Thursday, May 14, 2009

“拍电影是我接近自由的方式”

「映画を撮ることはわたしにとって自由に近づくためのみちである」--賈樟柯が自ら自身の映画を語った著作《贾想1996-2008:贾樟柯电影手记》(北京大学出版社,2009年)のことばです。“贾想”=jiaxiang=“家乡”。自由に近づくことと郷愁とは、逆向きのベクトルのように感じられるのですが、必ずしもそうではないのだとしたら、どうすればそれは可能になるのでしょう?『中華読書報』(2009年4月8日)の書評(孙小宁)にはこうあります。

中国における近代化の進展のなかで、帰ることができなくなってしまった場所や、取り戻すことのできなくなってしまったものがある。失われてどうしようもなくなってしまっている、こうした映画は見ているとやりきれなくなってしまいそうだが、それでもはっきりと、暖かさをその中に感じることができる、--少なくとも、まだ耳を傾けている人はいるのだ、少なくとも、わたしたちに代わってそうしたやり場のなさを表現してくれる人がいるのだ、と。

“贾想”=jiaxiang=“假想”であれば、こうしたよりそいの暖かさの源と出発点としての想像力が不可欠でしょう。“贾想”=jiaxiang=“假象”の投影が虚無への入口ではなく、想像の出発点になること、それは彼の映画作品自体であるかもしれません。

No comments: