Monday, November 23, 2009

《读书》2009年第11期目录及其他

『読書』最新号(2009年第11期)の目次(主なもの)は以下の通りです。
何梦笔《经济转型:规则与选择》
陈彩虹《以邻为壑的货币政策》
钱正英、马国川《中国水利六十年(下)》
李泽厚、刘再复《存在的“最后家园”》
白永瑞《思想东亚》
丁元竹《理解均等化》
钱永祥《政治哲学作为道德实践》
刘丽蓉《人世禁欲、资本主义精神与梅毒》
柄谷行人《重建共产主义形而上学》
强世功《“不成文宪法”:英国宪法学传统的启示》
徐斌《公民的尊严:立法vs.司法》
张晓唯《竺可桢日记里的大学秘史》
刘东《文字之缘与题跋意识-关于宋代文人心态的三通批注》
利求同《私家藏书的“不散之散”》
吉柄轩《国弱无外交·使弱交不成》
旷新年《以卵击墙》
黄专《一个现代叙事者的多重世界》
杨伟《在《夕子的近道》上邂逅大江健三郎》
洪作稼《古典音乐指挥家纵横谈(上)》
汤双《曾经发生在德国的反爱因斯坦运动》
马万利《传道授业与篡改历史》

たまたまなのかどうなのか、日本関係の文章が多いですね。柄谷の文章は時々掲載されます。もちろん、彼自身は中国語を解さないので、だれかが翻訳しているわけです(訳者名が抜け落ちることがよくあるのがちょっと問題ですが、それはさておき)。今回の文章は、どうやら『トランスクリティーク』の中国語訳がまもなく完成(?)か出版(?)されるのに併せて、原版出版後の彼の思想について、彼自身が中国語読者に紹介しているものです。旷新年《以卵击墙》は村上春樹の例のイスラエルでの受賞講演を引き合いに出しながら、張承志の新著《敬重与惜别-致日本》を紹介したものです。張承志は清華大学付属高校時代に紅衛兵となり(彼自身の回顧によると、「紅衛兵」の名付け親だそうです)、内モンゴルの草原で下放生活を送り、80年代後半以降、日本でもその名を広く知られることになった作家です。彼は長期にわたって日本での生活や見聞を《天涯》に連載しており、ユニークな日本論を展開しています。そのほか、大江の名前も挙がっていますね。大江、村上、柄谷、とそれぞれまったく異なったタイプの三人ですが、日本の思想状況を知る窓口としては、おそらく(賛否いろいろあるとしても)、たぶん広く国外で共有されているとおりでしょう。
2年ほど前、汪暉と黄平が突如編集の職から解任されたことは、中国国内でいろいろな憶測と反響を呼び、日本でもその筋の事情通らしい人々が、紹介や評論を展開していました。しかし、その後の『読書』については、目立った分析がありません。国内各所で開かれた事件をめぐる座談会の中で、『読書』をずっと支え続けてきたもと編集代表者の董秀玉が、若干いらだたしげに、「更迭という事件にばかり焦点が向けられていて、『読書』を引き継いだ次世代の編集者に対する関心が乏しすぎる。」という趣旨の発言をしていたことを思い出します。彼女は同時に、すでに編集スタッフの一員として長いことスキルを蓄積してきた新編集陣が、そんなに簡単に『読書』の精神を終わらせてしまうはずはない、『読書』は世代を新たにしてより発展していくに違いない、ということをも述べていました。確かに、その後の『読書』には変化がありました。今号の目次にも顕著なように、巻頭に近いところに改革開放以後の経済・法制などの変化とその成就を回顧的に振り替える記事が増えたこと、李沢厚のような今日的文脈ではもはや当たり障りのなくなっている文化人の登場が増えたこと、などはその一部です。しかし、韓国の白永瑞にせよ、柄谷にせよ、90年代後半以降、日本、中国、韓国の間で盛んになった知的交流の過程で相互に見出された知識人ですが、そのプロセスには汪暉や黄平、そして『読書』が積極的に関わっていたのでした。記事の書き手もずっと継続しており、その点でも、その後の『読書』は、編集者の交代によって当然起こるべき変化を見せつつも、やはり、もとの『読書』としての性格をほぼそのまま継承することに成功しています。
現象を追いかけて、それを適確に伝えることは重要なことです。しかし、対象を把捉するための道具が相変わらずの二元論的図式やイデオロギーを前提とした権力論的分析の枠組みでは、現象の認識どころか、イデオロギーや「ためにする議論」の上塗りに終始してしまうのではないでしょうか。

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