中国における近代化の進展のなかで、帰ることができなくなってしまった場所や、取り戻すことのできなくなってしまったものがある。失われてどうしようもなくなってしまっている、こうした映画は見ているとやりきれなくなってしまいそうだが、それでもはっきりと、暖かさをその中に感じることができる、--少なくとも、まだ耳を傾けている人はいるのだ、少なくとも、わたしたちに代わってそうしたやり場のなさを表現してくれる人がいるのだ、と。
“贾想”=jiaxiang=“假想”であれば、こうしたよりそいの暖かさの源と出発点としての想像力が不可欠でしょう。“贾想”=jiaxiang=“假象”の投影が虚無への入口ではなく、想像の出発点になること、それは彼の映画作品自体であるかもしれません。
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