがれた、住む人のいない被災の現場に立ち竦んだとき、いったいどのようなことばを発することができるだろう。書かれたものは「知恵の外見であって、真実の知恵ではない」という『パイドロス』のことばを、これほど身を以て感じることになるとは。
具体的な記録はプログラム生の若々しい報告に任せることにして、わたしは今回出会った一人ひとりの方々のことを思いながら、このワークショップが「共生のプラクシス」としていかなる意味をもちうるのかを考えることにしたい。
記憶は忘れられたかのように身体の奥底に刻み込まれている。ソクラテスは書かれたものの限界を指摘しながら、なおも魂の中に書きこまれたことばがつねに新しい種子を含み新たな言葉を生んでいくことの希望と幸福を強調している。それを可能にするのが、ディアレクティケーという技術であった。だが、身体の奥底に刻まれた記憶は時として、破滅的な暴力となって記憶を載せる身体を傷つけ、滅ぼすことすらもある。「忘れてはいけない」のではない。そもそも忘れることはできないのだ。問題は忘れられたかのようにしまい込まれた痕跡(トラウマ)を、いかにして宥めながら想起できるかということだ。
『荘子』大宗師篇には、次のような寓言がある。
泉涸,魚相與處於陸,相呴以溼,相濡以沫,不如相忘於江湖。
泉が枯れると、陸にうち捨てられた魚たちは、唾液で互いの身体を濡らし、生き延びようとする。そのような「災害のユートピア」よりも、江湖の中で互いに忘れてしまったほうがいいとこのことばは告げている。だが、水を得て忘却していればそれで幸せなわけではなかろう。とりわけ、トラウマの体験が集団化し、社会全体がPTSDを背負ってしまっているかのような場合には。東日本大震災から4年が過ぎようとしているいま、地震、津波、放射能に次ぐ4番目の災害、それは記憶の「風化」だという意見を聞いたことがある。復興の道筋が立たないまま、被災地のことが人々の耳目に入ることは少なくなる一方だ。しかし、被災地では忘れることどころか、いまもなお被災は続いており、しかも、「がんばろう」のかけ声とともに、触れたくない記憶は沈黙の底に追いやられる。
今回のワークショップでは、参加者や訪問先で出会った人たちが、それぞれのかたちで、忘れられたかのように魂のどこかに刻まれたまま眠っていた自らの記憶をもういちど拾い上げるというプロセスが見られた。被災の現場に立ち会うことがいったい何を意味するのかと考える際に、このことは一つのヒントを与えてくれているように思われる。
当初はこのようなことになるとは予想していなかった。わたしはこの企画の立ち上げの段階から、中国で被災の現場に取り組んでいる人々を巻き込むことが重要であると考えていた。中国を選んだのは、2008年の四川省大地震の記憶が念頭にあったからだし、それが念頭にあったのは、わたし自身が仕事上とプライベートとの両面において中国と深く結びついていたからに過ぎない。だから、本質においては国がどこであってもいいのだ。要は、国際的な人のネットワークのなかで、災害と人について共に考えること、とりわけ、現場同士をつなぐことが重要だった。今回は、たまたま、四川と福島という二つの現場がつなげられたに過ぎない。しかし、結果としてわたしたちは、単にこれら二つの現場がつながっただけではなく、多くの現場がつながる可能性を見出すことができた。
特別なことをしたわけではない。郡山で、川内で、富岡で、浪江で、いわきで、そして駒場で、わたしたちは時間と場所を共有しながら、ひたすら食べ、飲み、そして話し続けた。行く先々で出会った人々を巻き込んで、語り、笑い、歌い、そしてたまには涙しながら。
もし、この奇妙な協働に何らかの意味をわたしなりに賦与するならば、それは「江湖」を取りもどす行為であると言いたい。
