Thursday, March 19, 2009

重新认识“阿Q”(续)

前回紹介した張旭東氏の論文に対して張氏に送った感想(箇条書き)をアップロードしました。中国語ですが、興味のある方はこちらをクリックしてください。

Monday, March 16, 2009

重新认识“阿Q”

ニューヨーク大学の張旭東(ZHANG Xudong)氏は、1980年代の文化ブームから豊かな刺激を受け、フレデリック・ジェイムソンに師事し、今日では中国語の論壇の中で最も注目されるポストモダン批評家です。もともとは、カント以降、とりわけヘーゲル、ニーチェ、ルカーチ、ベンヤミンらの理論言説を武器としながら、グローバル時代における中国の文化アイデンティティをめぐる考察をきっかけに中国国内での名声を獲得した人ですが、近年は魯迅のテクストに対する再解釈でその才覚を発揮しています。その中では、竹内好はもとより、丸尾常喜などの日本における魯迅研究に対する関心が払われています。日本の魯迅研究が中国語論壇で参照不可欠なものになっていることは、「業界」ではすでに常識に属するのでしょうが、自身アメリカに身を置きながら、ドイツ系の重厚な批判理論に対する堅実な理解を基礎として考察を展開する彼の存在は、今後、日本でも注目を集めるのではないでしょうか。
その近作、《中国现代主义起源的“名”“言”之辨:重读〈阿Q正传〉》が上海・華東師範大学の「思与文」サイトにアップされていましたので、リンクしておきます。

Saturday, March 14, 2009

草原上的神圣生活

久しぶりに《开放时代》でおもしろい論文を見つけました。南鸿雁《草原牧者:边缘地带上的天主教会》(2009年第2期)です。ただ、読んでくれいている方には恐縮ですが、これがおもしろいと感じたのは甚だ個人的な理由によるものです。文章は、内蒙古自治区オルドス市(かつては伊克昭盟と呼ばれていましたが、盟から市へと格上げされたのをきっかけに「オルドス市」に改称されました)のオトク前旗(颚托克前旗)におけるカソリック信仰をめぐるエスノグラフィーによる論文です。わたしがいたエジンホロ旗(伊金霍洛旗)はこのオトク前旗の東南で接しており、一度車で旗政府所在地の小さな町まで行ったことがあります。エジンホロ旗に比べてもまだ小さな、「鄙びた」という形容が思わず浮かばずにはいられないような荒涼としたところでした。
伊克昭盟でのキリスト教伝道の歴史について、この文章では20世紀前半に主にベルギー人を中心とする宣教師が布教活動を行っていたと紹介しています。ベルギー人宣教師モスタールトの『オルドス口碑集』が日本語に訳されて東洋文庫に入っています。モスタールトは1920年代にエジンホロ旗の南にある烏審旗で伝教活動を行っていた人で、わたしはずっと、この地域にいたほとんど唯一に近い外国人ではないかと勝手に疑っていたのでした。
さて、論文の作者は執筆の動機についてこう述べています。ちょっと長いですが引用します。

江南に来て仕事をするようになってからかなり長い間、次のようなことを尋ねてくる学生いつもがいた。「先生、先生のご実家はモンゴルだそうですけど、学校に行くには馬に乗っていくんですか。」最初はわたしも我慢してこう答えていた。「わたしの家は内モンゴルです。モンゴルは別の国ですよ。」しかし、このような答えは学生の好奇心をあまり満たしてはいないようだった。その後同じような質問に遭うたびに、わたしはまじめに答えることをやめて、逆に冗談を言うようになった。「わたしたちは町では馬に乗って学校に行くだけじゃなくて、仕事だって馬に乗っていくんだよ。」そして、このような冗談がかえって彼らを満足させられることに気がついたのだった。
こうした、異民族に対する原始的なロマンティックな描写や想像は、西洋のアカデミズムではとっくに批判が提出されている。彼らは、こうした想像は植民主義の影響と関連していると考えている。指摘しなければならないのは、このような描写や想像が国外では批判されているといえども、多くの人にとって、こうした想像があいもかわらず異文化を理解する主な回路になっているということだ。
中国のアカデミズムにおける少数民族に関する研究や記述にも同じような問題が存在している。文学、映像、芸術、メディアの報道などにおいて、中国の少数民族はほとんどの場合、奇妙で色鮮やかな民族の伝統的ファッションを身につけ、歌い踊り、手には杯を掲げて、来客を迎える……といった具合だ。明らかに、マジョリティの想像をかき立てるのは、少数民族の原始性や自然さ、そして文化的差異がもたらすロマンや好奇心といったものであり、モンゴル族や草原文化に対するわたしの学生の想像も、やはりこうした心理に基づいている。しかし、現実と想像の間の差異は常に埋められなければならない。それが本稿を書いた目的だ。

そう、当たり前のことですが、内モンゴルの「草原文化」に限らず、あらゆるコミュニティはその大小にかかわらず、多様で複雑、かつ多元的な現実から成り立っているに違いないのですが、それを外部から見る場合に、ステレオタイプやオリエンタリズムに代表されるようなエキゾチックな表象に対する想像から自由になることが難しいのは、作者の学生に限ったことではないでしょう。
論文は、現体制下における宗教政策、人口政策などと、この地方におけるカソリック信仰生活との間に存在し続ける敏感な緊張関係について、冷静な分析をしています。論文の指摘を待つまでもなく、政治権力と宗教権力との相剋の中で、いかにして政治の介入から信仰生活の総体性を守っていくかという問題が彼らの生活には存在しています。この辺のことは、自らもキリスト教徒であるという、慶応の田島英一氏が『中国人、会って話せばただの人』(PHP新書、2006年)の中でも書いていますので省略します。オトク前旗でも当然この問題はあって、信者たちが政府対策としてあの手この手を考えていること、そして現地政府も原則をくずさない程度に「目をつぶって(睁一只眼闭一只眼)」いるという例を紹介しています。
問題は問題として存在しているのだとしたら、それにどのように向き合っていくのか、そこに重要な政治的生活の意義がかかっているのであり、そこへの視座が獲得できるかどうかは、マクロな視点や外在的な視点によってはアプローチが困難な現象に対する理解と想像の力、そしてミクロに入り込む生活感受性に負うのではないかと思います。ましてや、外部的視座が「植民主義」的な影響から自由にはなれないのだとしたらなおのことです。その意味で、エスノグラフィーの方法は有効であろうというのは、この論文が示すとおりでしょう。