Monday, December 5, 2011

哲学的道德责任

韩少功《重说道德》(《天涯》2010年第6期)は、近代的デモクラシーが標榜する平等主義と、ポストモダン思想の弊害としてしばしば糾弾される相対主義(韓少功自身は「多元主義」と呼んでいます)とを共に批判しつつ、哲学の道徳的責任を問い質そうとしています。
それは、近代主義ともナショナリズムとも異なる新しい普遍のかたちに対する期待であり、その探求に向けた知的実践のあり方を問う批判言説でもあります。

彼らは(哲学研究者を指す)「差異」を独り占めし、「多元」に長け、普遍性、本質性、客観性と仲違いすることをを誓うことで、たしかに立派な仕事を成し遂げてきた。そこには、さまざまなイデオロギーの有する神性に対する破壊も含まれている。だが、彼らの神経質な懐疑性が道徳的ニヒリズムに陥り、毒入り粉ミルクを前にしても怒りを表すこともなく、もしくは、怒りを表す前にまず頭いっぱいの学術を凍結させなければならないのだとしたら、書斎専用の武器は社会的現実からあまりにもかけ離れたものだということになる。学術の長所は、問題をより発見と解決に向かいやすくするものであるはずで、問題の発見や解決をより困難なものにしてしまうことではないし、それによって人々がより行動しやすくなるはずのもので、行動に際してより鈍感で、足を引っ張る、ぼんやりした、臆病者を造り出すものではないはずだ。

もちろん、学術と実践のつながりを性急に求めることは、とりわけ哲学のような人文学に対する無理解と排除の温床にもなりかねません。しかし、学術の独立という美名のもとで、人類に普遍的に共有されているはずの、なにがしかの「道徳のボトムライン」に対する感受性さえも麻痺させることがあってはならない、というのが韓少功の主張です。
このような省察は、論文の標題にも現れている通り、直接的には、今日の中国社会の現状に対する危機感と批判意識に根ざすものです。しかし、上の引用がアラン・バディウを意識しながら書かれたものであることにも象徴的なように、問題は中国特殊なものではなく、むしろ世界的な時代の特徴が、この文章によって剔决されていることに気づくべきものでしょう。

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