魚たちはなぜ江湖において互いに忘れることができるのか。「江湖」とは一体どのような場所なのか。『荘子』はなぜ、「泉」ではなく「江湖」においてあい忘れると述べるのか。中国語において「江湖」は、道徳的に啓蒙された社会からつねにはみ出す外部的世界として表象される。そこに働いているのは儒家のモデストな倫理であるよりも、野卑な任侠の精神である。彼らは游侠としてひとつところにとどまることなく、各地を流浪し、顔ぶれが固定することは決してない。血縁とも地縁とも無関係で、ただ游侠であることによって生まれる相互の信頼だけが、「江湖」の人々にとっての倫理の源泉となる。泉が水の来源を指示する中心を持った水域であるのに対し、江湖の水はつねに入れ替わりながら流動している。わたしたちは「江湖の交わり」のうちにこそ、新しい共同体の可能性を見いだせるというのは、わたしがこの数年間持ち続けているある種の予感である。
そして、「江湖」において「あい忘れる」ことが、異なる想起を経ることによって成し遂げられることを知ったのは、わたしにとってとても重要な体験であった。それは、彼ら力動的心理療法の専門家たちが用いる方法に通じるのかもしれない。王文忠氏(中国科学院心理研究所)は、その手法を諧謔的に「暴力的心理療法」と呼ぶ(「力動的心理療法」は中国語では「動力的心理療法」となる)。「あい忘れる」と言っても、忘却とは原理上、ゼロにもどすことではない。トラウマは決して無に帰すことがないのだ。魚たちがあい忘れるというのは、忘却の彼方にトラウマを追いやることではなく、ときどき思い出すことによって、それを宥めていくことでしかないのだと力動心理学は告げる。橋本和典氏(国際基督教大学)の、「地震酔いを止めるためには自らが揺れてみることだ」というのはそういうことであろう。しかし、そのためには、人に対する強い信頼感が不可欠であることを、江洪濤氏(甘粛省蘭州市身心健康学会)の「坐姿後倒」法は教えてくれる。「江湖の交わり」とは、そのような信頼の基礎の上に成り立つ、偶発的な共同体ではないだろうか。
わたしたちが川内で宿泊したのは、震災後に復興の拠点とするべくかの地に工場を設立した企業が復元した、茅葺き屋根の古民家であった。わたしたちは、竹炭をくべながら、そこで明け方まで囲炉裏を囲んだのだ。そして、いま思い返して夢想するのは、この川内村の囲炉裏端こそが、「江湖の交わり」を可能にするわたしたちの希望のありかなのではないかということだ。そこでこそわたしたちは、「相濡以沫」の協働を「あい忘れる」ことができるのではないだろうか。「あい忘れ」た先にわたしたちは新たな道を開くことができるだろう。ソクラテスが次のように言っているように。
その言葉というのは、自分自身のみならず、これを植えつけた人をもたすけるだけの力をもった言葉であり、また、実を結ばぬままに枯れてしまうことなく、一つの種子を含んでいて、その種子からは、また新なる言葉が新なる心の中に生れ、かくてつねにそのいのちを不滅のままに保つことができるのだ。(プラトン『パイドロス』岩波文庫版、p.170)
「あい忘れる」ことが無に帰すことではなく、信によって支えられた想起を通じて、記憶を宥めることだとすれば、それが可能となるのは、このような「江湖の交わり」が新たなことばの生成をもたらすからだ。
『荘子』大宗師篇には、上の引用のあとに、もう一つ対となる次のような句が続く。
與其譽堯而非桀,不如兩忘而化其道。
わたしたちが泊まった古民家の名が奇しくも「両忘庵」であったことにここで言及しておかずにいられない。この句は、伝説の善王である尭を誉めそやし、名高い悪王の桀を非難するよりも、「両忘」して道に化していくほうがよいと述べている。「其の道に化す」とは、まさに新しいことばの生成に期待することであってこそ「江湖」と対をなす。「両忘」するとは、善と悪の両方を忘れるという意味だろう。しかし、わたしたちはここで繰り返し思い出そう。「忘れる」ことは、忘却の彼方に記憶を無みすることでは決してない。忘れることはできない。できることは、信に支えられた想起によって、その忘れられない痛みを宥め、新たなことばの種子をまくことだけだ。そのための「江湖」を広げることこそが、「終わらぬ被災経験と人文学の役割」というシンポジウムのタイトルに対するわたしの回答だ。
旅先で出会ったすべての方々に感謝したい。そして今回まかれた種子をまた拾いに行きたい。
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