なぜこのような現象が起こるのかというと、名字の決定と使用については公民の自主権が保障されているからのようです。王氏によると、
「民法通則」第99条の規定では、「公民は氏名権を有し、自らの氏名を決定し、使用し、規定に従って改変する権利を有すると共に、他人による干渉、盗用、なりすましを禁止する権利を有する。」とある。
のだそうです。多民族国家である中国では、そもそも「中国人のような」氏名を常識的に識別し判断することは困難です。「愛新覚羅」のような満族の名字は有名ですが、それ以外にも、例えばモンゴル族のようにそもそも名字という概念が希薄な民族もあり、一律「姓氏」を名乗らなければならないというのは不合理です。「氏」と「名」が一対となって個人を名指すのに使われるというのは、もちろん漢族の伝統にしたがっているのですが、その名字にしても、はじめから漢族であることを示していたわけではありません。王氏は言います。
わたしたち中華民族は漢族を主体とし、各少数民族の長期的な融合によって形成されてきた。民族文化の融合の過程では、多くの少数民族が漢文化の影響を受け、自民族にもとあった氏名制度(父子連名、有名無氏、複数音節名字など)を漢族の習慣的な氏名形式に改めた。例えば、複数音節名字の単音節化のように。わが国の歴史書の記載に現れるきわめて多数の二字姓、すべての三字姓、四字姓、五字姓は、いずれも古代の少数民族の名字を音訳したものであり、時代と共に、こうした複音節名字のきわめて多数が、単音節の名字に改められた。
実際、モンゴル族の中にも、自分の名前(漢字を当て字として使っている)の最初の文字を、子供の名字として登録している例が見られます。逆に言うと、単音節名字でいかにも漢族らしい名字であっても、上の引用のような経緯で、もとは少数民族の血統にたどり着くという例は数多くあります。
新しい名字の出現については、紛々たる議論を巻き起こす可能性がないわけではありませんが、そこに感じられるおおらかさには、名字のかたちを「国民」の要件と結びつけようとする手つきとはまったく無縁な小気味よさがありませんか。