Wednesday, September 14, 2011

不再要广岛!

《天涯》2011年第5期が届きました。陈言《不再要广岛!》というエッセイが最初に目に入ってきました。
標題はもちろん、ノーモア・ヒロシマの中国語訳です。文章は主に吉本隆明の反核論をなぞりつつ、原子力の平和利用が核兵器反対と両立するのかどうかを考察しています。筆者の分析は、日米安保条約体制下で「核の傘」に守られることを選択した戦後日本の安全保障政策には潜在的な核武装の可能性が残されているというものです。筆者は次のように指摘します。

3.11日本大地震の2日前、3月9日付の「朝日新聞」は、石原慎太郎が中国の脅威に対抗するため、日本は核兵器を持つべきだと述べたと伝えている。(中略)しかし、思いがけないことに、1980年代初めに大江健三郎らと共にヨーロッパ視察に赴き、ヨーロッパ反核運動に参加したのもまた、この石原慎太郎なのである。核の平和利用のために原子力のスイッチをコントロールしようとする手が、核爆発のためのスイッチを押すはずがないとはだれも言い切れないのである。

いっぽうで筆者は大江健三郎にとって、ヒロシマがいかに重要な文学的テーマであったかを振り返りつつ、その大江が中国の核実験について反対ではなかったことに触れています。
しかし、筆者はそのことによって、冷戦構造下での自力更生とか、原子力の平和利用といった限定つきで核を認める訳ではありません。

問題は、大江健三郎のような豊かな想像力を持ってしても、恐ろしい核戦争よりも先に、日本で千年に一度の大地震と津波が発生し、しかも平和利用の核が漏洩するなどとは想像できなかった。日本における核の混乱という事実は、原子力安全神話の破綻を証明している。(中略)中国にかぎってそのようなことが起こらないという保証はできない。しかし、わたしたちが見ている状況はと言えば、日本の放射能漏れによって世界的に反核機運が蔓延しようとしているときに、中国の大多数は高みの見物を決め込み、原子力発電専門家の中には、「反核主義」は偏った核への恐怖心理のあらわれであり、「狭隘な平和主義」であると批判する者すらいる。だから、大江の中国核実験に対する矛盾とねじれに対して、わたしは安穏とした心持ちで向き合うことができないのだ。


ヒロシマの後では、どんなに美しいことばも権利を失っている。ただ核に対する態度が世界的に換骨奪胎の変化を起こさない限りは。ただ単に原子力のすばらしさと正義の一面をたたえるだけではもはや意味がないのだ。なぜなら、そこでたたえられる人や物が人類を抹殺する罪を犯すかもしれず、しかもその罪は往々にして純粋と至善の名のもとにおこなわれるからだ。

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