Monday, September 28, 2009

Talkin' China

Angela Pascucciはイタリアのジャーナリスト。Talkin' China (Roma: Manifestolibri, 2008)というその近著が『中華読書報』2009年8月19日で紹介されています。温鉄軍(三農問題専門家、郷村建設運動推進者)、于暁剛(環境保護運動家)、莫少平(弁護士)、崔之元(清華大学教授)などの著名人から出稼ぎ労働者に至るまで、さまざまな立場と背景の人に対するインタヴュー集ということのようです。記事は汪暉が同書に寄せた序文の中国語訳ですが、その中ではこう述べられています。

今日の西側メディアにおいては、「中国脅威論」の呼び声や、中国にはデモクラシーや人権がないといった指摘があたりまえのことになっている。これらの観察にはそれなりに根拠があって、情勢の変化にともなって大きく変わっていくものでもあるが、ここではそれに対して具体的に私見を述べようとは思わない。わたしが関心を覚えるのはもう一つの問題だ。つまり、こうした報道が多くは中国を完全な客体であると見なしており、この巨大な社会のなかにはさまざまな社会勢力や、思想的立場のちがいがあって、それらが駆け引きや、協調、衝突を繰り広げているということがそこではあまり表現されていない、ということなのだ。この本の書名が「話す中国」であるということが暗示しているのは、このような「チャイナ・ウォッチング」において、中国は沈黙を保った、声なき存在だということだ。

文章のなかでは、革命時代にアグネス・スメドレーやエドガー・スノーら、西側ジャーナリストが果たした役割について肯定的に言及されています。かれらは、「中国に対する観察や報道を彼ら自身の社会が直面している問題と結びつけて考えていた」のであり、その結果、「みずから中国の大いなる実験に参加していった」のだと。「参加」ということばを、何も、何らかの立場へのコミットや肩入れという風にとらえる必要はないでしょう。被写体として見つめるだけでなく、当事者の息づかいに寄り添うこと、それによって、単なる「観察」からは見えてこないものが見えてくるのではないか、それはある種の希望へとつながるものではないか、そのようなことがこの中では語られているのだと思います。ネットで検索する限り、手に入りにくい本のようですが、ぜひ手に取ってみたい一冊です。

Sunday, September 6, 2009

如何言说文化中国

李梅《如何言说文化中国》(文化中国をどのように語るか、《中华读书报》2009年7月29日《文化周刊》)は、5月に山東大学が主催したシンポジウム“传统与现代:中国哲学话语体系的范畴转换”を切り口にして、「中国・哲学」の可能性について論じています。中国に哲学はあったのか、という問題はすでに話題としては古いものになりましたが、確かにあらわれては消え、消えてはあらわれる、古くて新しい問題です。李氏の文章は2001年頃からのこの問題をめぐる言論の動向をコンパクトにまとめているので、一部抜き出しながら以下に紹介しておきます。

2001年9月、デリダは中国での旅程で、百年以上前のヘーゲルに応答するかのように、「中国に哲学はない、あるのは思想だけだ」と述べた。この事件は、その後、中国哲学の「合法性」をめぐる議論の中で繰り返し取り上げられたが、それは一つの導火線に過ぎない。

「中国哲学の合法性」というのは、当時中国社会科学院哲学研究所にいた鄭家棟氏が取り上げた問題で、それはフランスのジョエル・トラヴァール氏や北京大学の張祥龍氏が論争を引っ張りながら、中国における「哲学」の困難と可能性について興味深い話題を提供したのでした。

1986年には、張汝倫が異文化間の概念や術語の「通約不可能性」について体系的に論じ、相異なる理論は、同一の概念や術語を使うことが仮に可能であっても、それらは各々の理論の中では、相異なった意義を有しているとした。20世紀初頭以来の中国近代哲学は、西洋の哲学概念と言説体系を用いて中国の伝統哲学思想を分析し論じた。したがって、世界の学術と「平等な対話」を求めるという時代の要求は、中国哲学の既成の語り方に疑義を投げかけただけではなく、学理においても、概念の「通約不可能性」というアポリアが中国哲学の「合法性」に関する思考にぶつかったとき、こうした「西洋によって中国を解釈する(以西释中)」、「さかのぼって意義を当てはめる(反向格义)」、「漢語で胡(西)を語る(汉话胡(西)说)」といった語り方は、考察と批判の対象になり、アカデミズムの視野に入って、話題の焦点にならざるを得なくなる。雑誌『文史哲』が「伝統と近代:中国哲学言説体系のパラダイム転換」というテーマでシンポジウムを開催したのは、まさに時宜にかなったことであった。

シンポジウムの発言者としてここに挙げられているのは、張汝倫(復旦大学)、曾振宇(山東大学)、王中江(清華大学)、丁冠之(山東大学)、陈来(北京大学)です。共通の議題になったのは、厳復による「気」や「天」概念の読み替えをめぐる西洋の哲学概念・方法の移植と中国伝統術語の意義転換の問題であったようです。

王中江はさらに述べる。概念の還元には基準があるべきだ。儒学という概念について言うならば、それを還元するのに、宋明理学の儒学にまで還元するのか、それとも董仲舒のころの神学化した儒学まで還元するのか、またそれとも孔子の時代の儒学にまで還元するのか。西洋概念を大胆に使用することも可能だろう、今日の中国哲学はすでに、単純な還元論を克服しているのだから、と。西洋哲学出身の張汝倫はこれにただちに反論を唱えた。そんなに簡単に克服できるはずはない、西洋の概念は単純に持ってきて使えるというものではない、と。彼は、「ちがいを意識する」ことを基礎にした上での交通と融合を主張し、西洋概念の伝統や理論的背景を無視した、学界における「附会」や概念使用の傾向を批判する。

張汝倫氏はほかにも「具体的な問題をもっと論じるべき」との発言をしているということです。この一言こそが、この問題をめぐるかしましい議論のあら熱をさます肝なのかもしれません。